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2.





『魔女』


 世界には魔女と呼ばれるモノが存在している。


 この唯物社会において、真に馬鹿馬鹿しくも嘘臭い話ではあるのだが、揺るぎようのない事実なのだから仕方がない。

 そして魔女は人類にとって都合の悪いことに――一部の人間には都合の良すぎることに――【願望を叶えるための『魔法』を与えてくれるのだ。】


 例えば誰かを殺したいと願えば、人を殺すための『魔法』を。

 金が欲しいと願えば、金を手に入れるための『魔法』を。

 どんなにインモラルな欲望であろうと、どれほど周囲に被害をまき散らす願いであろうと。


 魔女に願えば、叶わない願いは、ない。


「で、どんな奴なの? 捕まえた魔女憑きは」


 サテライト本社の地下を歩きながら、私は巌本に尋ねた。

 魔女に願いを【叶えてもらった】人間は『魔女憑き』と呼ばれる。


 すでに魔女と取引をした者。

 すでに手遅れの存在、だ。


「名前は西藤敬太。二十四歳。男。大学生。父親は都議会議員の西藤孝雄。母親は華道八萩流の家元。かなり裕福な環境で育ったようだな。補導歴・逮捕歴は無し――というのが公式資料だが、実際は暴力事件、婦女暴行容疑、恐喝容疑で何度も警察に出入りしている。被害者は」


 少し前を歩く巌本は、一瞬そこで言葉を区切ったが、


「被害者は全て女性で、西藤に性的関係を強要されていた。こういった問題が起きるたびに父親が金を積んで揉み消していたようだ」


 そう締めくくった。

 察するに、どうやら私に対して性的暴行云々の話をすべきか迷ったらしい。まあ十五歳の女子が喜んで聞くような話じゃないのは確かだ。


「素敵な経歴ね」

「屑野郎だよ」

「でも魔女の手がかりだわ」

「無理に生かす必要もない」

「ねえ」


 私は歩みを止めた。振り向いた巌本と視線が交差した。


「気を使って貰えるのはありがたいけれど、使う方向を間違えないで。私にとって大事なのは魔女を捜して殺すこと。それ以外は全て些事。どうでもいいことよ」

「……」


 巌本は暫く私を見つめていたが、やがて無言のまま歩き出した。

 サテライト本社の地下には、一般人は元より会社の中でも一部の者しか降りられないエリアがある。

 一等地に建てられた巨大ビルのB4F。

 エレベーターで降りるには声紋、指紋、虹彩のバイオメトリクス認証をパスしなければならない。おまけに通過した先のエリアも保安警備員セキュリティガードが警備をしている。当然のようにアサルトライフルを脇に下げて。

 そういえばここに来始めて間もない頃は保安警備員の人達も「なぜ子供が」というような胡乱な目付きをしていたが、私が毎回のように全身血まみれで歩き回っているものだから、いつの間にか「そういうもの」として認識してくれるようになっていた。どう扱っていいか分からない、というような気配は煩わしかったので、無視してくれるようになり非常にありがたい。


「神樂。分かっていると思うが、厄介事を起こすなよ。冷静に対処しろ」


 私のちょっと前を歩く巌本が釘を刺してきた。

 ちなみに先程から同じ釘を刺されすぎて、もう何本目になるのか数えるのも面倒くさい。私はそんなに信用がないのだろうか。


「わかってる」

「お前のわかってるは信用できん。冷静に見えるくせにアレだからな」

「アレってなによ」

「…………」


 黙りやがった、このオヤジ。


「とにかく私は冷静よ。何も問題はない」

「そう願うよ」


 B6Fからさらに別のエレベーターに乗継ぎ、B10Fをさらに奥へと進む。

 もうここまで来ると床にも壁にも装飾の類いはなく、無地の白壁が延々と続くことになる。汚れ一つない完璧な白だ。


 ――私はここが嫌いだ。


 ダクトから無音で吐き出される機械臭い空気も、自分の立てる耳障りな足音も、時折人間のものらしい悲鳴が漏れ聞こえてくるのも、全部。

 でも今日だけは、いまこの瞬間だけは、この白い世界に感謝をしよう。

 ここが存在するおかげで、殺したい相手に、一歩近付けるのだから。


「ここだ」


 巌本が足を止めたのは「一人用」の小部屋の前だった。


「何度も言うが、問題は起こすな。相手の言葉には耳を傾けるな。治療だけに集中しろ」

「ええ」


 即答する私に胡乱な視線を向けつつも、巌本が扉を開いた。

 中は六畳程度の小部屋。

 外と同じ真っ白な床は、しかし、赤黒い血溜まりで乱暴に彩色されていた。見慣れた赤と白の強烈なコントラスト。

 中には男が一人、椅子に縛り付けられて座っていた。その両手両足にはそれぞれ三重の錠が掛けられている。繊維強化セラミックス製の拘束錠だ。どれほどの怪力でも、あれを引きちぎるなんて真似は出来ないだろう。

 まあ普通の人間ならば、の話だ。あんなもの魔女憑きの前では気休めに過ぎない。それでも拘束しているのは、不安を少しでも和らげたいという心理が働いてのことだろう。

 私と巌本が部屋に入ってきたことを察したのか、男が僅かに顔をあげた。その左目は潰されており、血液と眼球の水晶体らしき粘液が頬を伝っていた。

 左目を潰してしまえば一時的に魔女からの『加護』を失い魔法を使うことが出来なくなる――これは全ての魔女憑きに共通する明確な弱点の一つだ。


「治すのは脇腹の致命傷だけでいい。左目が再生するにはまだ時間が掛かるだろうが、用心はして――」


 巌本の声を無視して、

 私は、一歩、踏み出した。


「――ッ、おい待て!」

「うるさい」


 無理だ。


 コイツラを目の前にして、殺さないなんてことは、無理だ。

 魔女も、魔女憑きも、私が殺す。

 殺す殺す。


「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」


 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。


 ホルスターから銃を引き抜く。

 スライドを引き撃鉄を起こす。


「問題を起こすなと、あれほど――ッ!」


 私の首に巻き付いてきた巌本の腕を、ギチリと音を立てて噛み千切った。

 鉄臭い血肉を吐き捨てて男に詰め寄る。


「死ね」


 脳天に銃口を突きつけて引き金を引いた――瞬間、襟首を後ろから物凄い力で引っ張られた。驚く間もなく右腕に鈍い痛みが走り、拳銃を取り落としてしまった。


「なにか言いたいことはあるか」


 巌本が低く呟いた。背後から私の右腕関節をねじり上げながら。

 発砲音の残響の中、自分の息が異常にあがっていることに気付いた。

 軽い興奮状態にあったようだ。それを認識し、深呼吸をすることで、頭に昇っていた血が徐々に降りてくるのを感じた。


「……。ごめん。もう落ち着いた」

「治療にだけ集中しろと言ったはずだ」


 ああ、めちゃめちゃ怒ってる。

 巌本はまだ何か言いたげな様子だったが、深い深い吐息と共に右腕の拘束を解いてくれた。これはまた後でぐちぐちとお説教を頂くことになるだろう。


「さっさと仕事を済ませろ」


 喋りながらも私が噛み千切った傷にネクタイを巻き付けて止血している。

 自分でやっておいてなんだが、あれは痛そうだ。あとでちゃんと治してあげよう。


「――仕事。これは仕事」


 目を閉じて自分に言い聞かせる。

 私は医者。目の前には患者。

 これは仕事だ。仕事は完璧にこなさなければならない。私はどんな仕事でも手を抜かない人間なのだ。

 だから治療を行う。それだけ。この男がナニモノであるかは――今だけは、考えるな。


 考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。

 考えるな。


 目を開く。

 患者の容体を観察する。


「脇腹の傷も酷いけど、他も治しておかないと。このままじゃ一日も保たないわ」


 改めて診れば、男は相当に酷い怪我を負っていた。

 左腕は二の腕あたりで千切れかけているし、左腹部には大きな裂傷、右肩は骨が外れて、右足も折れて鬱血が見られた。顔は青白くチアノーゼが起きかけている。

 診断書を書くなら「満身創痍」の一言が一番早そうな怪我具合だ。この男を捕まえたのはウィルシアだと聞いているが、彼女にしては珍しく随分と痛め付けたものである。


「治すだけ無駄だ。情報を引き出したらすぐに『因子特定』にまわされる」

「そうなんだ。でもまあ、殺されるのが分かっていても、いま助けない理由にはならないわ」


 それに、聞きたいこともあるし。

 私は椅子に縛られた男に歩み寄り――真正面から抱きついた。

 密着すると血の臭いがさらに強まる。こうしてみて改めて理解する。雨に濡れたような出血量だ。


「死体になってないのが不思議ね」


 立ったままだと集中出来ないので、男の膝の上に腰を降ろした。脇から見れば恋人に甘える女の子のようにも見えるだろう。


「こりゃ、何のサービスだ」


 男が初めて口を開いた。生臭い吐息が私の髪に掛かる。


「今の話を聞いていなかったのかしら。言ったでしょ、治療するって」

「お医者さんごっこか? イメクラは嫌いじゃねーけど。どっちかっていうと、俺は診察されるより、するほうが、好き――」


 そこまで言って盛大に咳き込んだ。咳に鮮血が混じっている。肺にも傷があるようだ。随分と余裕ぶっているようだが脈も早く呼吸も浅い。相当苦しいはずだ。


「【私は魔女だから魔法で治すのよ。】ごっこ遊びじゃなくてね」

「魔……女?」


 その単語を口にした途端に、男の顔から余裕の色が消えた。当然だろう。この男にとってそれは絶対的な上位者を示す単語なのだから。

 まあ『魔女』なんて誇張もいいところだけど、むしろ同列にされるのは私の方から願い下げだけど、この患者にはそう例えるのが最も手っ取り早いだろう。なにしろ私は医療品も医薬品も必要なく他人の傷を治せる、本物の『魔法』が使えるのだから。


「スキャン」


 自分を治療するためだけの道具に変化させる、短い短い魔法の呪文。全身がにわかに熱を帯び始めた。視覚から青と緑が廃絶され、世界が赤一色に染まる。

 同時に私と男の身体が淡い光を発する赤い繭に包まれた。

 繭の中は私の領域だ。男の身体に関する膨大な情報が脳内に流れ込んでくる。


「出血が多いのは右腹部裂傷と、左腕の欠損部位」


 ――この微かな光の正体は、私の『触手』だ。

 極小であり極細の手。細胞を透過して伸びる触手型の感覚器官。私はこの無数の『手』で患部を『診て』『治す』。


「肋骨左六番が折れて肺が傷ついてる。もう少し深く抉られていたら死んでたわね」

「おい、一体何してやがる」


 男は取り乱した様子で暴れだした。僅かに身体が離れ、男と至近距離で見つめ合うような形になった。


「動かないで。治しにくい」

「だから治すって――お、お前、その目」


 男が驚愕のためか上擦った声をあげた。

 気がついたのだろう。

 私の瞳の虹彩が赤く染まり、周囲の強膜が黒色に変化していることに。


「魔女の、目」


 私が魔法を使う時は身体に変化が起きる。

 先述の眼球の変化、そして体毛も赤く変化する。肉体を廻る魔力量が増えると、私の場合はこういった変化が起きるらしい。肉体が人間側から魔女側へ近付くのだ。


「……」


 やっと男が静かになった。

 張り巡らせた触手から男の恐怖と緊張が伝わってくる。自分に対する恐怖心を自分で感じるというのは気持ちの良いものではないが、まあ耳障りな軽口を聞かされるよりはマシだ。


 さあ傷を治そう。


 まずは男の腹部の傷に触手を集中させる。裂傷は触手を糸のように扱い筋肉を繊維単位で縫合。欠損した筋肉、神経、血管、皮膚は、触手をそれぞれの器官に変化させて補う。

 私の魔法はどんな病気や怪我でも一瞬で治せる、なんて都合のいい能力じゃない。むしろ不可能なことの方が多いだろう。それでも目の前の男のような、欠けた部位を補えばいいような怪我は『得意分野』だ。

 触手はぷちぷちと私にしか聞こえない音を立て千切れ、男の肉体を補っていく。


「なるほど、こりゃ凄ぇ」


 私が言葉の通りに傷を治すだけだと理解したのか、男の緊張が和らいでいくのが感じられた。


「あんた本当に魔女なのか? 俺の知ってる奴とは随分と違うが」

「違うって、どう違うのかしら」

「【アンタまるで人間じゃねぇか。】そもそも人間と連んでるしよ。俺の知ってる奴はもっと――」


 男はそこで口を閉じた。

 当然だ。魔女憑きが親である魔女について語るのは禁忌中の禁忌。魔女はその正体の秘匿に全力を尽くし、その性質は子である魔女憑きにも遺伝する。

 それは魔性としての本能だ。


「もっと【化物】だった、とでも言いたいのかしら」


 だから私が代わりに続いてあげた。

 男は無言を貫いて答えない。


「魔女なんて呼ぶと漠然と人形を想像してしまうけれど、彼女たちに固有の形はない。見る者が『そうであろう』と考える外観を示すだけ。あなたが魔女を畏怖の対象だと考えるのならば、さぞかし恐ろしい姿で現れたでしょうね。

 ――それで、傷を治してあげている代金というわけではないのだけど、教えて欲しいことがあるの」

「あぁ? 治療はそっちの都合で勝手にやってることだろうが。俺が頼んだわけじゃねえぞ」

「そうね。でも覚えておいて。ここに捕らえられた魔女憑きは、それなりに苦しい思いをすることになるの。

 脳みそから足の先までを解剖なり実験なりで徹底的に弄くられて、その人物が魔女を引きつける『因子』と『魔法』発動のためのメカニズムを調査されることになるわ。魔女憑きについては、まだよく分かってないところも多いから。

 私もあなた以外の魔女憑きの治療に三回ほど立ち会った経験があるけど、その三人には揃って「もう治さないでくれ」「殺してくれ」って懇願されたわ。精神も肉体もぼろぼろになるまで弄くり回されて、死にそうになれば、私が傷を治して、そしてまた実検が繰り返されるの。私は頭蓋骨を開かれたまま脳に電極なんて刺されたことないから分からないけど、それなりに死にたくなる経験みたいね。殺して欲しいって泣く人を治療するのは私にとってもわりと憂鬱な仕事だから、出来れば今ここで色々と協力関係を築けると、お互いに嫌な思いをする機会が減ると思うの。

 具体的には、貴方が死にたくなったら治療せずに殺してあげるわ。

 ――それでここまでを理解して貰った上で質問するから、正直に答えて。

 魔女単体としての存在を固定するのは、名前と、その瞳の色だけ。彼女たちは固有の形を持たないから。

 そして、子であるアナタは親である魔女の名を知っているはず。

 それを教えて貰えないかしら」


 私の丁寧な説明を口を挟まず聞いていた男は、ごくり、と生唾を飲み込んだ。

 どうやら私がいま語った彼の『今後』について、真面目に考えてくれているようだ。実にありがたい。

 やがて。

 男は考えがまとまったのか、私の耳元に口を寄せて囁いた。


「お前、俺と一緒に来いよ。そうしたら教えてやる。それなりに可愛い外見してるしよ、こんな所で囚人の相手してるよりよっぽどイイ思いさせてやるぜ」


 私は男の千切れかけた左腕を握り潰した。

 耳元で絶叫があがる。


「あのね。私は子供だし、女だし、使える魔法も傷を癒すなんてものだから、よく勘違いされるのだけど――――別に優しいわけじゃないの」

「あ、ぐっ……クソガキが……ッ」


 男は苦痛に身体を痙攣させる。治療のため男の身体に触手を張り巡らせているので、どこをどう弄れば最も痛みを感じさせられるのか、それこそ手に取るようにわかる。


「神樂。尋問は必要ない」


 後ろから巌本の声が聞こえた。


「尋問じゃないわよ。ちょっとお話をしているだけ」


 そもそもサテライトの人間が欲しい情報と、私個人が欲しい情報は微妙に異なっている。待っているだけで欲しい情報が降りてくるほど、ここは甘い会社ではない。

 私は男の首筋に手を添えた。じっとりと汗で濡れている。経歴を聞いた限り随分と他人を傷付けてきたようだが、自分が被害者になった経験は少ないのかもしれない。


「ねえ。意外に思われるかもしれないけど、私は気が長いほうじゃないの。それを脳味噌にたたき込んだ上で、もう一度口を開いてみて。あなたの親である魔女の名前と、瞳の色は?」

「……」


 男は、答えない。

 目の前にある身体的苦痛と、魔女に対する精神的な抑圧に挟まれて身動きが取れないのだろう。

 ならば、その天秤の傾きを私が調節してあげよう。


「ひっ、なんだ、腹が!?」


 男の腹部が内側から殴りつけられるように、ごぼり、と蠢いた。


「これは余談なんだけど。私が補ってあげた傷口の肉は、完全に馴染むまで時間が掛かるの。私がうっかりその制御を中断すると、際限なく細胞が増殖したりするのよね。

 ――ああ、今はとても、うっかりしてしまう気分だわ」

「ひっ、ひいい、ああああぁぁぁあぁあああああああああぁぁ!」


 男の腹が妊婦のように膨らんでゆく。先程私が塞いだ傷を中心に、ぶくり、ぶくりと、水風船を膨らませるように膨張を繰り返す。

 腹はふくらみ続ける。針で突けば音を立てて破裂しそうなほどに。


「うぐえ、わ、わがった! 答える、答えるから止めてぐれ!」


 両目を見開いてひぃひぃと奇声を上げていた男は、内臓を圧迫される苦しさに耐えかねたのか、それとも自分の肉体が醜く変貌していく様子に耐えられなくなったのか、半狂乱になってそう泣き叫んだ。


「そう。協力的で助かるわ。それで?」

「ま、魔女は、――はぁ、ハ――俺の契約した魔女は――はぁ――赤い、瞳、で――」


 【赤い瞳?】


「それは、私のような赤い目をしていたということ?」


 問い掛けるが、男は荒い息を吐くばかりで答えない。血走った眼球で、見えない何かを追うように視線を走らせている。


「あか、あかい――い、いやだ! いやだああ!! あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「神樂!」


 巌本に腕を引っ張られた瞬間、ごきり、と音がして、目の前にあった男の首が百八十度回転した。

 突然現れた後頭部に驚く間もなく、ごきごき、という音が男の全身から響き始めた。肋骨が、大腿骨が、骨盤が、上腕骨が、頭蓋骨が――ごきごき、ごりごりと音を立てて【砕けていく。】


 やがて。


 人の形をした、人の姿をした肉の塊が、べしゃりと音を立てて床に倒れ込んだ。

 全身の骨という骨を砕かれ、磨り潰され、糸の切れた人形のようになった、男の死体が。


「魔女に殺されたのか……?」


 巌本の低い声が響く中、私は自分の身体が震えているのが分かった。


「ふ、ふふ。はは」


【嬉しい。】

 嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。


 ああ、嬉しくて狂ってしまいそう。

 赤い瞳の、魔女。

 結局名前は聞き出せなかった。

 でもこの死体の親が【あの女】である可能性が、生まれたのだ。

 これを喜ばずにいられるだろうか。


「神樂、お前――」

「ねえ、聞いた? こいつの親、赤い瞳の魔女なんだって」


 今日はなんて素晴しい日なんだろう。

 ああ、早く、早く確かめたい。すぐに、いますぐに。【あの女】か、いったいどこにいるのか。


「……」

「ん、どうしたの。そんな顔をして」


 巌本が私を見詰めていた。

 まるで雨に濡れた捨て犬でも見るような。

 可哀想な子供でも見るような。

 そんな、哀れんだ視線をして。


 あれ、私。


 巌本にこんな顔をされると、急に不安になってくる。

 私は今、何か間違ったことをしたんだろうか。


「ねえ」


 問い掛けようとした瞬間、巌本のケータイが音を立てた。彼は無言でそれを受ける。

 電話する大きな背中を見詰めていると、先程の高揚が嘘のように鎮まっていった。

 そうだ。まだ今回の件に絡んでいる魔女が【あの女】だと決まったわけではない。たまたま同じ系統の瞳の色だということも、十分にあり得るだろう。

 期待をし過ぎない方が、後の落胆は少なくて済む……。


「――――ああ――――わかった、すぐに向かう。神樂、急患だ」

「うん」


 頭を切り替えて頷く。

 どうやら治療依頼のようだ。いま一人診たばかりだというのに。医者と葬儀屋は不況知らずというのは本当だ。目の前の死体を脇目に、そんなどうでもいいことを思った。


「今度はどこの誰?」

「詩村理沙。そこの西藤が襲っていた少女だ。【突然、全身から血を噴き出したらしい】」


 全身から血が噴き出す。

 それだけを聞いたらウィルス性の出血熱かとも思うが、今度の患者は魔女に関連している人間だ。一方的な被害者とはいえ、魔女が絡んでいないとも思えない。


「魔法の『呪い』かしら」

「わからん。ともかく急ぐぞ」


 私達は駆け出した。

 魔女絡みの被害者は普通の病院ではなく、一旦サテライトの医療施設へと運び込まれる。被害にあっていたという高校生の少女もサテライトのB4Fへと搬送されていた。


「来たか」


 病室に飛び込むと深刻な面持ちの柳――柳丈二が私達を出迎えた。

 年齢は二十代後半。よれたスーツに包まれた身体は引き締まった痩躯で、それは大きいと表現するよりは、とにかく「長い」と形容した方が適切だろう。屋内でも黒レンズのサングラスを掛けているのだが、それはあの酷い垂れ目を隠すためではないだろうか、というのが仲間うちでの専らの噂である。

 普段から飄々としていて掴みどころのない男なのだが、目の前の光景のためか、さすがに眉間に皺を刻んでいた。


「酷いわね」


 柳の脇に立ち部屋を観察する。

 ベッドだけしかない簡素な一人用の病室。そこが鮮血で染まっていた。

 前衛的な芸術家がペンキの付いた筆を持って踊り狂ったら、こうなるのかもしれない。壁といわず天井といわず、まるで部屋自体が傷を負い、裂け、血を流しているかのような光景だ。


「あ、あああぁぁぁああぁぁぁぁっぁぁあ!!」


 ベッドに横たわる少女が喉を絞るような絶叫をあげた。

 下着を身につけただけの露わな姿。その柔らかそうな腹部から、じわり、と鮮血が浮かび上がり、血溜まりとなったそれは重力に引かれ無音で白磁の肌を伝う。するとその鮮血の道筋が、まるでそれ自体が切り傷だとばかりに、パクリと裂けて血を吹き出した。


「ああ、う、ぐう、ああぁぁ、ぁああぁ」


 飛び散った血液は少女の身体に垂れ、そしてそれが新たな傷を開く。

 この血液の四散する領域は、彼女にとって刃物で出来た狭い檻なのだ。


 なぜ、どうしてこの少女が、こんな傷を負っているのか。

 先程死んだあの男に関係があるのか。

 でもどう関係するというのだ。自分が死んだらこの少女を呪い殺すように『魔女』へ願っていたとでもいうんだろうか。

 酷くナンセンスな思考を頭を振って振り払う。原因究明は後まわした。すぐにでもこの子の傷を塞がなければ死んでしまう。


「スキャン」


 私はベッドに倒れ込むようにして少女に覆いかぶさった。

 全身の裂傷は数えきれない。ぱっと見は刃物による切り傷に似てはいるが、詳細に調べると皮膚が裂かれているというよりは内側からの圧力で裂けているような傷口だ。当然、物理的に付けられた傷ではない。明らかに超常的な力によるものだ。

 赤い触手で傷口を一つ一つ縫合していく。

 出血が激しいので同時に血液も造って補わなければならない。でも傷を塞ぎながら血液を作り続けるのは、難しい。私は血液を造るのが、ことのほか苦手だった。


 血液型はAB型。Rhは、プラス。


「全血輸血を。AB型Rh+。輸血可能な限界量まで手配して」


 近くに立つ看護師に頼んだ。造りきれないなら外部から補えばいい。


「なんとかなりそうか」

「わからない」


 巌本の問いに正直に答える。


「傷を塞いでも、すぐに別の所が裂けるの。でも朝まで保てば、たぶん助かる」


 この傷が魔女の呪いによるものならば、魔女の魔力が弱まる日の出まで持ちこたえれば、私の治療の方が効果が強まるはずだ。

 現在時刻は、二十二時四十分。

 問題は私の魔力が明け方まで持つかどうか、その一点だけだ。


「長い夜になりそうだな」


 柳の呟きは、白い壁に溶けるようにして消えていった。




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