呪縛からの解放
誰一人生きている気配がしない空間に彷徨っていた彰は今までに無い邪悪なモノを感じ取っていた。
ここに入ってから嫌な予感が止まらない。一緒に入ったはずの杏とも合流出来ていないのだ。まるで自分だけ入るのを拒まれたかのように。
ぴりぴりと殺気立って彰は周囲を見渡す。もちろん広がっているのは果てしない空間のみだ。影一つありはしない。
紫苑は杏と桜を混合して考えている。紫苑にもし捕まったとすれば、間違いなく花嫁にされてしまうだろう。
――想い人を我が物にするなら手段を選ばないって奴か
全くとんでもない奴に見惚れられたものだ。そもそも桜のせいでこんな事になっているとも言える。紫苑の思いを踏み躙り、漆黒の姫の怒りを買い、その当てつけを杏に押し付けている。
胡蝶はそれを全然知らなかったのだろうか。
「知っていたさ」
ふいに姿を現した胡蝶は顔を歪めていた。
「知っていて、知らぬフリをしていた。それが桜を傷つける結果となってしまった。桜ばかりのせいではない。私の想いそのものこそが災いを引き起こしてしまったのだ」
頭の中で理解できていても辛くて目を逸らしてしまった罪。自分を責めている胡蝶の姿は何となく織に似ているような気がした。
とはいえ、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
「俺は探し出してみせるさ」
闇雲に彰は走り出した。
何処に居る?居るのならば返事をしてくれ、杏……!
「杏!」
――どうなっているのよ?これは……
闇の中に封じ込められた杏の意識は何が起こったのかサッパリ分からなかった。
何も見えない。一つだけ外の世界と通じているのが聴覚だけだ。視覚も嗅覚も触覚もない。
外から聞こえてくるのはゆっくり歩いているようなリズムの音。それから衣擦れの引きずる音。杏は裾の長い着物を着ていない。では、この衣擦れの音は。
「婚礼の儀を行うには素晴らしい舞台が整った。今宵こそ私は愛しき君を抱く事が出来るのだな」
予想通り、紫苑の声が聞こえた。どうやら二人並んで歩いているらしい。何処に向かっているのかは分からない。何しろ視界が無いものだから。
自分は桜じゃない、と抗議したくとも声にならない。
どうやら身体を操られているらしい。それでこんな闇の中に封じ込められているのだとようやく筋の通る答えを導き出した。
しかしこれでは助けを呼ぼうにも呼べないし、抗うために呪術さえも使えない。まさに絶体絶命だ。
――私はこのまま紫苑の花嫁となってしまうの……?
地上には苦しんでいる人達が居る。ここで闇に呑まれてしまえば世界はどうなってしまう?
それにまだ答えを見いだせていない。彰とこのまま永遠に別れてしまうのも歯切れが悪い。告白されたのにその答えを出さないのは最も相手を傷つける行為だとわきまえているからだ。
――そういえば、彰も私を追って後ろからこの空間へと来た筈よね?
歪みの中へと飛び込んだ自分を追って彰が名を呼びながら後ろから飛び込んできたところまでは覚えている。でもそこからどうなったかまでは記憶に無い。
では彼は一体何処へ姿を消したと言うのだろうか。
もし同じ空間にいるのだとしたら。
うぬぼれかも知れないが、もし自分を探してくれているのならば。
希望が少しだけ湧いてきた。彰が居ればこの操りを解いてくれるかも知れない。
彼を信じる。今出来る事はこれしかない……
――どうか私を見つけて、彰
どうか、もう一度彼に会わせて。
何故か近くにいるはずのない彼の姿が目に浮かんできた。自分の名を呼んで駆けて来る。
これは幻なのだと直感した。今の自分には視野など無いのだから。
「杏……!」
どんどん近づいてくる彼の姿に杏は妙な現実感が湧いた。夢では無い、ではこれは現実なのか。
再び闇に包まれそうになり、杏は喉が張り裂けそうな思いで声を出した。
「彰!」
「何!?」
操りの呪術を解かれた紫苑は予想外の事に戸惑い、その隙に杏が駆けて来た彰の元へ走る。
この存在を失くす事等決してさせてはならない。
駆けたままの勢いで二人はお互い抱き合った。杏が軽々とその勢いで抱き上げられる。
「杏、無事で良かった……」
「私、彰の声が無かったら闇から逃れられなかった。彰が居なきゃ私は駄目みたい」
涙を浮かべつつも、明るく杏は言った。
わなわなと唇を震わせ、紫苑は憎悪を彰に向けた。
桜を手に入れようとしても必ず胡蝶という存在が邪魔をするのだ。そして今回も生まれ変わりが。
敗北感で胸がいっぱいだった。どれだけ足掻こうと桜を手にする資格など無いと告げられている気がして。
終わらぬ、ここで終わらせてたまるものか。
「うおおおお!」
獣の雄叫びのような声を上げ、紫苑が突進してくる。標的は杏ではなく彰だ。
胡蝶の力を使い、彰は光の弓矢を手に取った。彼も紫苑目掛けて身構える。正面衝突だ。
「やめて!紫苑も彰も互いに傷つけちゃ駄目!」
杏の叫びがこだました。二人も驚いた表情を見せ停止した。
後ろから杏が彰の裾を引っ張った。下がっていて、と言う彼女なりの合図だった。
何か考えがあるのだろう。そう思って、素直に彰は後ろへ引き下がった。
呆けている紫苑の正面に立った杏は黙って彼を見つめた。本当は逃げ出したい、また何をされるか分からない。でも彼を放っておくわけにも行かない。
『もしかしたら、それなしで紫苑を宥める事が出来るかもしれない。貴方にしかない、特別な力で』
特別な力なんて恐らく無い。彰のように才能がある訳でも無い。でも私が桜の生まれ変わりであるから出来る事。それは……。
「私は確かに桜の生まれ変わりです。でも、桜そのものではありません。私には桜のような優雅で気品さなんて一欠片も無いです。貴方には分かっている筈です。生まれ変わりって事は既に彼女が死んで、そして再び別人として生まれたと。確かに似ている所もあるかも知れませんが、私は桜とは違います。杏として今ここに生きているのです」
「行くな桜。私はそなた無しで生きてはいけない……」
「彼女そのものの精神は恐らく貴方を天で待っているのでしょう。貴方はこの地に留まり過ぎた。彼女は貴方が休む日をきっと待っているでしょう。」
「休む……」
さらさらと紫苑の身体がゆっくり白い灰となっていく。元を辿れば人間だったのだ。寿命より長生きした魂も脆くなっていたのだろう。
と、桜が現れ消え行く紫苑に向かい合った。
「私の事で縛られないで。生まれ変わったら自由に生きて。辛い思いももうしないで」
「……桜」
頬から涙が一粒零れ落ちた。その途端紫苑の姿は掻き消え、その場に白い灰が堆く積もっているだけだった。