鍵
血などの表現があるのでご注意下さい
彰の家で今日は泊まろうと思っていたはずなのに杏の姿は自分の家にあった。
顔は今も火照っている。明日は学校なので(普段から毎日顔を合わせざるを得ない環境なので)避ける事は出来ない。一体どんな顔すればいいのだろう。
唇が離れた後、杏は彰に強く抱きしめられた。鼓動音が今までより最も近くで聞こえた。
何をどうしたらいいか分からず、杏は勢い良く彰を突き飛ばし逃げ出してきたのだ。
まさか彰に恋愛感情があったとは思わず、杏は想像以上に戸惑ってしまった。本当なら気持ちに対する答えを出さなければならないのに、それさえ出来ていない。
――ああ、ややこしくしてくれるわね!
苛立ちに頭を掻き毟り、布団の上に座り込んだ。
今宵もまた一段と月が見える夜だ。逆三日月の形がくっきり見える。
夜風が体に染み、杏は震えた。このままでは風邪を引いてしまうと思い、布団の中に潜り込んだ。とはいえ、すぐに寝られる訳でも無かった。
幼い頃からずっと一緒に居た彰。最初は仲が良く、何をするにも一緒だった。そして襲撃事件をきっかけに二人の関係に大きな溝が生まれた。それは杏が作った物だったが、彰はそれをこれっぽっちも気にしていなかったので余計悪化させる結果となった。
破滅に近かった仲が少しずつ良くなっていったのは漆黒の姫が現れて協力して呪術を使うようになった頃からだ。知らぬ間に彰が大人になっていた事に気付いたり、気遣ってくれる彼は頼りがいがある。
だけど、それはあくまで呪術師仲間である以外の他でもない。それ以上の関係では無いとずっと割り切ってきた。
自分がついてきた嘘が脆く崩れ去っていた。目の仇にしたのも、彼を守りたいと思ったのも全て……。
「彰、私は……」
迫り来た睡魔に身を委ね、杏の言葉は途中で途切れた。
翌日。空は青々と晴れ渡っていた。
「杏!早くしねえと遅刻するぞ!」
返事は無い。昨日の事を怒っているのだろうか。
「杏〜彰が呼んでるよ〜」
美鈴が家の中へ入る。それに続いて彰も杏の家の中に入った。
台所には自炊された痕跡が残っていなかった。つまり杏はまだ朝食を食べていない証拠だ。恐らく寝坊してまだ寝ているのだろう。
杏の部屋に向かおうとした時、美鈴の悲鳴が響いた。方角は杏の部屋だ。
「どうした美鈴!」
慌てて彰が二人の元へ向かった。
杏の部屋に入ったとき、彰は言葉を失った。
そこには部屋の隅で蹲る美鈴の姿と、漆黒の姫と向かい合う杏の姿があった。
美鈴の腕には鋭利な刃物で斬られた様な傷があり、そこから血が出ていた。彰はとりあえず先に美鈴の手に応急処置をする。
漆黒の姫が見ているのは杏、と言うより桜だった。杏の表情は彼女のものではなく険しい。恐らく桜の魂が杏の体を乗っ取っているのだろう。
「……どうしてお前は現世に魂を留めているのだ。本来死した魂は生まれ変わり、過去の人格や記憶を持たない。なのに何故」
「貴方は分かっていない。私は死んではいなく、幽体離脱してこの時代に留まっているだけ。全ては未来と、貴方を救うために」
「我の、ためだと?」
「そう、貴方をここまで変貌させたのは私よ。でも、紫苑が本当に愛しているのは間違いなく貴方よ」
「何故そんな事が言える!」
声を荒げ、漆黒の姫は長い爪を振り回す。しなやかに杏、桜は身を翻してかわす。
音も無く着地した桜は札を取り出し、呪文を詠唱する。
「木々に宿る精霊達よ、彼の者を攻撃せよ!樹葉乱舞!」
次の瞬間、外の木々から多くの葉が散り、刃物のように鋭く漆黒の姫に襲い掛かる。
葉の数枚が漆黒の姫の体を掠め、切り裂く。裂け血が僅かに畳へ零れる。体制を崩した漆黒の姫へ更に桜は呪術を発動させる。
白い光で出来た鳥籠に姫が捕らえられる。姫はそれを壊そうと術を発動させたが、鳥籠はピクリともしなかった。むしろ術が跳ね返されて倒れたのは彼女の方だった。
彼女の圧倒的な呪術の力を間近で見て、彰はただ呆然とそれを眺めている事しか出来なかった。
――これが、桜の力なのか
さすがは誇り高き先祖として語り継がれている人物ではある。
「……いつもそうだ。お前には勝てない。こんなに力を蓄えても、何一つ超えられていないとは」
「廃れたものに進化は無い。これは貴方が過去に言った言葉よ。今の貴方は真の力を封じ込めているも同然。私と対等に渡り歩く術も既に忘れてしまったのね」
「思い出話は止めろ。気が済んだならその呪術で我を滅ぼすがいい。紫苑を恨んでしまう前に、殺された方が我も本望だ」
覚悟したように漆黒の姫は座り、目を瞑った。どうやら、元の彼女に戻る気配は無いようだ。
これもまた運命。そう思った桜は止めを刺そうと彼女に向かって手を翳した。呪文を唱えようとした時だった。
――やめて!殺しちゃ駄目!
杏の心が悲痛に叫んだ。その声を聞いた桜の動きが止まる。
しめたと言わんばかりに漆黒の姫が術を使って鳥籠から離脱した。その視線に居るのは、美鈴だ。
長い爪が美鈴を容赦無く切り裂く。血が舞い散る。
「美鈴!」
「この童は貰っていく。これで、これで紫苑の復活も夢では無い……!」
よもやただの糧同然に扱われる美鈴の小さな体。
許せない。母や、凛そして美鈴までも紫苑復活のために命を奪われるなんて。
桜が美鈴を取り返そうと間合いを詰めた。漆黒の姫は手加減無く桜、杏の体を切り裂いた。
衣がはだけ、血が飛ぶ。その血を術で漆黒の姫は小瓶に集め入れた。右肩を浅く切り裂かれただけで済んだ事が桜にとっては疑問だった。
「桜の血があれば彼の復活も確実。今度会う時は私の夫の姿をご覧に入れましょう。ほほほ……」
「待て!」
素早く彰が札を投げる。しかし札が触れる直前に漆黒の姫の姿は掻き消えた。
ようやく桜の魂から解放された杏は力なくその場に座り込んだ。
また大事な人を守る事が出来なかった。それどころか漆黒の姫の息を止めるチャンスを奪ってしまった。
もうどうしようもない。幾日かすればこの世界は闇に包まれるだろう。その前に何とかしなければ……。
「……学校には分身を行かせるから、俺達はここで対策を練ろう。これは勉学よりも大切な世界に関わる話だからな」
紙で作られた人型に術をかけ、自分達そっくりな分身を学校に行かせた。
悔しさが込み上げ、杏は泣きじゃくり始めた。彰はそんな彼女を落ち着くまで優しく抱きしめていた。
「うふふ、もう少しだ紫苑。今、蘇らせてあげるから」
彼の棺の前で漆黒の姫は微笑んだ。
祭壇に捧げられているのは美鈴の体。そして小瓶だ。
これらを使って今から復活の儀式が執り行われるのだ。
盛大に漆黒の姫が両手を天に掲げた。黒い空気がその場に張り詰めていった。