四章 『デジカメ、買いませんか?』
四章 『デジカメ、買いませんか?』
「マスター、難しい質問をされますのね」
トナメは嬉しそうな顔で笑った。
「そうか? 俺よりは良い知恵を持ってそうだけど」
「人生経験なんて数ヶ月の私には、『幸せ』なんて大層なモノはありませんわよ。それにマスター、ひょっとして忘れてませんこと? 私はプログラムなんですよ」
鉄平にとってありのままに相談できる相手は誰かというと、トナメになる。パソコンとしての付き合い方としては明らかに間違っているが、彼女はとても頼りになる存在なのだ。
「俺は今までそんなことを考えたことがないからな。全く見当もつかないんだよ」
鉄平に相談されたことが嬉しいトナメは、なんとか期待に添えたいと考えているが……
しばらくして、妙に人間臭い仕草で彼女はを手をポンッと叩いた。
「マスター。『幸せ』ということはわかりませんが、『想い出』とならば近いモノがありますわ。私たちにとってはデータとして全てが残されます。けれどそれは変更できてしまうモノ。けれど、私たちが勝手に変更できないモノもありますのよ」
そして彼女が、画面の端から何かのデータを持ってくる。
「写真……?」
それは、桜の下で親子が並んで映っている写真だった。
「そうですわ。パソコンには写真というのは単に画像として残ります。けれど何故写真を撮ったのか、どういう思いでこの人らが映っていたのか……そんな『想い出』は人の中にしか残らないのですわ。画像加工すればデータは失われる。けれど人には記憶として残る」
「想い、か……。確かに、それが想い出なのかもな」
「マスターは、きっと今までは写真がお嫌いだったのでしょう。きっとそれは、あの人も同じなのではないかと推測いたしますわ。だからこそ……」
「新しい一歩を、踏み出す。確かにそうだ」
過去が辛かったからといって、明日までその気持ちを引きずる必要なんてない。過去があったからこそ、今があって、そしてその先へと歩いていける。
「本当に、トナメは頼りになるな」
「ふふっ。私はマスターのために尽くすのが生き甲斐なのですわ。遠慮なんてなさらずに、いつでも相談してくださいまし。マスターが笑顔になれるよう、精一杯頑張りますわ」
モニターの中で、彼女は励ますように手を振っていた。
◇
すずめは難しい顔で商店街を歩いていた。
彼女の心の中を占めているのは、気まずさ。
「私は、どうしてあんなことを……」
私を幸せにしてください、だなんて完全に告白ではないか。思い出しただけで、後悔と羞恥心と、そしてほのかな満足感。
あの時は鉄平が変なことを言ったせいで、時は自分の感情が抑え切れなかった。いつもは無愛想で言葉数も少ないのに。会ってまだ短いが、彼がいかに「らしくない」行動だったかは、よくわかる。
出会った瞬間、自分と同じような目をしていると思った。一見すると全く開いていないようにしか見えないけれど、その奥にある瞳の色は、間違いなく自分と同じ色。すずめがこけそうになって彼が抱きかかえてくれたあの時……本当に心臓が止まるかと思った。
そして、彼女は思ったのだ。自分と同じような人だから、彼を見ていれば客観的に今の自分を見られるのではないかと。大嫌いな自分自身が、他人から見ればどう映っているか、知ってみたかった。
好きになれるのだろうかと、想ってしまったのだ。
「でも、どうして……」
けれど、彼は変わろうとしていた。この大塚山町という街で。
何がそうさせたのかはすずめにはわからない。
一つだけわかるのは、自分がまた、一人で置いていかれるということ。
だから、言ってしまった。
「――私を信じさせてください」
すがるような言葉を。
自分では何もせず、彼に丸投げをしてしまった。ただじっと過去に縛られて蹲っている自分の手を引いてくださいと。
彼はこんな自分に呆れただろうか。
それとも、少しでも獅子倉すずめという少女のことを想ってくれているのだろうか。
「はあ……」
彼女にしては珍しい、やり場のないため息だった。
「ホント、すずめさんといつもさ、くら~い顔しているね」
春の日差しと同じくらい、明るい声。だがすずめにとっては、今は聞きたくない声だった。
「……琴さんですか」
「琴さんですよ」
琴は冗談っぽくそう言って横に並ぶ。なんだか機嫌が良さそうだった。
すずめは彼女のことが苦手だ。とにもかくもストレートのボールしか投げてこないし、しかも速度が速いからきちんと受け返せるか自信がない。
できるだけ関わり合いたくないというのが表情に出ているのに、彼女は嬉しそうだ。
「何か言っちゃったんだよね?」
それはもう楽しくて仕方ないという感じで、言葉が弾んでいた。
すずめはそれが癪で、
「別に、ナコさんとは何もありませんよ」
ふんっと顔を逸らすが、彼女はすぐに回り込んで覗き込んでくる。
「兄さんのことだって私は言ってないけど、でも、つまりはそうなんだよね?」
鉄平に関わることには、彼女には隠し事はできないらしい。
「だったらなんだって言うんですか? 先に変なことを言ったのはナコさんです」
「ふーん。まあいいけどね」
彼女は笑ったままだ。
きっと出会いが普通であれば、きっと彼女はすずめに対しても「良い子」だったに違いないのだろう。彼女が来て数日、もう商店街に馴染んでいた。「無愛想な兄と反比例で明るくて愛想の良い妹」の話は誰からも聞ける。
けれど、兄である鉄平が関わるともうこれだ。
彼女はすずめが悩んでいる様を見て、楽しそうにしていたが、
「ねえ、獅子倉さん」
声色が、変わった。先ほどまでとは違い、真面目な声。
けれど顔は笑ったままなのが、ちょっと怖い。
「このままで、いいの?」
「……このままで?」
「そうだよ。何があなたにそうさせているのかなんて、興味ないけどね。でも、今の獅子倉さんはつまらない。だから、兄さんには相応しくないんだ」
昨日の鉄平との会話を聞かれていたわけではないのに、痛いところを突いてくる。
「中途半端なまんま、兄さんの関わるのはやめてよね」
言いたいことだけ言って、彼女は先を歩いていく。
彼女は、本当に兄である鉄平のことが大切なのだろう。
だからすずめは、その背中に何も言えなかった。
◇
「カメラ?」
家に帰ってきた琴がフォックンにサッカーでもさせようと自室に戻ると、待っていたかのように兄が部屋を訪れた。
兄からの相談に、琴は不思議そうに首を傾げた。
「ああ、琴は持ってなかったか?」
「確かあったと思うけど……どうしたの? 兄さん、カメラって苦手だったよね」
琴の言うとおり、鉄平はカメラが苦手である。なにせ実家ではそこにいるだけで気まずかったのだ。そんな中で「家族で写真を撮りましょうよ」だなんて流れになる訳もなく、撮影が回避できないという場面も可能な限り避けてきた。鳴子家と出自の影響で、地元の小さな高校でも寂しい交友関係しか持たなかったため、友人同士で写真を撮るということもなかった。
鉄平の部屋に置かれている琴とのツーショットは、実は貴重な一枚なのである。
「ん、ああ。ほら、そろそろ新学期だろ。琴も新しい制服になるから、新生活の節目として初登校の時を写真に収めておこうかなって」
正直に事情を話すと間違いなく機嫌を損ねるのは目に見えていたので、予め考えていた理由を話す。
「兄さん!」
その言葉にぱあっと表情を華やかせた琴は、まだ引越し屋のマークのついたダンボールをガサガサと探し始めた。
妹はもう弾んだ上機嫌な様子。鼻歌まで歌い始めた。
「も~兄さんったら、急なんだから。もう今すぐでも兄さんに制服姿を見せたいんだけど……ごめんね、まだ出来上がってないの。もっと早くに言ってくれれば用意したのに!」
「あ……ああ。悪いな。昨日思いついたからな」
鉄平は視線を逸らす。罪悪感というのは目覚めのブラックコーヒーよりも苦い。
「あった! これだ!」
妹が手のひらサイズのポーチを取り出した。
「ああ、そうそう。これだこれ、琴が持っているこれを探していたんだ」
出てきたのは小さなデジタルカメラ。
結構古いモノで、凄く薄くて持ち運びが簡単かつ高速起動がウリの機種だ。
「説明書も何もないけれど、大丈夫? 兄さん、デジカメなんて使ったことないでしょ?」
「あー……そうだな。ちょっと借りていいか? トナメに聞いてみる」
琴からカメラを受け取り、部屋に戻る。琴も部屋の掃除をフォックンに任せて着いてきた。
部屋ではソラがいつもの通り、いそいそとチャットをしている。座敷わらしなのに家から出られないことはないらしいのだが、ほぼ毎日部屋に引き篭もってパソコンをしている。これでは本当に何のためにPCを買ったのかわからない。
大学が始まったらきちんと使わせてくれるのだろうかと少しだけ不安だった。
「悪い、ソラ。パソコン借りていいか」
「お父さんと7ハンドポーカーしてたんだけど、負けそうだったからちょうど良かった」
勿論、鉄平には全く理解できない。
鉄平がPCの前に座り、後ろには琴。ソラはそろそろ、お昼寝の時間らしくお布団の国に帰っていった。
「おはようございます、マスター。あっ、琴様もいらっしゃるんですね。すぐにユーザーを切り替えますわ」
ペコッと画面の中でトナメがお辞儀をして、テーブルクロスを取り替えるように、デスクトップ画面を入れ替えた。ソラとユーザーを分けたのは、どんどんデスクトップに訳の分からないアイコンが増えていくのに鉄平が混乱したためである。親切なトナメがわざわざ鉄平のために用意してくれたのだ。まさに至れり尽くせりである。
ちなみに『琴様』というのは本能的に危険な匂いを感じて、トナメが勝手に言い出したのである。プログラムに本能があるのかどうかは不明だが、賢い選択である。
「デジカメのことで調べたいんだ。協力してくれ」
「ああ、先日お話されていた琴様の晴れ姿を撮影されるという件ですね」
聡いトナメは、きちんと口裏をあわせてくれる。全く本当に優秀な相方だ。
「それで今あるのがこのデジカメなんだが……説明書はホームページにあったりするか?」
「国内メーカーならあると思いますわ。マスター、そのカメラを近づけてくれます?」
彼女が画面から身を乗り出すように、顔を近づけてくる。そして頷いて、インターネットエクスプローラーを開いた。
「カシオの『EX‐S3』……発売年は2003年。9年前の機種ですわ」
鉄平は「へえー」と驚く。
「俺、これは凄い最新機種だと思ってたんだが。結構古かったんだな。でもこれでも十分に高機能かつ多機能じゃないのか?」
「うーん。あの村だとフィルムカメラばっかりだったもんね。デジタルなだけで凄い新しいって感覚になるのも仕方ないかな」
妹は最近の家電事情疎い兄に苦笑した。
「これからほぼ10年……家電量販で少しは見た事があるはずなのに、なんというかこれを見てからだと現行機種の機能が全く想像できない」
家電業界において10年といえば、どのカテゴリーの製品も相当に進化している。半年に一度1世代が変わるとまで言われるパソコンは言うまでもないだろう。またゲーム機などにおいても10年前とくれば、携帯ゲーム機がやっとカラー液晶になって普及し始めていた頃。それが今では平気でTVも見れてしまう。
「そうですわね。EX‐S3と最近の物を比べると、まず画素数から違いますわ」
トナメはいくつかウインドウを開いて見せてくれる。カシオ、オリンパスやニコンに富士フィルム、ソニーだとホームページで最新機種の画像が並んでいる。
「EX‐S3の画素数は320万。現在の同価格帯のモデルだと1400万画素くらいは標準なのですわ。それだけ綺麗になった、ということです」
機能の差異についての解説なのだが、既に入り口の場面で鉄平はハテナ顔になった。
「すまん4倍以上は画素数っていうのが高いはわかった。けれどそれがどの程度優れているのか俺にはさっぱりだ。明確にわかるものなのか?」
その言葉に琴も困り顔だった。
「そうは言ってもね、多分、写真を並べても兄さんだとそこまで兄さんだと実感できないと思う。見慣れていれば一目瞭然なんだけどね」
琴はトナメに「もう少し兄さんでもわかる機能差はない?」と尋ねる。
トナメは難しい顔をしてスペック表を見比べる。
「この時期の安いモデルには手ブレ補正機能もないですし、SDカードも低容量しか積めないんですけど。んー、光学ズーム機能もないし……」
ナビゲーターが戸惑うのも無理のない話である。
スペックでの差異なら明確でありパソコンである彼女からすると、古く重いママチャリと軽量で速度も出るロードバイクくらいの差はあるのだから、「見ればわかるでしょ?」という感じという当たり前のことなのである。けれどそれを「鳴子鉄平にとってわかるように説明をする」となると、全く持って話は別だ。
難易度的には例えば自分が見えている「赤という色」を、他人に正確に伝えろというくらいに、説明に窮してしまうレベルに近い。
「うーん……確かに、難しいね。実際に使っていれば全然違うんだけど」
長年一緒に暮らしてきた琴も、どう説明したものかと困っていた。
「な、なんか……俺が悪いことを聞いているような気がしてきたな」
鉄平もさすがに、自分の家電に対する理解力の低さを自覚していた。
意気揚々と旧モデルと最新機種の比較の説明が始まったはずなのに、最初から話が途切れてしまった。本来は簡単に盛り上がる話題なはずなのに、戸惑いによる座礁である。
「そう考えると、やっぱりすずめは随分と俺のレベルにあわせていてくれたんだなぁ」
しみじみと呟いてしまう。
こんな時に、とても親切で凄く気が利いて可愛くて信じられないくらい賢くて美人で美しい娘さんならどう説明してくれただろうかと考えてしまった。
「マスター、ここは獅子倉の娘に聞くのはどうでしょうか? せっかく琴様の晴れ姿を撮られるということでしたら、当日になって『こんなはずじゃなかった』となる前に、です」
「そうだな。そうしようか。すずめなら詳しいだろう?」
建前をうまく利用したトナメのナイスアシストだった。
琴と一緒に行動を続けると本来の目的がバレてしまう恐れがある。勿論、琴の晴れ姿も撮るには撮るが、本来の目的は違うのだ。下手に誤解を与えてしまうと……後が怖い。
「獅子倉さんのところに? じゃあ私も行こうか」
「いや、一人で行ってくるよ。どうせすぐ隣だしな」
そう答えると、琴が露骨に不審そうな目で見つめてきた。
「兄さん、何を考えてるの?」
「……いや、何がだ?」
鉄平はうろたえた。今の会話に何も不自然なことはなかったはずだ。
しばらくジッと見つめていたすずめだが、
「はあ……」
しばらくして、呆れたようにため息をついた。
「兄さん。私が何年、兄さんと一緒にいたと思っているの? 兄さんが考えていることまではわからなくても、兄さんが何かを私に隠したいと思っているのくらいはわかる。それくらいに兄さんのことは知っているし、兄さんのことはずっと見つめてきたの。兄さん」
「琴……」
何度も何度も兄さんという言葉を繰り返し強調してきた。
妹は窓際に歩いていき、窓を開ける。
「ねえ、兄さん」
春の穏やかな風が彼女の髪をふわっとなびかせる。
外は、春らしい暖かな日差し、澄み渡る空。
彼女は外を見つめたまま、小さな声で問い掛けた。
「兄さんは、あの子のことが好きなの?」
それは真剣な声色。
妹は、真面目に問い掛けてきている。
だから鉄平も、妹にきちんと向き合おうと思った。
「そういうのじゃないさ。なんだろうな……放っておけない。ただそれだけだ」
「そう」
外からは、子供たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。無邪気な声で、楽しそうに。
ずっとずっと昔、まだ琴が兄の出自を知るまでは、あんな風に何も悩むこともなく触れ合っていたというのに……いつからこんな風に、なったのだろうか。
妹は外を見つめたまま、言葉を続ける。
「兄さんがね、あの人を気にかける理由……私にはわかるよ」
「え?」
「だって、兄さんと同じ匂いがするから。表面上は何でもないって顔をしているのにね、本当は寂しいんだっていう……そんな孤独な雰囲気」
「……」
「兄さんが寂しいのは、私がいくらでも暖めてあげるから、安心して」
琴が振り返った。
晴れ渡った空のように曇りない笑顔で。
「琴……」
「だからね、兄さんはあの子を少しだけ暖めてあげてよ。あんなに寒そうに震えてる姿、からかう気にもならないんだもん」
楽しそうに彼女は笑っていた。
(ああ、そうか)
あの故郷から出て、春から新生活を始めようとしていたのは……鉄平だけではない。妹である琴もまた、変わろうとしてここにやってきたのだ。
「琴は優しいな」
「もう、兄さん。そんなこと真顔で言わないでよ」
まだ三月下旬。外は良い天気でも、まだ肌寒い。
けれど、これから暖かくなっていく。だから、あと少しの辛抱だ。
鉄平はコートを手に取った。
「琴」
「なに、兄さん」
「今度さ、目の前の路面電車に乗って、少し離れたところまで買い物に行かないか。なんか凄い大きなショッピングモールが最近出来たらしい。何があるのか知らないけれど、250種類の専門店が入ってるだとさ」
「行く行く! ねえ、いつにする!? そうだ、明日行こうよ! 私、可愛い春物の服が欲しいんだ。勿論、兄さんが選んでよね!」
さっきまでの優しい雰囲気はもうどこに消えてしまい、いつも通りの元気で飛び跳ねている琴。鉄平は「晩御飯の時にでも話そう」と笑う。
「あっ、兄さん。忘れ物」
「ん? 何か忘れたか――」
ガシッ!
兄は、目の前に迫っていた妹の顔を両手で押さえていた。
「……琴。今、何をしようとしたんだ?」
「なにって……いつもの『いってらっしゃいのチュウ』だよ?」
年下の女の子とは思えない凄い力で迫ってくる琴。
かなり本気でそれを受け止めている鉄平。
「よっと」
「あっ――」
押してくる力をうまく逃して、琴を布団に転がす。
「むぎゅっ」
寝ていたソラが下敷きになり、苦しそうな声をあげた。
「それじゃあ、行ってくるぞ」
鉄平はまるで何もなかったように部屋から出て行った。
その後姿をふくれっ面で見送った琴は「いけず」と小さく呟く。
なんかもう、このまま寝てしまいたかったが、下敷きになったソラが苦しそうにバタバタしていたので琴はゆっくりと立ち上がった。
「送り出してしまって良かったのかしら、琴様」
電源付けっぱなしだったPCからトナメが問い掛ける。
「いいんだよ。だって、あんな状態の獅子倉さんが相手だなんてつまんないんだもん。まるで同情を引いててさ、私は不幸な女の子なんですって顔が気に食わないの」
机の上に置かれた写真立てには、幸せそうな笑顔の琴が鉄平に抱きついている。
「きちんと同じ土俵に立ってから……私は勝つんだよ。そうじゃないと、兄さんの心は掴み取れないからね。だからこれは、必要な段取りなんだ」
静かな声。
それには、誰にも譲れない強い想いが込められている。
「……いつも、いってらっしゃいのチュウをしてるんですの?」
「たまに成功するよ?」
彼女は何の曇りも後ろめたさもない清々しい笑顔。
「……」
トナメは、もう、なんて言っていいかわからないという顔をしていた。この兄妹、絶対におかしい、普通じゃない。
「でね、トナメ」
彼女は先ほどまで鉄平が座っていた椅子に座る。パソコンの覗き込み、
「あなた、兄さんが何しようとしているか知ってるみたいだね? そうでも考えないと、なんだか不自然な流れがいくつかあったと思うんだけどな」
トナメに笑顔で問い掛けた。
目は、全く笑ってない。
「私の晴れ姿とかなんとかって、嘘でしょ? な~にを考えるのかな~?」
どうやら心配しなければならないのは病んだ妹から無事逃げた兄ではなく、パソコンの中にいてどこへも逃げられない自分だったと、トナメは気付いてしまった。この人なら平然とPCを叩き潰すくらいやりかねない。HDDが壊れたら自分はさよならだ。
彼女は気まずそうに、画面の隅をチラチラ見ていたが、
「琴様」
「な~に?」
彼女は決意した。
「ウイルスバスターがアップデートのために再起動を希望していますわ」
「はっ?」
「きちんとセットアップを完了させるために、一度電源を落としますわね」
「ちょっと! どこにもそんな案内出てないよね! こら、トナメ!」
――ウインドウズをシャットダウンしています。
ヒュンッ。
軽い音ともに電源が落ちた。
そして再起動すると言っていたのにも関わらず、起動しない。
「トナメ! ちょっと電源入れてよ! 兄さんが何しようとしているか教えて!」
電源ボタンを連打しても、パソコンは起動しない。
それでも意地になって、琴は必死にボタンを叩いていた。
「……きゅう~」
目を回して気絶しているソラが、うめき声をあげて布団の中で気を失っていた。
◇
「はいはい、これで全部だぞっと」
相変わらずの軽薄そうなノリで穴山は最新のカタログの山を渡す。
「全く……穴山さんのところの営業事務、変えた方がいいんじゃないです?」
すずめが店に戻ると、軽薄な営業マンが手を振って待っていたのだ。
「いやぁ、お局はお局で役に立ってくれることあるんだよ? 特に取引先に驚くほど強いからねぇ。出張行ったら必ずお局に土産、飲み会はお局の好みで……メリットを考えると安い代償さ。でもまあ、毎度の納期案内ミスで物流倉庫まで取りに行かされるのだけは勘弁だけど」
彼は「あはははー」と冗談交じりに笑う。
すずめはカタログをスタンドに仕まってから、わざわざ店まで来た営業マンを睨む。
「で、本題はなんですか? お遣いのついでに寄ったというわけではないんでしょう?」
「あれ? すずめちゃんの顔を見に来ただけだよってちょっと待ってもうビンタはやめてあの紅葉があると亜紀にいらぬ疑いをかけられるからホントマジ勘弁」
慌てて距離を空けた穴山に、すずめは「ふんっ」と鼻息をつく。
「亜紀から聞いたよ」
「……え?」
先ほどまでの軽い口調とは違って、歳相応の落ち着いた口調だった。
「いつもあいつは君のことを心配しているからね。でもさ、聞いたらなんだか最近、すずめちゃんが電話越しでも楽しそうだってね」
「……気のせいですよ」
穴山の彼女の藤堂亜紀は、すずめの幼馴染だ。そして穴山の実家はこの商店街の布団屋なのである。彼とはあまり親しい間柄ではなかったが、すずめの事情は把握している。
自分が付き合う彼女の友人である、ということも勿論あるだろうが、定期的に穴山がわざわざ顔を出しているのは、そういう背景も少なからずあるのだった。
だからすずめからすると、プライベートの話になると途端にやり辛くなる相手である。
「素直になって、だそうだよ」
「なんですか、突然」
「亜紀からの伝言。そろそろ自分に素直なってほしいんだとさ。前、俺としてもいつまでもうちの亜紀に心配かけるのはやめてほしいしね」
「別に、心配なんて……!」
「かけてるでしょ?」
断言する穴山に、すずめは視線を逸らした。
彼は苦笑し、隣にある家を見上げる。そこには狐目をしたあの青年がいるはずだ。
「うちのキッカも言ってたよ。ほら、前に来て彼と会ってたでしょ? でさー、彼は中々面白い子だってね。あいつが人のことを褒めるなんて滅多にないんだからさ」
穴山はからかうように笑う。
「キッカ、本気になったら大人気ないくらいあの手この手で、アグレッシブにいくからね? この前も無理やりさせられたとかいうお見合い話でキレてたし、あと婚期も気にしてるから、あんまりのんびりしていると、あいつにナコ君を持ってかれるよ?」
「……でも、私は」
俯く彼女に、穴山は年の離れた妹を気遣うように笑う。
「この前、新店の搬入の時に秋一と会ったけれど、結構元気そうだった。あいつも立ち直ってきたみたいだしさ。すずめちゃん、もう、誰かに甘えてもいいんじゃないかな」
いつもは憎らしい悪態が際限なく溢れるすずめだが、今は言葉少なに黙っていた。
「ひゅ~さすがナコ君。わかってるね、ナイスタイミングだ」
そんな様子を見ていた穴山が、口笛を吹いた。
「え?」
すずめが顔をあげると、家から鉄平が出てくるところだった。彼は真っ直ぐとこちらに向かってくる。昨日のこともそうだが、先ほどの琴とのこともある。
突然のことで心の準備が出来ていなかったすずめは、珍しく慌てていた。
「やっほー、ナコ君。元気そうだねぇ」
「ああ、穴山さん。先日はどうも」
そのやりとりに、
「……二人とも、知り合いだったんですか?」
すずめが問い掛けると、穴山は笑う。
「いやね、この前に駅前でさ、ナコ君がスターバックスのコーヒーのクソ高い値段を見て硬直しているのを偶然に見かけてね。可哀相だから懐の広い俺が奢ってあげたら、すずめちゃんの家の隣に住んでるって偶然知ってさぁ。いやぁ、偶然って重なるんだねぇ」
やたらと偶然を連呼する、あからさまに怪しい穴山。鉄平はいつも通りの細目で睨み、
「俺の記憶が正しければ、キャッチセールスよろしく喫茶店に強引に連れ込まれたんだが」
「それは意見の相違ってやつだね! あははははははは」
すずめはどうやら親友の亜紀のいらぬお節介なのだと直感していた。
「それで、何か買いに来たのかい? あっ、テレビ欲しいんでしょ~? 今ね、東芝の42型の液晶がお買い得なんだよ。どうだい、今ならお安く――」
「いや、すずめ君に用があったんだが。取り込み中みたいだから、また後に来るよ」
彼はきっと、昨日の話をしに来たんだろう。
そうとしか思えなかった。
いや、そうであってほしいとすずめは思ってしまったのだ。
「え、あの……ナコさん、別に忙しいわけじゃ」
言葉に困るすずめに、
「むふふ」
嫌らしい笑みで笑う穴山。
「そっかー、お兄さんわかっちゃったぞ! ナコ君、すずめちゃんにデートのお誘――」
バシンッ!
激しいビンタで、穴山の顔面はあらぬ方向を向いていた。
「これは……さすがに、酷いじゃないかなぁって……俺、思うんだ」
「……余計なこと言うと、次は本気でいきますよ」
「本気じゃ……ないんだね、これで」
彼は、半分涙目だった。
「うわ……」
鉄平はあまりの鮮やかな音色に、なんとも言えない顔をしていた。アレは風が撫でるだけでヒリヒリと痛むのではないだろうか。それくらいに、くっきりと手形がついていた。
「それで、ナコさん。私に用って……」
その問い掛けに、
「ん? ああ、桜が咲いてるみたいだし、たまには二人で散歩でもどうかなってさ」
鉄平は平然と頷いた。
「花見……ですか?」
「お隣さんを誘いに来ただけだが……嫌なら別に――」
「行きます! 行きますからちょっと待っててください!」
何を話されるのか、本当は少し怖かった。
けれど、彼はここに来てくれたのだ。だから、すずめは応えようと思う。どこか浮つく心の名前は、『嬉しい』という感情。
彼女らしくもない慌てた様子で家の中に入っていく。途中で、ラジオの箱を落としたのにも気付かないくらい、あたふたと走っていった。
鉄平はやれやれと箱を拾って元の位置に戻していると、
「やるねぇ、ナコ君」
にししと笑っていた。
「穴山さんが考えているようなことじゃない」
「俺が何を考えているっていうんだい? むふふ~」
鉄平は付き合ってられないと視線を逸らす。
その様子を見ていた穴山はポツリと
「ナコ君、ありがとうな」
何故か礼を言った。
「……穴山さんに礼を言われるようなことはない」
「いやいや、これは俺からのお礼じゃない。俺の彼女の亜紀や、そしてこの商店街の奴らみんなの総意さ。今回はたまたま俺の出番だったっていうだけで、誰がここに居たってきっと同じように礼を言っていた」
初めて彼が見せた真面目な表情に、鉄平は少し驚く。彼でもこんな表情ができるだなと。
「商店街の連中はみんなすずめちゃんが好きなのさ。でも俺たちじゃあ、どうしてもあの子に言ってやれる言葉は、結局のところ同情にしかならない。あの子はまだ幼い……なのにあんなに大人ぶってツンケンしちゃってさ」
肩を竦める。
「けど、ナコ君が来てまだ一ヶ月も経ってないのに、あの子は色んな表情を見せるようになったって、商店街連中も噂してるよ。春を前に、中々どうして嬉しい知らせじゃないか」
「俺には、今のすずめ君しかわからないけれどな」
「わからなくていいよ。けれどさ――」
店の奥から外行き用の服に着替えてたすずめが出てくる。黒いワンピースに、薄い青いストールを肩に羽織り、いつも流しているだけの長い髪も後ろで束ねていた。
「頼むよ」
想いが込められた、短い一言。
「ナコさん……お待たせしました。今から店を閉めますので――」
息を切らせてやってきたすずめに、穴山は笑って、
「あー、そんなことどうでもいいの! 二人とも早く行ってきなよ!」
「あっ、ちょ、穴山さん」
戸惑うすずめと鉄平の背を押して、外へ追い出した。
一度だけ鉄平は振り返り、穴山に頷いた。
「楽しんできてね~」
穴山はそんな二人をひらひらと手を振って見送る。
完全に二人の姿が消えたのを見てから、
「さて、と」
携帯電話を取り出して、慣れた手つきで短縮ダイヤルを押す。
「ああ、亜紀。良いタイミングでナコ君が来てね、うまくいったよ。でさ、店番が誰もいないから、亜紀来てくれない? ……いや、確かに俺は今日は有給だけどさ。社用車を返しに行きたいんだって。えっ、あーと……そういえば、最近デート行ってないけどさ。さすがに社用車で行くには……まあいいから、とりあえず来てよ。家にいるんでしょ?」
親友を心配する彼女と話しながら、彼は彼らが歩いていった方向を見る。
「頑張れよ、すずめちゃん」
◇
大塚山町には億代池公園という公園がある。四万平方の広さはある大きな公園で、中央にある池をぐるっと囲むようにして道がある。池の真ん中には島もあり、橋で渡ることができるので、近くの住人の散歩コースとして親しまれている。
そしてこの季節になると、美しい桜が咲き乱れる観光名所でもあるのだ。まだ少し早いためか満開とまではいかないが、それでも目を奪われるくらいの美しい光景だった。
「越してからもう2週間になるが、ここの公園に来たのは初めてだな」
鉄平が感心しながら桜を見上げる。
「来たこともない場所に、女の子を散歩に誘ったんですか?」
「来たこともない場所だから、地元民のすずめ君を誘ったんだけどな」
隣を歩くすずめは、どこか緊張した様子だった。
そういえばこうして二人で外を出歩くのは、出会ったとき以来だ。あの時は随分と変な少女に絡まれたと思ったものである。だというのに今は、こうして二人で歩いているのが、とても不思議だった。
「何か、話があるんでしょう?」
「やっぱそう思うか?」
「だって今まで、一度もこんなことに誘ってくれたことないじゃないですか」
少し、不満そうな物言い。
鉄平は困ったように頭を掻きながら、桜を見回す。
「いや、ホントに散歩に誘っただけだ」
「……!」
「いてっ、無言で蹴らないでくれ」
「なんか凄い、腹が立ったんです。気にしないでください」
すずめは、色々と覚悟を決めてきたのだ。だというのに相変わらずの鉄平の様子に、言葉通り腹が立っていた。彼女は「ふんっ」とそっぽを向いてしまう。
鉄平はどう話したモノかと思ったが、
「桜、綺麗だな」
結局、当たり障りのないことを口にした。
「私は嫌いです」
すずめはそう言ってから
「桜というより……この季節が、私は嫌いです」
吐き捨てるように呟いた。
両親が事故でいなくなった季節だからだろう。だから、彼女はこんなにも頑なに、壁を作って自分を守ろうとしている。
鉄平は「よしっ」と決めた。
「すずめ君、そこに立ってくれないか?」
「……え?」
「いいから、そこの池のフェンスのところ」
鉄平が指示すると、首を傾げながらも彼女はゆっくりと歩いていく。
「そうそう、その桜の下だ……よし、そこで止まって振り返ってくれ」
「いったい、何のつもりですか……って、え」
ピピッ……カシャッ。
フラッシュが光る。
「よし、撮れたかな?」
鉄平がデジカメを覗き込む。するとぼやけた写真の映像が残っていた。
「……ダメだな、失敗だ。慣れてないせいか手ブレが酷いな」
「ナコさん!」
うまくいかなかったとデジカメの操作をしている鉄平に、すずめが怒ったように叫ぶ。
「いきなりなんですか! どうして、突然写真なんて……」
いや、怒っているというより戸惑っているという感じか。そんな彼女の様子に、鉄平はいつも通りの狐目で感情を表に見せない。
「写真は嫌いか」
「……嫌いです。そして突然、何の断りもなく撮影、盗撮するナコさんはもっと嫌いです」
不機嫌そうな彼女の表情に、どう説明したものかと鉄平は考える。
そして一つ頷いて、鉄平は桜を、公園をそしてその向こうに見える町並みを見回す。
「俺は、この街に来て良かったと思っている」
「何の話ですか?」
突然に話が変わったことに、すずめは不審げに見つめてくる。
けれど鉄平はお構いなしに言葉を続けていく。
「村が嫌いだなんて、今ここでは言わない。だけど、この街での生活は楽しい……それははっきりと言える。田舎から出てきた俺に対して、商店街の人は親切してくれた」
「ナコさん……」
「すずめ君もだ。やりかたは強引で自分勝手だったけれど、俺に良くしてくれている」
「強引で自分勝手で、悪かったですね。私はいつでも身勝手ですよ」
彼女は拗ねたように呟く。
そんな彼女の様子に、鉄平は笑った。
「だからさ」
デジカメを見せる。
「今を写真に撮ろうって思ったんだ」
「今を、写真に……?」
鉄平は「そうだ」と頷いてみせる。言葉にはし辛い想い。だけれども、言葉にしかなければならない。そうでないと、彼女に伝えられないから。
「俺は、満足してるんだ。今の家での暮らしが。座敷わらしが勝手にパソコンをずっと使ってて、そのパソコンにいるのはプログラムのはずのトナメが妙に気を回してくれて、妹がよくわからないヤキモチを焼いて俺を困らせて……そして隣に住む電器屋の娘さんが事あるごとに電化製品を売りつけてくる。そんな生活が、楽しくなってきたんだ」
鉄平は自分がどんな表情を浮かべているのか見てみたいと思った。きちんと、彼女に微笑みかけていられるだろうか。笑顔を作ることには、慣れていない。だから自信はない。
でも自分が楽しんでいるのだと、表情で彼女に伝えたかった。
少女は黙って鉄平の言葉を聞いている。
「だから、写真に撮って記憶に残したい。過去の俺に、今がこんなにも楽しいってことを教えてあげたい。未来の俺に、今の姿を見せつけてやりたい」
だから、と続け
「すずめ君、笑ってくれないか? せっかくの俺の初めての撮影だ。笑っているすずめ君を撮ってみたいんだ。デジカメなんて使ったことがないからきちんと撮れるかわからないけれどな」
だがカメラを向けると、彼女は池の方を向いてしまった。
風が彼女の髪をなびかせる。そして舞い散る桜の花びらが、彼女の髪にふわりと乗った。
「ナコさん」
小さく呟く。
「どうして、私のことを気にかけてくれるんですか?」
「……理由が必要か?」
「当たり前です。私は……安くないんですよ。いい加減な理由なら、私は、私は絶対に笑ってなんかあげませんから」
青年は、目を閉じて言葉を探す。
「それは……」
彼女に伝えたい言葉を。
「俺が……君と一緒に、先に進みたいと思っているからだ」
「……一緒に?」
「そうだ。俺と君は、きっとよく似ている。昔のことをいつまでも忘れられないで、見えない何かに反発している……でもな、それじゃあ全然楽しくないんだ」
鉄平はカメラを胸ポケットに入れて、彼女に近づいていく。
「だから……だから、俺と一緒に楽しくしていかないか。どうでもいいことで笑って、何でもないことで喧嘩して……。今日を、そんな新しい自分を探す記念日にしたいんだ」
「どうして……そんなこと言うんですか」
その言葉に、鉄平は言い辛そうに
「すずめ君が言っただろ。『幸せにしてください』って」
彼女の言葉をそのまま伝えた。
「え……」
「俺には幸せっていうのがまだわからない。俺自身がわからないことなのに、すずめ君を幸せにするなんてできるはずがないんだよ」
「ナコさん……」
惚けたように、すずめは鉄平を見つめる。
珍しく、本当に珍しく鉄平は照れたように頬を掻いた。
「俺たちは似た者同士だ。だから、わからない二人なりに、幸せっていうのを探してみないか?」
そうだ、幸せなんて今すぐになれるものではないのだ。
一歩一歩、積み重ねていく……それが幸せになるということ。
「バカです……ナコさんは、どうしようもない唐変木です」
途切れ途切れの言葉。
「どうして……今日に限って、急にそんなこと言うんですか。私は、私だって……」
池の方を向いて、彼女は俯いている。
苦しそうに、それでも言葉を紡いでいく。
後ろに立った鉄平は、彼女の顔が見たいなと思った。
けれど、きっと彼女は嫌がるだろう。
だから
「……あ」
「ビンタは勘弁してくれよ」
後ろから、割れ物を抱きかかえるように、そっと腕で抱きしめた。
「ナコさんの腕……結構、逞しいんですね」
「田舎では農作業が日課だったからな」
「いつも、琴さんにもこんなことしてるんですか」
「いや、あいつにはこんなことしたことない」
取り留めのない会話。彼女が落ち着くまでの間、付き合ってあげようと思った。
しばらく、どうでもいい会話を続けて、すずめはポツリと聞いてきた。
「……私を写真に撮りたいって、言いましたよね」
「ああ。嫌か?」
彼女はこくんと頷いた。
「私とナコさんは、これから一緒に行くんでしょう? なら、一人じゃ嫌です。ナコさんと二人で写真を撮らないと、意味がないです」
「そうか……そうだな」
彼女は腕を振りほどいて、振り返った。
少しだけ、目を赤くした彼女と目が合う。
「それに、これじゃあダメ」
そう言って、胸ポケットからデジカメをひょいと抜き取った。
「こんな古いデジカメでは、綺麗な写真は撮れませんよ。ナコさんは、新しい門出なのに画像が荒い写真で満足できるんですか? 未来のナコさんが見たら、絶対後悔しますよ」
「……いや、それでも、十分に綺麗だと思うけど」
「私は嫌です。こんなデジカメじゃ撮影したくないです」
彼女は、デジカメを鉄平の胸ポケットに戻し、
「だから――」
そして、いつもの言葉を告げた。
「デジタルカメラ、買いませんか?」
彼女は無理やりに笑みを作ろうとする。それはとても不器用で、ぎこちないものだったけれど、しっかりと笑っていた。
「そのカメラはナコさんの実家から持ってきたモノなんでしょう? そんなのは私たちが初めて撮るカメラには相応しくありません。ですから、新しいのを用意しましょう。想い出を作るために、私たちが選んだカメラを」
「……結局は、そうなるんだな」
「私らしいと思ってください。そして、なんだかんだ文句を言いながらも、きちんとお買い上げ頂きましてありがとうございますって言えてしまうナコさんが大好きです」
素直じゃないけれど、本当に彼女らしい。
「なら、さっそく選びに行こうか。カタログ、店にあるんだろう」
踵を返す鉄平だったが、
「待ってください、ナコさん」
すずめが呼び止める。
「ん……?」
鉄平が振り返ると、
――
頬に、暖かいモノが触れた。
「え?」
鉄平が呆然と間近にあった少女の顔を見つめると、
「ナコさん」
彼女は、照れたように笑って顔を離した。
「桜が、こんなに咲いているんですから。もう少し散歩してから帰りましょう?」
頬を染めて歳相応のはにかんだ笑顔に、鉄平は笑う。
「ああ、そうだな」
風が吹いて、桜の花びらが舞い上がる。
二人の新しい門出を祝うように。
「ナコさん」
この美しい光景を、新しいデジカメならきっと綺麗に撮影できるだろう。
「私を幸せにしてください」
――その時は、二人揃って桜と一緒に写真を撮ろう。
こうして、鳴子邸に新しいデジタルカメラがくることになる。それは青年と少女が新しい一歩を踏み出すための、門出の記念品。現在を映し、明日へと繋げていくための架け橋。
きっと、幸せそうな笑顔が写真に写って、これから先ずっと残る想い出となるだろう。
彼と彼女が選ぶのがどんなカメラになるかはまだわからない。けれど、きっと少しだけ変わったモノがくるに違いない。
獅子倉商店街から4番目に購入する家電は、デジタルカメラ。
あなたも獅子倉商店街でデジタルカメラ、買いませんか?
◇
夕食後、鉄平は彼女に会いに来た。きっといるとわかっていたから。
「てっぺー、お散歩は楽しかった?」
「ああ、綺麗な桜だったよ。実家ほどではないけどな」
鉄平はベランダにもたれかかり、屋根を見上げる。
いつもと同じように、彼女は夜空を背にそこにいた。
「もうすぐ桜は満開になるよ」
「そうだな、ちょうど入学式には綺麗に咲き揃いそうだ」
彼女は優しく微笑む。
「そうだね。でも、まだ全部が咲いていないの。まだつぼみの花もあるから」
「どういう意味だ?」
含みを持った言葉に、鉄平は問い返す。彼女は花の話をしているだけではないようだ。
けれど彼女は笑顔のまま、話を変えた。
「あの子とは仲良くできそう?」
「ああ、仲良くしていくよ。俺の方が年上なんだ、あまりの彼女に気を使われてばかりじゃいけないからな」
でも慌てることはない。
根拠はないけれど、彼女はいつものように話を途中で切ったりせずに最後まで話してくれるような気がしていたから。だから、最後まで言葉を聞いていこう。
「時間はあるんだ。だから、ゆっくりと……すずめ君と、琴と、この新しい街で出会ったみんなと想い出を作っていくよ。この新しい街で」
ベランダから街を見回す。
時間は22時だというのに、街灯は眩しく光っていて、家もたくさんまだ灯かりがついている。人の気配もあり、改めてここが自分の今まで住んでいた場所じゃないんだなと実感した。
故郷の夜とはとても暗かった。隣の家が見えないほど……誰かと一緒に歩いていてもお互いの顔が見えないくらいに、とても薄暗かった。もう、あの場所には戻らない。
「そっか。良かった。気に入ってくれて」
嬉しそうにそう言う。
「街に来た時のてっぺーは、こーんな顔してずっとみんなを睨んでいたもんね」
「今の俺と対して表情は変わらない気がするんだが」
「そんなことないよ。だって、てっぺーは今、笑ってるもの」
言われてから、自分が自然に笑みを浮かべられるようになっていることに気付いた。
そんなこともわかっていなかった自分に、鉄平は苦笑する。
「ありがとうな」
「ううん、お礼を言うのは私の方だよ」
彼女は立ち上がる気配に、ベランダに背を預けて振り返り見上げる。
「あの子がまた笑えるようになって、本当に嬉しいの。過去があるから、今の出会いがある。今が楽しいから、幸せな未来へと繋がる。てっぺーが、手を引いてあげてね」
そして彼女は清々しい表情で告げた。
「これからあなたたちに待っているのは、幸せな物語だから」
鉄平は、これで彼女とお別れなんだと気付いた。
「……どこかへ行くのか?」
「うん」
彼女は頷いた。
「大丈夫、私はちゃんと見ているから」
彼女はふわっと、髪をなびかせて跳び上がる。
そして――
タンッ。
彼女は隣の家の屋根に乗り移った。
そこは、すずめの母と兄がかつて住んでいたという、空き家。
「私は、まだつぼみのままの花を、咲かせるから」
「……そうか、桜の花は満開じゃないんだったな」
つまり、まだ物語には役者が揃っていないと語っているのだ。そういえば彼女は以前会ったときに言っていた、『今はまだ、プロローグだから』と。これから彩られる物語は、もっともっと賑やかになるということ。
「やれやれ、騒がしくなるな」
そんな未来を想像して苦笑してしまった。
彼女は微笑んで、鉄平のいる家の居間を指差した。
「私の妹を、よろしくね」
「ソラは妹だったのか」
頷き、
「あの子は私で、私はあの子『だった』。けど、今、この瞬間に私たちはもう別の座敷わらしに別れたんだよ。だからソラに優しくしてあげて。彼女が心豊かに成長すれば、きっとまた……違う誰かを幸せにしてくれるから。それが、座敷わらしだよ」
「ああ、美味しいものを毎日食べさせてあげるさ」
その答えに、彼女は満足そうに頷いた。
「それで、君の名前はなんて言うんだ?」
尋ねると、彼女は微笑んで、いつかと同じ言葉を告げた。
「……ない。だからてっぺーが好きなように呼べばいい」
鉄平は笑った。
「……仕方ない。そうだな、じゃあ俺が決めようか」
そして今度は迷わなかった。
「イマ、なんてどうだろう」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「目を逸らしていた過去があるから、現在があるということ。そして現在の先にまだ見たことのない未来って、不器用な俺たちに君は教えてくれた。だから、君の名前はイマだ」
鉄平は親しみと、感謝を込めてそう呼んだ。
「ありがとう」
座敷わらしはまるで大切な何かを胸にしまうように自分の体を抱きしめ、新しくもらった名前をかみ締めるように小さく呟く。
ふわっ――
風か吹いた。鉄平は思わず目を閉じる。
そして目を開いた時には、
――イマは、もういなくなっていた。