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続く道

作者: たつみ暁

 この道は、人生の墓場へと続く道だ。

 数人の騎兵に守られた馬車に、ごとごとと揺られながら、アンジェリカはぼんやりと思考した。

 馬車の窓から見える外には、のどかな風景が広がっている。どこまでも晴れ渡る、雲ひとつ無い蒼穹。春の盛りを迎え、色とりどりの花弁をほころばせる植物。短い恋の季節を謳歌するかのように舞い踊る蝶たち。

 だが、そのいずれも、アンジェリカの沈みゆく心を慰めるには、到底役をなさなかった。

 アンジェリカは今まさに、未来無き地へ向かう、旅の途上に在った。


 アンジェリカは、辺境王国の一領主の長女として、生を受けた。

 辺境といえど、国はそれなりに豊かで、アンジェリカの父が治める領地も、豊饒な土地と、穏やかかつ心優しい性質の民に恵まれ、富み栄えるとまではいかないが、決して貧することは無かった。だからアンジェリカ自身も、潤沢な環境下で、羽毛に包まれた雛の如く大切に大切に育てられた。結果彼女は、知性も品性も十分に施された、一貴族の娘として恥ずかしくない、立派な令嬢に成長した。

 そして、歳を経るにつれ、アンジェリカの生まれ持っていた美しさは、金剛石ダイヤの原石が磨けば磨くほど価値を帯びてゆくのに似て、その輝きを増していった。

 光を浴びると銀糸にすら映る、流れるように美しい、腰まで伸びた金髪ブロンド。長い睫毛の下から覗くは、世にも珍しい、昼、眩しい太陽光の下では緑、夜、静かに揺れるランプの炎の前では赤。ふたつに彩られる、金緑石アレキサンドライトを填め込んだとも錯覚する、曇りの無い瞳。

 唇は形も血色も良く艶やかで、鼻筋はしっかりと通り、顔の均整は完璧なまでにとれている。

 辺境には勿体無いほどの美姫として、アンジェリカの評判は、国境を越えて広まった。

 その噂が、北の皇国にまで届いたらしい。皇太子が、是非アンジェリカを妃に迎えたいと、申し入れてきたのだ。

 父は、このような僻地の娘が、将来の国母こくもになるなど恐れ多い、と、丁重に断りを入れたものの、繰り返し届けられる、皇太子の熱烈な求愛の手紙に、遂に折れた。

 貴族の家柄に生まれた以上、嫁ぎ先を定められしは宿命。それに、それ程までに情熱的な皇太子なれば、不幸な縁組みにはなるまいと、アンジェリカも、結婚を承諾した。

 だが、次に皇国から届いた書状を見て、父も母も、アンジェリカ自身も、絶句せざるを得なかった。

 そこには、要約すれば、

「アンジェリカ嬢は、皇王陛下の側室としてお迎えする」

 と、あったのだ。

 皇国の皇王は、最早60の齢を過ぎた。18歳という結婚適齢期のアンジェリカとは、父と子を超越し、祖父と孫ほどの年齢差がある。

 更に皇王は、正妃以外に十数人の側妻そばめを抱えていた。その上で、皇宮の女という女に片っ端から手を出し、生ませた子供の数は百を超すという。実に自制の効かない性癖は、この地にまで聞き及んでいる。

 そんな皇王が、息子の縁談相手の話を耳にして、自身が手に入れたいと、横恋慕をしたのだ。

 書状を読んだ父は言葉も顔色も失って立ち尽くし、母はそのまま卒倒して寝室へ運ばれた。

 大国の主の決定を覆す力は、この国の誰にも無かった。アンジェリカが嫌だと嘆き悲しんでも、この結婚を反古にして、彼女を救ってくれる者は現れなかった。


 ただ一人、アンジェリカだけの前で、本心をもらした者が、いた。

「お嬢様の望まれぬ婚姻など」

 街に出れば、道ですれ違った女性が振り返らずにはいられないほど整った顔に、翳りを落とし、漆黒の瞳には憂いを宿らせて、彼は言った。

「私は、いえ、この国の誰もが、祝福できますまい」

 ライナス。乳兄弟のライナス。

 品行方正で折り目正しく、堅実を絵に描いたような青年。幼い頃、アンジェリカが兄と慕って後をついてまわり、子供特有の無邪気さでじゃれついても、

「私はお嬢様と対等に接する立場にはございません」

 と、あくまで一定の距離を置き、臣下の礼を崩さなかった。

 頑固なまでの生真面目さは、一領主の一兵卒には勿体ない。王都へのぼって、騎士になっても良いほどだと、アンジェリカの父をはじめとする周囲の者たちは勧めたのだが、ライナス本人は、頑として首を縦に振らなかった。

「私がお仕えすべき方は、この地にいらっしゃいますゆえ」

 それが彼の言い分だった。

 そんなライナスであるから、この、ほとんどの人間の意にそぐわぬ結婚に、正直に不満足を示したのだろう。だが。

「それでは」

 アンジェリカはライナスに問いかけた事がある。

「あなたに、この不本意な結婚を抹消する事ができますか」

 ちろちろとランプの火が燃える静かな部屋で、アンジェリカの赤い瞳は、真っ直ぐにライナスを見すえた。

「例えば、わたくしを連れて、何処か遠くへ逃げる事が」

 黒の瞳が戸惑いに揺れ、そうして、無言のまま、アンジェリカから視線が外される。

 そう、ライナスにそんな事ができようはずが無い。誰よりも礼節を弁える男が、道を踏み外す事など。

 ただ、アンジェリカが信じてみたかっただけだ。幼い日、戯れ半分に交わした言葉を。

「ライナス。わたしが困ったら、真っ先に駆けつけてね。わたしを、助けてね」

「はい、お嬢様。どんな時にも、どんな事があろうとも、私は、お嬢様を悲しませる全てのものから、お嬢様を守ってみせましょう」

 所詮は子供の口約束。

 アンジェリカが皇国へ発つ朝、少々強い風に、少しだけ長めの黒髪をなびかせながら、ライナスは敬礼をし、アンジェリカの乗り込んだ馬車を、互いの姿が道の向こうに消えて見えなくなるまで、見送っていた。


 アンジェリカを悲しませる事態から、ライナスは、彼女を救ってはくれなかった。

 だが、それで良いと、アンジェリカは考える。

 実直に生きてきた、そしてこれからも生きてゆくだろうライナスの人生を、自分の我儘ひとつで台無しにしたくはない。

 生まれた時点で、領家を存続させるための道具と定められた自分と、領家を守るための歯車として生きる彼。ふたつの道が、交わる事は、決して無かったのだ。

 アンジェリカは、幼い恋心を胸に仕舞って、皇国へ嫁ぐ。文字通り皇王に身を差し出して、それと引き換えに後ろ盾を戴き、実家の繁栄を繋ぐのだ。

 そうしてその先には、寵を奪い合う後宮の権勢争いで、心身共にすり減らして、朽ちてゆくばかりの人生が待っているだろう。墓場に入ると同然の運命を辿るのだ。

 窓越しに、春の麗らかな光景を、何らの感慨も無く見やると、アンジェリカは深い溜息をこぼして、視線を車内に戻す。その時、馬車が轍を刻むのとは異なる、蹄の音を聞いて、彼女は俯きかけていた顔を上げた。

 音は襲歩ギャロップで近づいて来る。何事か。よもや盗賊の類ではないか。不安に駆られて、アンジェリカは窓硝子を上げて外を見やり、そして息を呑んだ。

 迫り来る馬が一頭。額に白い星を宿したその青毛には、良く見覚えがある。良く見知った相手の愛馬だ。そして、その手綱を握る黒髪の青年にも。

 馬は馬車に追いつき、並走する。緑の瞳を大きく見開くアンジェリカに、馬上の人は、普段の物静かな口調からは想像もつかぬような大きな声で呼びかけた。

「お嬢様!!」

 ライナス。

 相手の名を、アンジェリカの唇が象る。

 どうしてあなたがここにいるの。あなたが。

 疑問は声として放たれなかった。

「お嬢様、私はあなたと約束をしました」

 ライナスが馬車に馬を寄せ、アンジェリカより先に言葉を発したからだ。

「あなたを悲しませる全てのものから、あなたを守ると。今その約束を果たさずして、いつ果たせるでしょうか」

「ですが、わたくしが皇国に行かねば、お父様や領地の皆に、迷惑が」

「その旦那様が仰ったのです」

 アンジェリカの台詞を遮り、ライナスは先を続ける。

「『私は娘の意に沿わぬ結婚など、認めるつもりは無い。娘が幸せになれるならば、皇国には幾らでも言い訳を用意しよう』と、背中を押されました」

 そうして、アンジェリカに向けて手が差し伸べられる。

「お嬢様、いえ、アンジェリカ。私では力不足と思うならば、この手を無視して下さい。ですが、もし万が一に、自惚れて良いのならば、どうか」

 ライナスが最後まで言い切る必要は無かった。

「答えなど、とうにわかりきっているでしょうに。意地悪な殿方ひと

 両の碧眼からぽろぽろと落涙しながらも、アンジェリカは至上の美しい笑顔を見せる。そして、馬車の扉を勢い良く開け放つと、ライナスに向けて、その身を躍らせた。

 ライナスは難無く、アンジェリカの細い身体を受け止めた。そして、再び馬の速度を上げる。

 追跡は無かった。馬車の御者も、騎兵たちも、まるで、この事態を予測していたかのように静観して、去り行く青毛の馬と、その背の二人を見送った。

 いや、もしかしたら、彼らも期待していたのかも知れない。誰かが、この葬列のような道程から、アンジェリカを救い出してくれる事を。

 駆ける馬上で、幼き頃戯れた、それ以上に、二人は固い抱擁を交わし、視線を交わして笑み合い、そして、少しおずおずとぎこちなく、唇を重ねた。


「それで」

 ベッドの上の幼い子供は、令嬢と兵士の恋物語を語り終えた母親に、尋ねた。

「そのあと、二人はどうなったの?」

「さあ、どうでしょうね」

 母親は、微笑を浮かべて答える。

「どうなったかは、誰も知らないわ」

「そんなことないよ!」

 子供は黒い瞳をきらきらと輝かせながら。

「きっと幸せになったんだよ。誰も二人を知らないところで、今もなかよく暮らしているんだ!」

「そうね、そうだといいわね」

 母親は、我が子の想像に首肯して、毛布を胸元まで引き上げてやる。

「さ、今日のお話は、これでおしまい。おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 母の言葉に、子は頷き返し、目を閉じた。それからものの数分も経たない内に、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。

 その寝顔を、優しく見守る母親の瞳は、ランプの炎に照らされて、美しい赤色を映しだしていた。


 一度は繋がらぬと諦めた道は、交じわった。そして、続いてゆくのだ。

 どこまでも、どこまでも。

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