読書とは読者と本との対話である
私はしがない大学四年の就活生である。
就職活動真っ盛りなこの頃は、就職情報誌を閲覧し、氾濫する電子情報を相手取りながら四苦八苦しながら企業を探し、分かるはずもない自分を切り刻んで検分し、エントリーシートに多大な労力を払い、身銭を切って面接へ罵倒されに行く日々。
総じて否定的、下降思考にしか陥らない私の就活の愚痴を聞くと、友人たちは被害妄想に過ぎないと戒める。
私が経験する種々の物事は、皆が通る道であり、就活を克服して社会に出ていくものだと諭す。
誰でも落ち込みながら、それでも前向きに頑張って内定を勝ち取るのだと。
私の膿んだ就職活動観は、無知蒙昧な我が儘なのだという。
同調してはいても、どこか私には、就職活動に違和感がある。
会社を知れば知るほど何者にもなりたくなくなる。
考えれば考えるほど、自分のよさと悪さは同源発生の表裏一体のもののように思う。
エントリーシートの項目に答えを書いていくと、まるで奴隷になれるかどうかを試されているように感じることがあるし、書類が通ると何であんなものを読んで人を選ぶのかと疑問に思いながら面接に行き、エントリーシートと同じ質問をされ、答えを書くのに費やした時間を思い出してみじめになる。
友人たちは、それでも前向きに受け止めることができるらしい。
感心頻りだ。翻って自分が情けなくなる。
雨がしとどと降り落ちるように、暗い雲に陰った心持は、陰々として扱いにくい。
己が心は迷宮入り、活力は溝を這う濁水。
覚束ない足取りで未だ来らぬ方は五里霧中。
私はこのような心境になると、図書館に赴くことを常としている。
書架に本が並ぶ様は、すこぶる壮観で、あらゆる主張がタイトルとなって目に入り込み内側に触れてくる。
本は読者に発言を求めない。慎ましく、選び取られるのを待っている。
一度選び取られた本は、読者相手に、主張と主張、思想と思想の戦いを繰り広げる。思考の俎上で読者と本は陶冶し合うのである。
本と読者が出会って創り出されるものは人格に脳髄に還元される新思想である。
私はそうした出会いを好む。それらの発露であるタイトルの奔流に触れることを望む。古きも若きも関係なく、瑞々しい叙情詩情あるいは思考が閉じ込められたもので満たされた空間を愛する。
故に私は図書館に赴く。
私が在籍している大学の附属図書館は、新しい本が並ぶ書架の空間と、元は閉架書架であった空間で分かたれている。
他の学生は主に新しい書架と机のある空間に集まる。私は倉庫のような、冷たい金属の壁の書架の間を泳ぐように歩く。静かであり、精神の安堵を確保するのに適し、元閉架書架ということもあってか、隔絶された空間が好ましい。
その日も歩みながら、タイトルの間を泳いでいた。
古い、文字の剥げた背表紙を目で追い、対話を愉しむ。
総記、哲学、宗教、歴史、政治、法律・・・次々に通り過ぎる分類の番地を通り過ぎて―――
ふと、気になる文字の連なりが視界に入った。
立ち止まり、視線で謎っていくと、意識下の網に引っかかったタイトルが周囲から浮かび上がる。
幻想職業事典
やや古ぼけた青い布の背表紙に、銀色の箔押しの文字。
ファンタジーゲームの解説書の類、神話や伝説を集めた本に、よく似たタイトルのものがあるが、その棚に並んでいるのは日本十進分類法366番台の番号が付された本。
件の事典も366の数字がラベルに付されており、大真面目に社会の「労働問題」に分類される本の仲間にされている。
さて、今回、私の思考と思考のぶつかり合いを望むのは、このタイトルらしい。
興味を覚えた私は、『幻想職業事典』の背の天に指をひっかけ、引き出した。
さほど分厚くないそれが「事典」なのか。それとも、これは戯事か?
私は書架の隅の椅子に腰かけ、その本を開き、ページをめくった。