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幽世喫茶  作者: 堕天王
6/12

マイマイ無双

買い物に出たマイは、迷子を拾ってしまう。手伝うわけでもないオセロットに付きまとわれながら、迷子と過ごすお話。


幽世喫茶目録

http://47762756.at.webry.info/201210/article_2.html(BIGLOBEブログ)

ネタバレを含む、登場人物、用語、物語の概要を記したものです。


 長い時を経た物には、魂が宿りモノと化す。日本ならではの考え方ではあるが、他の国でも物に魂が宿る話は多々ある。しかしそれに『神』なんて付ける国は、少ないだろう。

 付喪神(つくもがみ)。日本では、魂を宿した物をそう呼ぶ。


 自然豊かな山々に囲まれた町。その山の一つ、国有林に覆われた先に幽世(かくりよ)喫茶という、看板がリアルに傾いた喫茶店が存在している。その喫茶店には、マイという名前の付喪神が働いていた。マイは、幽世喫茶のマスターである乙衣兎渡子(おとぎぬととこ)が大切にしていたマイセンカップから化生(けしょう)した付喪神である。働きモノで可愛くて、幽世喫茶が辛うじて息をしているのは、彼女のファンが店に来てくれているからだと言っても、過言ではなかろう。マスターである兎渡子にとっては、店が栄えていようが栄えていまいが関係ないのが、この幽世喫茶の致命的な欠点である。

 基本、兎渡子は引きこもっている。そのためマイが姿を見せるようになってからは、ほとんどマイが店を切り盛りしていた。

「……材料が足りないかも」

 マイは、台所で難しい顔。夕暮れの日差しが、誰もいない店内を寂しく彩る。やはり兎渡子は不在で、マイ一人だけの店内。店が山奥にあるため、多くの物は搬入してもらっている。今日はその搬入日だったのだが、お客の数が予想を上回っていたため、微妙に数が足りないものがちらほらと見受けられたのだ。

 砂糖、醤油、他には牛乳もない。十分ある。どうせ客は来ない。と、頼まなかったら、全然足りないという状況である。

「仕方ないです。明日、町に降りちゃいましょう」

 腰に手を当てて、一つ息を吐く。マイは、(ふもと)の町まで買い物に行く事に決めた。


「ではマスター、買い物に行ってきますので、その間お願いします」

 眠たそうな顔で、カウンターに立つ兎渡子に見送られて、マイは幽世喫茶を出た。マイの服装は、幽世喫茶で着ているメイド服。彼女はこの服以外ならば、化生した際に身に纏っていたドレスしかない。山道を下っていくメイドさんの姿は、ここが日本ではないようなそんな錯覚を起こさせる。近くのバス停まで歩いて二十分。相変わらず、びっくりするほどシンプルな時刻表が貼り付けてある。

 バスに乗り三十分。地元唯一のデパート――と言っても二階建てであるが、その近くのバス停に着く。バスから降りると急に熱気が湧き上がってきて、マイは眩しい太陽とのダブルパンチで目を細める。

「ぬぅ……下界は暑いです」

 山に住んでいるせいで、町を下界と呼ぶことが定着していた。

 買い物は、デパートで。他にもいくつかスーパーの類があるが、バス停からどこも遠いのである。停留所を出て、そのデパートに向かっていると――。

「いってぇーー! どこ見てんだよ、ババァ!」

 ドンと後ろから軽い衝撃があって、そんな子供の声が聞こえてきた。マイの後ろで、まだ小学校低学年ぐらいの男の子が尻餅をついている。後ろから勝手にぶつかってきたのだから、マイに過失はない。むしろ、マイの方が被害者である。それだというのに、この言いよう。マイは、カチンと来た。

「口の聞き方に気をつけなさい。ボーイ」

 ドスが効いていた。男の子は顔色をさっと変えて、バタバタと反対方向に逃げていった。マイはスカートの埃を払いつつ、溜息を一つ。

「ガキは苦手です」

 気を取り直して、マイはデパートへと入っていった。

「マイちゃ~ん、まさかわざわざ足を運んでくれるなんて」

 そんな気色の悪い声を出しているのは、八百屋の店主である。頭を下げながら、まるで子猫の機嫌を伺うような姿。

「いつもお店に来て頂いていますから。あ、これ少し安くなります?」

「もちろんだよ! これもつけるからね」

 トマト一個買ったら、じゃがいもやらにんじんやらキャベツやらの品物がおまけされる。端から見ていると、マイが打ち出の小槌を振っているような、そんな有り様。

 マイがこのデパートを利用している最大の理由は、この店主を含めてマイのファンが多数いるからである。営業スマイルと巧みな話術を使って、色ボケ連中からむしるだけむしる。そんな彼女の本性を、知っている者は今のところ誰も居ない。

 買い物を終えて、外へと出る。マイの荷物は、小さな袋一つ分のみ。中身はジュースやらお菓子である。バスの中で食べる分だけ残して、他の荷物は八百屋の店主に押し付けたからだ。後から運んでくれるとの事。もちろん無料である。いつも通りの戦果を挙げて、意気揚々としていたマイであった。

「あの子……」

 デパートの端は銀行になっている。その銀行の入り口には、デパートと違って小さな階段があるのだが、そこに子供の姿があった。マイにぶつかった挙句、悪態を吐いてどこかに行ってしまった子供だ。その表情はとても沈んでおり、マイもその表情を見て悲しい気持ちとなった。

 一つ溜息を吐く。子供は苦手。苦手であるが、困っている子供を見捨てて行きたくはない。

「どうしたんですか?」

 マイは、子供に声をかけることを選んだ。

「なんだよ、話しかけんなバーサン!」

 ピキッと表情が固まる。

「……はぁ、ならお好きにしなさい」

 口まで出かかっていた悪態を飲み込み、(きびす)を返す。子供に声なんてかけるのではなかったと後悔しながら、バス停へと向かおうとした彼女であったが、いざ歩こうとすると抵抗があって進めない。子供がそっぽを向きながらも、マイのスカートの裾を掴んでいたからだ。

「話を聞かせてください」

 マイは仕方がないという顔で、子供の傍で屈んだ。

 子供の名前は、鈴木健介とのこと。彼が言うには、母親と公園に遊びに来ていたそうだが、その母親が用事があるとのことで公園に一人取り残された。しばらくは一人で遊んでいたが、お腹が空いてきて母親も帰ってこない。だから一人で帰ろうと公園を出たのはいいが、家の道も公園への道も分からなくなり、途方に暮れていた。それが事の顛末(てんまつ)のようである。

「なら、素直に大人に助けを乞いなさい」

 スカートの裾をいつまでも掴んでもらっていても困るため、今は子供の手を引いている。子供は俯いて、何も言わない。

「少し、手を放してください」

 割と簡単に手を放してくれたが、少し心細そうな顔をしている。あれだけ悪態を吐き、つんけんとしていた割には、一度頼りだしたらまるで子羊のように小さくなっている。

 マイは、彼の空いた手にスナック菓子の袋を納める。子供の目が輝いた。

「食べていいの?」

「どうぞ」

 少しは悲しみが薄れたか。無邪気にスナック菓子の袋と格闘している。そんな彼を連れて、マイは彼が母親といただろうと思われる公園を目指した。

 その途中――。

「あれは……」

 マイは、露骨に表情をしかめた。進路上の民家の壁に背中を預ける、少年が一人。茶色の髪に、金色の瞳。マイの方を向いて、にやりと笑う。

「オセロット」

 彼の名は、オセロット。一ヶ月ほど前、幽世喫茶に謎の壺が届いた。その壺に封印されていたのが、彼である。第一の太陽の時代を終わらせた彼であるが、幽世珈琲の作用で、世界を終わらせる作業を放棄して農業を営んでいる、変わり種の破壊神である。

 そんな彼であるため、子供から見ると大層不気味に見えるようで、子供はマイの後ろに隠れてしまった。

「こんな所でサボっていないで、畑なり、田んぼなり、好きなものを耕しに行ってください」

 マイは、このオセロットという存在が嫌いである。それは宗教の問題とか、属性の違いとかではなく、個人的な感情に起因している。しかしマイの隠しもしない、『嫌いオーラ』を向けられても、嫌われることには慣れているオセロットには関係がないようである。

「子供相手に四苦八苦している姿が見えたんでね」

「手伝いなら間に合っています」

 すると、オセロットは大変嬉しそうに笑った。

「冗談。手伝う気は最初からない。ただの見学人だ」

 馬鹿が一匹、そこにいる。マイは、無視することに決めた。


 川沿いの道を進み、階段を上り、ようやく子供の言う公園に辿り着いた。多少のロスこそあったが、所要時間は二十分程度。木々が茂る、丘の中腹にある立派な公園だ。オセロットは、律儀にも宣言通り後を付けて来ていた。何が面白いのか。時々、ニヤニヤしている。

「さて、ここで間違いありませんか?」

「うん、ここで間違いない!」

 場所は間違っていないよう。しかし公園はガランとしていて、誰もいない。当然、子供の母親のような人物も見当たらなかった。

「もうしばらく時間を見ましょう」

 今の時刻は、十四時を少し回った所。まだ日が高いので、母親が戻ってくるのを待っても悪くない。

「適当に遊んできなさい」

 荷物をベンチに置いて、マイは座り込む。子供を連れて歩くのは、なかなかにしんどかったようである。オセロットは、宣言通り全く何も手伝いはしなかった。本当に何をしに来たのか。

 子供を遊ばせて、少し休もう。マイはそう算段していたが、子供は数歩歩いた所で立ち止まって、困った顔をして振り向いた。

「どうしたんですか?」

「ん……遊べって言われても……」

 何をしたらいいのか分からない。ということのようである。確かに、子供の言い分は一理ある。しかし、マイは出来るならここから動きたくなかった。体力を温存させておかないと、家までの道中が荒行と化す。

「少しは、人の役に立ちませんか?」

 ベンチの傍に立っていたオセロットに、ダメもとで話を振ってみた。オセロットは、子供の方に顔を向けた。子供もオセロットを見上げている。

 少しして、オセロットが身を屈めて、両手を少し曲げた形で突き出した。まるで獣のようである。子供も、合わせて体を少し沈めた。

「別に構わないぞ。狩りは、我の本分なり」

「狩れとは言っていません……が、ともう聞いていませんね」

 マイの言葉が終わるよりも早く、オセロットは先に逃げだした子供を追いかけ始めた。子供の楽しげな笑い声が響く。ようやくひと段落つける。大きなため息をついて、ベンチに背を預け青い空を見上げた。しかし、マイの休息は長くは続かなかった。子供の楽しげな声が聞こえなくなる。不審に思い子供の姿を探すと、彼はまだ走っていた。ただ、顔が強張っている。後ろからは、無表情で追いかけ続けるオセロットの姿。怖すぎる。そして、間もなくして子供がオセロットに捕まった。

「お姉ちゃん、助けてぇーーーー!!」

 それはもう、今にも食べられてしまう、そういう悲痛な声だった。マイは、頭を抱えていた。

 結局オセロットに荷物の見張りを託し、マイが子供の相手をすることとなった。マイは服装が服装なので、激しい動きは出来ない。だから、子供の傍で見守っているだけであったのだが、それでも子供は十分に楽しげな様子だった。子供は苦手だ、そう話していたマイの表情も、今はとても柔らかい。

 一時間ほどが経つ。親の姿はまだない。子供と共にベンチに戻り、一緒に休んでいるうちに子供はマイの膝を枕にして眠ってしまった。マイは、そんな子供の頭を優しく撫でている。

「子供は嫌いではなかったのか?」

 子供が苦手だと呟いたのは、オセロットに出会う前である。どこから見ていたのか。もしかしたら最初から近くにいたのかもしれない。

「嫌いとは言っていません。苦手なだけです」

 追及するのも面倒なので、マイは質問にだけ答えた。そう、子供は苦手なだけ。人ではないマイは、いつでも置いて行かれるのだ。彼らに――。

 それからしばらく経つも、親の姿は見えず。痺れを切らして、マイは大きなため息を吐いていた。

「もう迎えに来ないのではないのか?」

 オセロットが、考えようにしていたことを口にした。急に心が重たくなる。

「……まだ日が暮れていません。まだです」

 マイは、眠る子供の髪を優しく梳く。その指の震えが、彼女の心境を映す。オセロットは、静かにそれを見守っていた。

「もし迎えに来なかった場合は、どうするつもりだ?」

「警察にでも届けます。育てるわけにはいきませんから」

「無責任なものだな。助けたのであれば、最後まで責任を持たなければならないのではないのか?」

「破壊神のくせに、やけにまともなことを言うのですね」

 マイは、少し顔を上げて苦笑した。

「無責任であることは分かっています。それでも、助けたくなってしまったんだから、仕方がないではありませんか」

「そうか。それは、仕方がないな。しかし子供は嫌いだというのに、矛盾していないか?」

「さっきから言っています。苦手なだけで、嫌いではないと」

 オセロットは、難しい顔をしていた。

「違いが分からん」

「理解して頂こうなんて思っておりません。あなたも、早く家に帰った方がいいのでは?」

「こんな面白い事を放置して帰れん」

 オセロットは、空を仰いで声高らかに笑っている。マイは、頭を抱えた。

「やっぱり破壊神ですね。とっとと、滅びてしまえばいいのに」

「我としては、あのまま封印されていても問題なかったのだ。お前のマスターの母親を恨むのが筋だろう」

 その言葉は、とても不思議だった。本音のようであり、別の感情を隠しているようでもあり。付き合いの浅いマイには、彼が何を思っているのかなど、結局は分からなかったが。

 心地良い風に誘われて。マイは、少しウトウトし始めた。浅い眠りに落ちるまで、それほどの時間は要しなかった。時間としては、四十分程度。何かが動く感触を得て、マイは目を覚ました。子供が起きて、目をこすりながら周りを見渡している。

「起きたの?」

 子供は、小さく頷いた。

「お母さんは?」

 周りを見渡してみる。その時になって、オセロットの姿がないことに気付いた。二人とも寝てしまったので、飽きて帰ってしまったのだろうか。それとも気配を察することができないだけで、どこかに隠れているのだろうか。

「……まだ、のようですね」

 日の傾きが始まっている。時計を確認すると、すでに十六時を回っていた。オセロットの言葉が、脳裏をかすめる。そうあって欲しくはない。不安そうにしている子供の髪を撫でながら、もう一度静かに夕暮れを迎え入れようとしている公園を見渡した。

 公園の入り口には誰もいない。ぐるりと見渡して公園の奥まで見渡してみたが、そこにも人影はない。少し周りを探してみるか。そんなことを思いながら、公園の入り口に視線を戻した時、そこに一人のスーツ姿の女性が立っていることに気付いた。

「お母さんじゃない?」

 距離が離れていて、女性の顔は見えない。子供に確認を促すと、その表情をぱっと輝かせた。

「お母さんだ!」

 駆けていく子供。女性に抱き着き、女性は子供を抱え上げた。子供の嬉しさが零れ落ちんばかりの笑いが、公園を満たす。マイはほっとしながらも、その表情をきつくした。子供の後を追い、女性の下へ。女性は、不思議そうな顔をしていたが。

「このお姉ちゃんが遊んでくれたんだよ!」

 という子供の説明に、現状を把握して深く頭を下げた。

「本当に申し訳ありません。ウチの子がご迷惑をおかけしたみたいで」

「私に謝られても困ります」

 マイの口調はきつい。

「謝るならその子に謝ってください。いかなる理由があろうとも、子供をこれほどの時間一人で置いておくなんて常軌を逸しております。将来、この事がその子にとってトラウマになるかもしれないとは、考えなかったのですか? 子供の傍にいてあげてください。子供にとって、何よりも親が傍にいることが幸せで温かい記憶を紡ぐのですから」

 容姿で見ると一回りは若く見えるマイの言葉に、女性は一瞬戸惑いを見せた。しかし、マイの中身はすでに数百年の時を刻んでいる。その時の重さが、容姿のことを忘れさせるほど女性の心を揺らし――マイの言葉の意味する所を察して子供をぎゅっと抱きしめた。

「そう……ですね。私……何も考えていなかった……ゴメンね」

 涙を流す母親。子供は何も分からず、きょとんと母親を見てそしてマイの顔を見た。マイは、そんな彼に優しく微笑んで見せた。

「元気でね」

「うん! お姉ちゃん、ありがとう!」

 子供の笑顔に見送られて、マイはベンチに置いておいた荷物を持って公園を後にした。

 公園の入り口から伸びる階段を下り、駐車場へ。するとすぐそばに、オセロットの姿があった。

「……まだいたんですか?」

 相変わらず突き放すような態度。しかし、やはりオセロットは全く気にしていない。

「今から、帰るのもしんどかろうと思ったのさ。乗って行け」

 オセロットの後ろには、白い軽トラックが止まっていた。それを見て、感のいいマイはあらかた察したようであった。とても、味のある顔でオセロットを見ている。そのことに気付いて、オセロットは少し不快そうな顔をした。

「なんだその顔は」

「……いいえ。破壊神はやっぱりツンデレなんですね」

「意味は分からないが、乗らないのか?」

「お言葉に甘えます。さすがに、今日は疲れました」

 大きなため息を吐くマイ。オセロットは、ニカッと快活に笑うと、運転席に乗り込んだ。

「腹黒いくせに、善人の真似事をしたからではないのか?」

 助手席に座った途端、オセロットにそんなことを言われた。マイの表情が、冷たく尖っていく。

「オセロットさん、明日の晩辺り畑が焼けてしまっても、後悔しないでくださいね」

「おぉ、怖い怖い。子供も泣いて逃げる、鬼の登場だな」

「本物の怪物にそんなことを言われるなんて、心外です。だいたい、どこの世の中にこんな可愛い鬼がいるというのですか」

「食虫花というものがあってな……」

「軽油の中に砂糖をぶち込みますよ」

「待て。それは、ダメだ。これは我のではない。怒られてしまう」

「遠慮しなくていいんですよ。もう、日ごろの感謝をこめて、たっぷりと」

 二人の静かな罵り合いは、マイの居候先である幽世喫茶に戻るまで続くのであった。


「ただいま戻りました」

 店先でオセロットを追い帰し、マイは幽世喫茶へと戻った。カウンターで小説を読んでいた兎渡子は、けだるそうに顔を上げる。

「おかえり。随分、遅かったわね」

「もう、色々とあったんです」

 荷物をカウンターに上げる。それから、マイは兎渡子に言った。

「あのマスター、幽世珈琲を淹れて頂けませんか?」

 兎渡子は、きょとんとマイを見ていた。これでも驚いているのだろう。

 幽世珈琲とは、兎渡子の『幽世を奏でる指』によって淹れられた珈琲の事を指す。その効能は、『記憶の復元』である。マイは、ここに来て正体を見破られたその時のたった一度しか飲んでいない。兎渡子が驚いているのは、そういうことである。

「少し、昔のことを思い出したくなったもので」

「そう、そういうことならすぐに淹れてあげる」

 兎渡子は、普段は安易に幽世珈琲を作らないよう、封印を施した黒い手袋を着けている。その手袋を脱ぎ、ほっそりとした綺麗な指を表に出した。その指が動く様を見ているだけでも、なんだか不思議な気分になる。

 荷物を片づけて、誰もいない店内へと戻り、丸いテーブルに着く。兎渡子が用意してくれた幽世珈琲を一口含むと、もう忘れかけていたずっと昔の光景が鮮明に輝きだした。

「……子供は苦手なんです」

 幾人もの子供たちの笑顔。もう、彼らはこの世にはいない。なぜなら、その子供たちは何百年前に生きていた子たちだからだ。人ではないマイは、子供の成長を見届け、結婚し、子供を産み老いて死ぬ、その様をじっと見ていなければならなかった。

 子供は苦手。そう呟いた彼女であったが、言葉に反してとても柔らかい笑みを浮かべるのであった。


 ここは幽世喫茶。

 長い時を経たコーヒーカップが微笑むお店。


 END


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