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十年間、風車小屋で待ち続けた幼馴染を『都会の女』に奪われた私。でも、あの軋む音だけは彼の本心を知っていた件〜婚約破棄された田舎娘が実は風車小屋の相続人で、元彼が土下座してきても復縁はしません〜

作者: uta
掲載日:2026/06/04

「ごめん、咲良。俺たち、終わりにしよう」


祭囃子が遠くで鳴っている。

夜風に揺れる提灯の明かりが、颯太の横顔を照らしていた。


……え?


頭が、真っ白になる。

今、なんて言った? 終わり? 何が?


「さ、颯太……?」


声が震えた。みっともないくらい、かすれた声。

十年だ。十年間、私はこの人を待っていた。東京の大学にいた四年間も、資格取得のために必死で勉強していた夜も、ずっと。


『風車が廻る限り、俺はお前のそばにいる』


あの約束を、信じていたのに。


「あー、マジ感動するんですけどー! これ絶対バズるって!」


甲高い声が、私の思考を引き裂いた。

振り返ると、ハイライトの入った巻き髪の女がスマホを構えている。レンズは、私を向いていた。


白鳥玲奈。

東京から来たインフルエンサー。SNSのフォロワー五十万人。颯太が最近やたらと一緒にいる、その女。


「ちょっと、撮らないで……」


「えー、なんでー? 公開プロポーズならぬ公開フラレ現場とか、めっちゃエモくない?」


公開。配信。リアルタイム。


血の気が引いた。


「颯太、これ……どういうこと……?」


縋るように彼を見た。助けてほしかった。嘘だと言ってほしかった。

でも、颯太は私から目を逸らしたまま、困ったように頭を掻いただけだった。


「俺たち、元々釣り合ってなかったんだよ」


釣り合って、なかった。


「お前、自分でもわかってただろ? 田舎にずっといたら腐るって。これは……俺なりの優しさなんだ」


優しさ。

これが、優しさ?


「俺には、相応しい人がいるんだ」


颯太の視線が、玲奈に向いた。

玲奈はスマホを構えたまま、勝ち誇ったように微笑んでいる。その唇が動くのが見えた。


『田舎くさい女より、私の方がお似合いでしょ?』


音が、消えた。

祭囃子も、玲奈の笑い声も、颯太の言い訳も、何も聞こえなくなった。


ただ、一つだけ。


ギイ……ギイイ……


風車が、軋んでいる。


私の背後にある、古い風車小屋。おばあちゃんから受け継いだ、私の唯一の居場所。その羽根が、夜風を受けて悲しげに鳴いている。


——泣いてるの、風車。


違う。泣いてるのは、私だ。


「あ、見て見て! この子泣いてるー! マジウケるんだけどー!」


玲奈のスマホが、私の涙を捉えていた。


『【悲報】田舎の婚約者、祭りの夜に公開処刑されるwww』


そんなタイトルが、彼女のライブ配信画面に踊っているのが見えた。コメントが滝のように流れている。


『ウケるw』

『田舎女ざまぁw』

『顔も地味すぎてワロタ』


身体が動かない。逃げたいのに、足が根を張ったように動かない。


「咲良」


颯太が、一歩近づいてきた。

心のどこかが、まだ期待していた。謝ってくれるんじゃないか。全部嘘だったって言ってくれるんじゃないか。


「お前の気持ちはありがたかったよ。でも、俺は前に進むことにしたんだ」


その言葉に、何かが砕けた。


「……そう」


私の口から出たのは、いつもの口癖だった。本音を飲み込む、悪い癖。


「そっか、わかった」


わかってない。何もわかってない。わかりたくない。


でも、これ以上ここにいたら、私は本当に壊れてしまう。


「じゃあ、お幸せに」


唇を、噛んだ。血の味がした。


振り返って、歩き出す。風車小屋に向かって。逃げ込むように。


「えー、逃げちゃうのー? もっと面白いリアクションしてよー!」


玲奈の声が追いかけてくる。でも、もう振り返らなかった。


ギイイ……ギイイイ……


風車が、また軋んだ。まるで、私の代わりに泣いてくれているみたいに。


——大丈夫、風車。私は、泣かない。もう、泣いてあげない。


風車小屋の扉を開けて、中に滑り込む。古い木の匂い。オイルの匂い。おばあちゃんの匂い。


扉を閉めた瞬間、足の力が抜けた。ずるずると床に座り込んで、膝を抱える。


「……っ」


声は出さない。泣き声は上げない。唇を噛んで、ただ、震えていた。


十年。十年間の、全部が、嘘だった?


スマホが震えた。見たくなかったのに、手が勝手に動いた。


通知が、止まらない。玲奈の配信動画が、既に拡散され始めていた。


『田舎女の哀れな失恋www』

『風車小屋に住み着いてるとかヤバすぎw』

『相手の男イケメンじゃん、そりゃ乗り換えるわw』


何百、何千というコメントが、私を嘲笑っている。


「……別に、いいけど」


誰もいないのに、強がりを呟いた。涙が、頬を伝った。


ギイ……ギイイ……


風車の軋む音だけが、私の味方だった。


——ねえ、おばあちゃん。私、間違ってたのかな。ここで待ち続けたこと、間違いだったのかな。


答えは、返ってこない。


でも、その時。足元に、一通の封筒が落ちているのが見えた。


郵便受けから滑り落ちたらしい、公式っぽい茶封筒。差出人を見て、心臓が跳ねた。


『文化庁 文化財部』


震える手で、封を開ける。


『柊咲良 様


このたび、貴殿が管理されている「柊風車小屋」について、重要文化財指定に向けた事前審査を実施したく……』


文字が、滲んだ。涙のせいじゃない。震えが止まらないせいだ。


重要文化財。


おばあちゃんが、ずっと言っていた。


『この風車小屋には、価値があるんだよ。いつか、きっとみんながわかってくれる』


私が建築修復の道を選んだのは、この風車小屋を守るため。東京で学んだことも、国家資格を取ったことも、全部、この日のため。


誰も知らない。


『ばあちゃんの風車小屋に住み着いてる地味な娘』が、実は建築修復士の国家資格を持っていることを。この朽ちかけた風車小屋が、歴史的にどれほど価値があるかを。


——そして、私がこの風車小屋の、正式な相続人だということを。


窓の外で、風車がゆっくりと廻っている。軋みながら、それでも廻り続けている。


おばあちゃんの言葉が、蘇る。


『風車はね、軋むから廻れるんだよ。軋まない風車は、もう死んでるのと同じ』


私も、まだ死んでない。軋んでいても、まだ廻れる。


顔を上げた。涙を拭って、立ち上がる。


「……見てなさい」


誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。颯太に? 玲奈に? 私を嘲笑ったSNSの見知らぬ人たちに?


それとも、私自身に。


風車が、また軋んだ。でも今度は、その音が少しだけ力強く聞こえた。


まるで、『負けるな』と言っているみたいに。



       *



眠れない夜が続いていた。


スマホの通知は切ったのに、頭の中では玲奈の甲高い笑い声が鳴り止まない。『田舎女の哀れな失恋』。その動画は既に十万回以上再生されているらしい。村の誰かがこっそり教えてくれた。もう見たくないのに、見てしまう自分が嫌になる。


「……最悪」


布団を頭から被って、目を閉じる。でも、瞼の裏に浮かぶのは颯太の顔じゃなかった。


十四年前の、夏の日のこと。


——ねえ、この風車小屋、なあに?


十歳の私は、祖母に手を引かれて初めてこの場所に来た。両親が離婚して、母は都会へ、父は海外へ。行き場をなくした私を引き取ってくれたのが、おばあちゃんだった。


『これはね、咲良のお家だよ』


おばあちゃんは皺だらけの顔で笑った。


『ここの風車はね、二百年以上も前から廻ってるんだ。村の人たちの小麦を挽いて、みんなのお腹を満たしてきたんだよ』


古くて、埃っぽくて、あちこち軋んでいた。正直、怖かった。お化けが出そうだと思った。


でも、おばあちゃんが嬉しそうに歯車を指差して説明する姿を見ていたら、なんだか不思議と安心した。


『風車はね、軋むから廻れるんだよ。軋まない風車は、もう死んでるのと同じ』


その意味が、十歳の私にはわからなかった。わかったのは、もっと後になってから。


颯太と出会ったのは、その年の秋だった。


『おい、お前、東京から来たやつだろ!』


転校初日、教室で声をかけてきたのが颯太だった。日焼けした肌に、人懐っこい笑顔。村の子供たちのリーダー格で、誰からも好かれていた。


『ここ田舎だから暇だぞー。でもまあ、俺が遊んでやるから安心しろ!』


図々しくて、自信家で、でも不思議と嫌じゃなかった。両親のいない私を、颯太は特別扱いしなかった。他の子供たちと同じように、泥だらけになって遊んでくれた。


風車小屋を見せたのは、出会って一年が経った頃。


『なにこれ、すげー! 秘密基地じゃん!』


颯太の目がキラキラ輝いていた。


『ここ、お前んちなの? 超羨ましい!』


初めてだった。このボロボロの風車小屋を、羨ましいと言ってくれた人は。


それから、風車小屋は二人の秘密の場所になった。放課後はいつもここで過ごした。宿題をしたり、漫画を読んだり、将来の夢を語り合ったり。


『俺、大人になったらこの村出て、大金持ちになるんだ!』


『……そう』


『お前もついてくるだろ? 俺の嫁になれよ』


『……え?』


十五歳の夏。風車小屋の窓辺で、颯太は当たり前みたいにそう言った。


顔が熱くなるのを感じながら、私は俯いた。


『嫁って……何言ってるの』


『照れんなよー。俺たち十年後も一緒にいるに決まってんだろ!』


颯太は笑って、私の頭をくしゃくしゃに撫でた。


『約束な。風車が廻る限り、俺はお前のそばにいる』


その言葉を、私は本気で信じた。十五歳の夏に交わした、幼い約束を。


——馬鹿みたい。


布団を跳ね除けて、身体を起こす。窓の外はもう明るくなっていた。


あれから十年。約束を守ったのは、私だけだった。


東京の大学に進学したのは、建築を学ぶためだった。おばあちゃんの風車小屋を、いつか自分の手で修復したい。その一心で、死に物狂いで勉強した。


『咲良には、風が読める目がある』


おばあちゃんはよくそう言った。


『風車のどこが傷んでいるか、風車が何を訴えているか、お前には聞こえるだろう?』


最初は意味がわからなかった。でも、大学で建築修復を学ぶうちに、おばあちゃんの言葉が少しずつ理解できるようになった。


建物は、生きている。軋みは、悲鳴。傾きは、疲労。割れは、SOS。


それを読み取って、治療する。それが、建築修復士の仕事。


国家資格を取得したのは、二十二歳の冬だった。試験会場を出た瞬間、真っ先におばあちゃんに電話した。


『受かった……私、受かったよ、おばあちゃん……!』


電話の向こうで、おばあちゃんは泣いていた。


『よくやったね、咲良。これでお前は、風車小屋を守れる』


その三ヶ月後、おばあちゃんは静かに息を引き取った。


遺言書には、こう書かれていた。


『風車小屋は、咲良に託す。この子には風が読める目がある。どうか、この風車を守ってほしい』


村に戻ってきたのは、その直後だった。颯太が『帰ってこいよ、待ってるから』と言ってくれたから、というのもある。でも本当の理由は、おばあちゃんとの約束を守るためだった。


村の人たちは、私の帰郷を『颯太と結婚するため』だと思っている。『ばあちゃんの風車小屋に住み着いてる地味な娘』——それが私への評価。


誰も知らない。私が建築修復士の国家資格を持っていることを。東京で学んだ知識と技術で、毎晩風車小屋のメンテナンスを続けていることを。


そして、この風車小屋が、歴史的にどれほどの価値を持っているかを。


江戸時代後期に建てられた、和洋折衷の希少な風車建築。オランダから伝わった技術と、日本の伝統工法が融合した、国内でも数少ない現存例。


文化庁に資料を送ったのは、半年前。重要文化財として保護してもらえれば、修復費用の助成が受けられる。おばあちゃんの風車を、永遠に残すことができる。


昨夜届いた封筒。『重要文化財指定に向けた事前審査』。


やっと、やっとここまで来た。


「……」


ベッドサイドに置いた封筒を、もう一度手に取る。文化庁の正式な書面。これがあれば、私は——


スマホが震えた。


通知を見て、胃がきゅっと縮む。


『【速報】田舎の婚約者、元カレの新彼女に完全敗北wwwまとめ』


玲奈の配信動画が、ネットニュースにまで取り上げられている。再生回数は三十万回を超えていた。


『この田舎女、風車小屋に住んでるってマジ? キモすぎ』

『まあ田舎で一生終わる人生も悪くないんじゃない?(笑)』


手が震える。涙は出ない。もう、枯れてしまったみたいだ。


「……別に、いいけど」


誰もいない部屋で、また強がりを呟く。


窓の外で、風車がゆっくりと廻っていた。朝日を受けて、古い羽根が金色に輝いている。


ギイ……ギイイ……


軋みながら、それでも廻り続けている。


おばあちゃんの声が、聞こえる気がした。


『軋むから廻れるんだよ、咲良』


唇を噛んで、立ち上がる。


今日も、風車小屋の点検をしなくちゃ。誰にも知られない、私だけの仕事。


でも、いつか。いつか必ず、この風車小屋の価値を、みんなにわかってもらう。


おばあちゃんとの約束を、守るために。


——そして、颯太に捨てられた『田舎女』じゃない、本当の私を取り戻すために。


作業着に着替えながら、私は静かに決意した。


もう、軋むことを恐れない。軋んでも、廻り続ける。


それが、風車小屋から学んだこと。おばあちゃんが教えてくれたこと。


そして——私が、私である理由。



       *



「咲良ちゃん、大丈夫かい?」


幸子さんの食堂『まんぷく亭』に入った瞬間、カウンター越しにそう声をかけられた。


「……別に、大丈夫ですけど」


いつもの席に座る。窓際の、風車小屋が見える特等席。


幸子さんは何も言わず、大盛りのカツ丼を私の前に置いた。頼んでないのに。


「食べな。腹が減っては戦はできぬ、ってね」


「幸子さん、私、そんなに——」


「SNSで三十万回再生されてんだよ、あんたの泣き顔」


心臓が跳ねた。


「……見たんですか」


「村中が見たよ。あの白鳥とかいう女、許せないねえ。人の不幸を金に換えるようなやり方、あたしゃ大嫌いだよ」


幸子さんは腕を組んで、ふんっと鼻を鳴らした。


「颯太の馬鹿息子もね。あの子は昔からそうだった。見てくれは良いけど、芯がないんだよ。風に流されやすい葦みたいな男だ」


その通りだと思った。でも、その葦みたいな男を十年間信じていたのは、私だ。


「……私が馬鹿だったんです」


「馬鹿じゃないよ。信じることは馬鹿じゃない。騙す方が悪いに決まってる」


幸子さんの声は、いつもより優しかった。目頭が熱くなる。


「負けんな、咲良ちゃん」


そう言って、幸子さんは厨房に戻っていった。


カツ丼の湯気が、涙で滲んで見えた。


食堂を出ると、村人たちの視線が刺さった。


表向きは挨拶を返してくれる。「大変だったねえ」「気を落とすんじゃないよ」


でも、その目には憐れみが滲んでいた。時には、好奇の色も。


——ほら、あの子よ。SNSで晒された子。

——婚約者に捨てられて、可哀想にねえ。

——まあ、あの玲奈って人と比べたら、勝ち目ないわよねえ。


ヒソヒソ声が、風に乗って聞こえてくる。聞こえないふりをして、歩き続けた。


スマホが震えた。また通知だ。


『【続報】田舎婚約者、風車小屋に引きこもり中wwwメンヘラ確定か?』


玲奈のSNSアカウント。新しい投稿がアップされている。


風車小屋の写真だ。私の風車小屋。遠くから望遠で撮影したらしい。


『今話題の風車小屋、現地調査してきましたー! ボロボロでヤバいんですけどwww これに執着してる田舎女マジ意味不明ー』


息が詰まった。


『こんな廃墟みたいなところに住んでるとか、私には無理ー。彼氏くん(神崎颯太♡)と一緒に、ここをオシャレなカフェにリノベする計画中です! お楽しみにー♡』


カフェ。私の風車小屋を、カフェに?


コメント欄が賑わっている。


『玲奈ちゃん行動力すごい! 廃墟カフェとかエモすぎ!』

『田舎女涙目wwwざまぁwww』

『てか風車小屋って勝手に使っていいの? 土地の権利とかどうなってんの?』


最後のコメントに、玲奈が返信していた。


『彼氏くんの元婚約者のものらしいけど、どうせ価値わかってないでしょwww 安く買い叩けると思う♡』


手が震えて、スマホを落としそうになった。


安く、買い叩く?


おばあちゃんが命懸けで守ってきた風車小屋を? 私が十年かけて学んだ技術で、維持し続けてきた風車小屋を?


「——ふざけるな」


声が、自分でも驚くほど低く出た。


その時、ポケットの中で別の通知が震えた。


メールだ。差出人は——文化庁。


『柊咲良 様


事前審査の件、正式にお伝えいたします。「柊風車小屋」は、重要文化財指定に向けた最終審査に進むことが決定いたしました。現地調査のため、来週、当庁職員がお伺いいたします。


詳細は添付資料をご確認ください。


文化庁 文化財部 記念物課

椎名 蒼介』


目を疑った。三回読み直した。


最終審査。現地調査。来週。


「……嘘」


足から力が抜けて、道端にしゃがみ込んだ。


文化財指定が決まれば、風車小屋は国の保護対象になる。勝手に売却することも、改築することも、できなくなる。


玲奈のカフェ計画も、颯太の思惑も、全部——


「……っ」


笑いが込み上げてきた。涙と一緒に、笑いが。


空を見上げる。青空の下、風車がゆっくりと廻っていた。


ギイ……ギイイ……


その軋みが、今度は違って聞こえた。泣いているんじゃない。笑っているみたいに。


「おばあちゃん……」


見ててね。もう少しだから。


もう少しで、この風車小屋の本当の価値を、みんなに証明できる。


『田舎女の哀れな失恋』なんかじゃない。私は——風車小屋を守る、建築修復士なんだから。


立ち上がって、スマホをポケットにしまう。


来週。文化庁の調査官が来る。


椎名蒼介、という名前。どんな人だろう。


私の十年を、わかってくれる人だといいな。


そう願いながら、私は風車小屋へと歩き出した。


背後で、風車が大きく廻った。風が、変わり始めていた。



       *



「すみません、柊咲良さんのお宅は——あ、いや、風車小屋はこちらですか?」


声のした方を振り返ると、黒縁眼鏡の男性が立っていた。


少しくせのある黒髪に、知的な雰囲気。背は高いが猫背気味で、どこか疲れた空気を纏っている。手には書類鞄と、カメラ機材が入っているらしい大きなケース。


「……椎名さん、ですか」


「椎名蒼介です。文化庁からお伺いしました」


丁寧なお辞儀。その所作に、育ちの良さが滲んでいた。


「柊咲良です。……お待ちしてました」


「早朝からすみません。風車は、朝の光で見るのが一番なので」


窓から差し込む朝日に目を細めながら、椎名さんは風車小屋を見上げた。その瞳が、子供のように輝いている。


「……すごい」


呟くような声だった。


「江戸後期の和洋折衷建築。オランダ式の風車機構と、日本伝統の木組み技術の融合……資料で見てはいましたが、実物はやはり違いますね」


「詳しいんですね」


「建築が好きなんです。特に、生きている建物が」


生きている建物。その言葉に、心臓が跳ねた。


「僕、元々は大手ゼネコンで働いていたんです」


不意に、椎名さんが話し始めた。


「最新のビルをいくつも手がけました。効率重視、コスト重視、工期重視。どれも立派な建物でしたよ。でも——」


椎名さんは風車の羽根を見上げた。


「軋みがなかったんです」


「軋み……」


「新しい建物は、完璧に計算されています。軋まないし、揺れないし、音も立てない。でも、それって……生きていないんじゃないかって、思うようになったんです」


ギイ……と、風車が鳴った。


椎名さんが微笑んだ。


「この音です。この風車は、ちゃんと生きている」


——この人には、聞こえるんだ。風車の声が。


不思議な感覚だった。初対面なのに、ずっと前から知っている人みたいに、胸がざわついた。


「中を見せていただいても?」


「……はい、どうぞ」


風車小屋の中に案内する。椎名さんは一つ一つの歯車を、柱を、梁を、丁寧に観察していった。時々メモを取り、写真を撮り、そして——


「柊さん」


「はい」


「この補修箇所……あなたがやったんですか?」


歯車の軸受け部分を指差している。私が先月、新しい木材で補強した場所だ。


「……はい」


「すみません、正直に言っていいですか」


胃がきゅっと縮んだ。下手だと言われるんだろうか。素人仕事だと。


「素晴らしい仕事です」


「……え?」


「江戸時代の工法を完璧に再現している。新しい木材の選定も適切だし、噛み合わせの調整も職人レベルです。これ、本当にお一人で?」


「……建築修復士の、資格を持っているので」


椎名さんの目が、大きく見開かれた。


「国家資格ですか?」


「はい」


「失礼ですが、取得はいつ?」


「二十二歳の時です。東京の大学で建築修復を専攻していました」


沈黙が落ちた。椎名さんは信じられないものを見る目で、私を見つめていた。


「なぜ……それを公表しないんですか?」


「……誰も興味ないと思ったので」


「興味がない? これだけの技術を持った方が、こんな貴重な建築物を一人で守っているのに?」


「村の人たちにとって、私は『ばあちゃんの風車小屋に住み着いてる地味な娘』ですから」


自嘲的な笑みが漏れた。


椎名さんは眉を寄せて、何か言いたげだった。でも、それ以上は踏み込んでこなかった。


「床下も調査してよろしいですか?」


「はい、どうぞ。脚立がそこに——」


床板を外して、椎名さんが床下に潜り込む。ライトの光が、暗闇の中を這い回った。


「……ん?」


声が聞こえた。


「柊さん、これ、見てもらえますか」


床下から顔を出した椎名さんの手に、何かが握られていた。古びた、筒状のもの。


「これは……」


「床下の梁に、隠すように置いてありました」


受け取って、慎重に蓋を開ける。中から出てきたのは——


「図面……?」


巻物状の、古い紙。広げると、墨で細かく描かれた設計図が現れた。


「これは……風車小屋の、設計図?」


「江戸時代のものですね。見てください、この署名」


椎名さんが指差した場所に、くずし字で名前が書かれていた。


「『和蘭技師ヤン・フェルスター監修、大工棟梁柊甚左衛門作』……」


「柊。あなたのご先祖ですか?」


心臓が、大きく鳴った。


「おばあちゃんから聞いたことがあります。うちの先祖が、オランダから来た技師と一緒にこの風車を建てたって」


「これは大発見です。オランダ人技師と日本人大工の協働を示す、直接的な証拠だ」


椎名さんの目が、再び子供のように輝いていた。


「重要文化財指定、確実かもしれません」


「本当……ですか?」


「この図面があれば、歴史的価値を客観的に証明できます。柊さん、あなたがこの風車小屋を守ってきたからこそ、この発見があった。胸を張ってください」


胸を張る。十年間、誰にも認められなかった私の努力が、初めて——


「……っ」


涙が、溢れそうになった。慌てて顔を背ける。


「すみません、僕、無神経なこと言いましたか?」


「いえ……違うんです。嬉しくて」


嬉しい。ただ純粋に、嬉しかった。


その時、外から車のエンジン音が聞こえた。


窓から覗くと、見覚えのある高級車が近づいてくる。運転席には颯太。助手席には——玲奈。


「あ、あの……」


慌てて椎名さんに振り返る。


「来客みたいです。少し待っていてもらえますか」


「構いませんが……何か問題でも?」


問題。問題だらけだ。


車が止まり、颯太と玲奈が降りてきた。玲奈は相変わらずスマホを構えている。


「きゃー、やっぱボロいねー! これがあの風車小屋かー!」


「颯太、何の用?」


私は入口に立ちふさがった。


颯太は気まずそうに目を逸らしながら、それでもへらへらと笑った。


「いや、ちょっと話があってさ」


「話?」


「この土地のこと。お前、売る気ない?」


「……は?」


「俺と玲奈でさ、ここでカフェやろうと思ってんだよ。お前一人じゃ維持も大変だろ? 良い値段出すからさ」


良い値段。安く買い叩く。


玲奈のSNSの投稿が、頭をよぎった。


「売らない」


「えー、ちょっとは考えてよ」


玲奈が割って入ってきた。


「あなたには価値わかんないでしょ? こんなボロ小屋。でも私たちなら、オシャレにリノベして価値上げてあげられるの。感謝してほしいくらいなんだけどー」


「価値が、わからない……?」


声が震えた。怒りで。


「この風車小屋は、二百年以上の歴史がある。江戸時代の和洋折衷建築として、国内でも希少な現存例なの。今日、床下から当時の設計図も見つかった。オランダ人技師と日本人大工の協働を示す、貴重な史料」


言葉が、次々と溢れ出した。


「私はこの風車小屋を守るために、建築修復を学んだ。国家資格も取った。十年かけて、一人で維持管理を続けてきた。あなたたちに、何がわかるの?」


玲奈の顔から、笑みが消えた。


「……は? 国家資格? 何言ってんの、この人」


「柊さんの言う通りです」


背後から、椎名さんの声がした。


「椎名蒼介、文化庁の調査官です。この風車小屋は、重要文化財指定の最終審査を受けています」


名刺を差し出す椎名さん。玲奈と颯太の顔色が、みるみる変わった。


「重要文化財……?」


「指定が決まれば、勝手な売買や改築は法律で禁じられます。カフェへのリノベーションなど、当然不可能ですよ」


沈黙が落ちた。


玲奈の顔が、怒りで歪んでいく。


「……っ、行くわよ颯太!」


くるりと背を向けて、車に乗り込む。颯太は呆然と立ち尽くしていた。


「咲良……お前、そんな……」


「帰って」


私は静かに、でも毅然と言った。


「この風車小屋は、私の家だから」


颯太は何か言いかけて、でも結局何も言わずに、車に乗り込んだ。


タイヤが砂利を蹴り上げて、車が走り去っていく。


「……大丈夫ですか」


椎名さんの声で、我に返った。


「はい……すみません、見苦しいところを」


「いいえ。僕には、あなたの仕事が眩しく見えました」


「え……?」


「柊さん、あなたは自分で思っているより、ずっとすごい人ですよ」


その言葉が、胸に染み込んでいった。


ギイ……ギイイ……


風車が、大きく廻った。まるで、喝采を送っているみたいに。



       *



調査は三日間に及んだ。


椎名さんは毎朝、日の出とともに風車小屋にやってきた。歯車の噛み合わせを調べ、木材の年輪を数え、古い図面と現状を照らし合わせる。その姿は、研究者というより職人のようだった。


「ここの継ぎ手、素晴らしいですね」


「ああ、そこは去年補修した場所です」


「え、これも柊さんが?」


「はい。元の工法を参考に、同じ樹種の材を選んで……」


話し出すと止まらなかった。椎名さんは専門的な話にもついてきてくれたし、時には私が知らない知識を教えてくれた。


「この歯車の配列、オランダ本国のものより効率的なんですよ。おそらく日本の風土に合わせて改良されたんでしょうね」


「そうだったんですか……」


「柊甚左衛門さん、相当な腕前だったと思います。ご先祖様ですね」


「……そう、みたいです」


おばあちゃんから聞いた話が、少しずつ裏付けられていく。血の繋がりを超えて、技術が受け継がれてきた実感があった。


「柊さんは、どうして建築修復の道を選んだんですか?」


二日目の夕方、休憩中に椎名さんが訊いた。


「……おばあちゃんの影響、ですかね」


窓の外の風車を見つめながら、話し始めた。


「幼い頃、両親が離婚して、私はおばあちゃんに引き取られたんです。この風車小屋で育ちました」


「そうだったんですか」


「おばあちゃんはいつも言ってました。『風車はね、軋むから廻れるんだよ。軋まない風車は、もう死んでるのと同じ』って」


椎名さんが、静かに頷いた。


「最初は意味がわからなかったんです。でも、東京の大学で建築を学ぶうちに、少しずつわかってきました。建物は生きている。傷むのも、軋むのも、生きている証拠なんだって」


「……」


「だから私は、この風車小屋を守りたかった。おばあちゃんが命懸けで守ってきたものを、私も繋いでいきたいって」


言葉にすると、胸がいっぱいになった。


「椎名さんは……どうしてこの仕事を?」


訊き返すと、椎名さんは少し間を置いてから答えた。


「逃げてきたんです、都会から」


「逃げて……?」


「大手ゼネコンで働いていた頃、僕は出世コースにいました。大型プロジェクトをいくつも担当して、周囲からは『期待の若手』と呼ばれていました」


意外だった。この疲れた雰囲気の人が、エリートだったなんて。


「でも、ある日突然、動けなくなったんです。会議室に入れなくなって、パソコンを開くと手が震えて、夜は眠れないのに朝は起き上がれない。医者には『過労と適応障害』と言われました」


「……」


「休職して、実家に戻って、ぼんやりと過ごしていた時期がありました。その時、近所の古い神社の修復工事を見たんです」


椎名さんの目が、遠くを見ていた。


「職人さんたちが、何百年も前の木材を丁寧に扱っている姿を見て、涙が出ました。僕が作ってきた建物は、五十年もすれば壊されるんです。でも、あの神社は三百年以上も生きている。何が違うんだろうって」


「……」


「それから、本物の価値って何だろうって考えるようになりました。効率や利益じゃなくて、時間をかけて紡がれてきたもの。軋みながらも廻り続けてきたもの。そういうものを守る仕事がしたいと思って、文化庁に転職したんです」


風が吹いて、風車が大きく軋んだ。


ギイイ……ギイイイ……


二人で、その音を聞いていた。


「だから、この風車小屋を見た時——」


椎名さんが、私を見た。


「僕には、あなたの仕事が眩しく見えたんです。十年間、一人で守り続けてきた。その重さを、少しだけわかる気がして」


目が、熱くなった。


「……っ」


涙を堪えるのに必死で、言葉が出なかった。


颯太には、一度も言われたことがない。『すごい』も『眩しい』も、言われたことがない。


いつも、『地味だ』『田舎くさい』『もっとおしゃれにしろ』。私の内面を見てくれたことなんて、一度も——


「すみません、変なこと言いましたね」


椎名さんが慌てたように目を逸らした。


「いえ……違うんです」


涙を拭って、顔を上げる。


「嬉しいんです。初めて……ちゃんと見てもらえた気がして」


椎名さんが、驚いたように目を見開いた。そして、ふっと笑った。


「僕も、久しぶりに……ちゃんと見えた気がします。この風車小屋のおかげで」


窓の外で、夕日が風車を照らしていた。オレンジ色の光の中で、羽根がゆっくりと廻っている。


軋みながら、でも力強く。


「明日で調査は終わりです」


椎名さんが立ち上がった。


「報告書をまとめて、上に上げます。おそらく、正式指定は一ヶ月後くらいになるかと」


「一ヶ月……」


「その間、何かあったら連絡ください。僕にできることがあれば」


名刺を渡された。文化庁の正式な名刺と——もう一枚、手書きのメモ。


『個人の連絡先です。仕事以外でも構いません』


顔が熱くなった。


「……ありがとうございます」


「いえ。こちらこそ、貴重な体験をさせていただきました」


椎名さんは丁寧にお辞儀をして、帰っていった。


一人残された風車小屋で、私は名刺を眺めていた。


——何これ、ドキドキしてる。


馬鹿みたい。颯太に捨てられたばかりなのに、もう別の人に心を動かされるなんて。


でも——


『柊さん、あなたは自分で思っているより、ずっとすごい人ですよ』


あの言葉が、何度も胸の中でリフレインする。


ギイ……と、風車が小さく鳴いた。まるで、からかっているみたいに。


「……うるさいな、風車」


苦笑いしながら、私は名刺をポケットにしまった。


新しい風が、吹き始めている。そんな予感がした。



       *



それは、椎名さんが帰った翌日のことだった。


「ちょっとー、勝手に入んないでよ!」


朝食を終えて風車小屋の外に出ると、見慣れた高級車が止まっていた。玲奈だ。


彼女はスマホを構えて、風車小屋のあちこちを撮影していた。


「あ、おはよー♡ 勝手にって言っても、外観撮ってるだけじゃん? 敷地には入ってないしー」


確かに、ギリギリ公道からの撮影だった。でも——


「許可なく撮影しないで」


「えー、公道から見える範囲はセーフでしょ? 訴えられないよー」


玲奈は涼しい顔でスマホをいじり続けた。


「これ、すっごくバズると思うんだよねー。『重要文化財候補の風車小屋、実は廃墟同然だった!?』みたいな」


「廃墟じゃない」


「えー、だってボロボロじゃん。こんなの保存する価値あるの? 税金の無駄遣いーって叩かれそう」


血が、頭に上った。


「あなたに何がわかるの」


「わかんないよー? でも、フォロワーにはわかりやすい話の方がウケるじゃん。『田舎の地味女が税金使って古い小屋守ってます』とか、めっちゃ炎上しそう♡」


「——っ」


拳を握りしめた。言い返したい言葉は山ほどあった。でも、彼女と言い争っても意味がない。それが彼女の望むことだと、わかっていたから。


「ねえ、マジな話していい?」


玲奈が、急に声のトーンを落とした。スマホをしまって、私に近づいてくる。


「この土地、売ってくれない?」


「……前も断ったはず」


「いい値段出すから。三千万でどう?」


三千万。この土地の相場から考えれば、破格だ。


でも——


「お金の問題じゃない」


「へえ。じゃあ何の問題なの?」


「ここは私の家だから。おばあちゃんから受け継いだ、大切な場所だから」


「家ね」


玲奈が、嘲笑うように鼻を鳴らした。


「あのさ、現実見たら? あなた一人でこんなボロ小屋守って、何になるの? 結婚相手もいない、収入も不安定、将来どうすんの?」


「……」


「重要文化財? 指定されたところで、維持費は自腹でしょ? 修復費用だってバカにならない。あなた、そんなお金あるの?」


言葉に詰まった。正直、その通りだったから。


国の補助金は出るけど、全額じゃない。自己負担分をどうするか、私もずっと悩んでいた。


「私に売ってくれたら、心配いらないよ。ここを素敵なカフェにして、ちゃんと活用してあげる。あなたは三千万持って、好きな場所で新しい人生始められる。Win-Winでしょ?」


優しい言葉。甘い言葉。


でも、その目は笑っていなかった。


「……私のこと馬鹿にしてる?」


「してないよー。むしろ心配してるの。だってほら、あなた可哀想じゃん? 婚約者に捨てられて、SNSで晒されて、村中の笑いものになって。これ以上惨めな思いしたくないでしょ?」


可哀想。惨め。


その言葉が、ナイフのように胸に刺さった。


「早く売った方がいいと思うなー。だって、もし重要文化財に指定されたら、簡単に売れなくなっちゃうでしょ? 今がラストチャンスだよ?」


「……」


「それにね」


玲奈が、スマホを取り出した。画面を見せてくる。


「颯太のパパの借金、知ってる? 五千万だって」


心臓が、止まりそうになった。


「颯太、あなたと結婚したら、この土地を担保にお金借りようと思ってたみたいよ? でも婚約破棄しちゃったからねー。今すっごく困ってるの」


「……颯太が、そんなこと……」


「あ、本人には言ってないよ? パパの借金のこと調べたの、私だもん。颯太って馬鹿だからさ、自分が利用されてることも気づいてないの」


玲奈が、にっこり笑った。でもその笑顔は、氷のように冷たかった。


「私がこの土地買い取って、リゾート開発業者に転売すれば、億になるの。颯太の借金なんて余裕で返せる。そしたら颯太、私に頭上がんないでしょ? 完璧じゃない?」


目眩がした。


全部、最初から計算されていた。颯太との出会いも、婚約破棄の演出も、SNSでの拡散も。全部、この土地を手に入れるため——


「あなたって本当に——」


「ひどい女? そうかもね。でも、世の中ってそういうもんでしょ? 使えるものは使う、勝てる時に勝つ。あなたみたいに、古いものに執着してちゃ、置いてかれるだけだよ?」


玲奈は肩をすくめて、車に乗り込んだ。


「まあ、ゆっくり考えてよ。でも、あんまり長くは待てないからねー」


エンジン音を響かせて、車が走り去っていく。


私は、その場に立ち尽くしていた。


颯太は、最初から私を愛してなんかいなかったのか。この土地が目当てだった? あの約束も、十年間の思い出も、全部——


「……っ」


膝から力が抜けて、地面に座り込んだ。


ギイイ……ギイイイ……


風車が、大きく軋んだ。まるで、一緒に泣いてくれているみたいに。


——おばあちゃん。私、どうすればいいの。


空を見上げると、鉛色の雲が広がっていた。嵐が、近づいているようだった。


スマホが震えた。


見ると、椎名さんからのメッセージだった。


『報告書、順調にまとめています。何か問題はありませんか?』


……問題だらけだ。でも、こんなこと、彼に相談していいんだろうか。


迷いながら、返信を打った。


『ありがとうございます。少し、困っていることがあって……』


送信した直後、また震えた。


『よければ、お話聞かせてください。今夜、電話してもいいですか?』


目頭が、熱くなった。


『……はい。お願いします』


返信を打つ手が、震えていた。


一人じゃ、なかった。味方が、いた。


顔を上げると、風車がゆっくりと廻っていた。嵐の前の、静かな風を受けて。


——負けない。絶対に、負けない。


おばあちゃんが守ってきたものを、私も守る。軋んでも、折れない。


風車のように。



       *



その夜、嵐がやってきた。


天気予報では「数十年に一度の暴風雨」と報じていた。村中が戸締まりを厳重にして、家に籠もっている。


私は風車小屋にいた。嵐の時ほど、この場所を離れるわけにはいかないから。


ゴオオオ……と風が唸り、窓ガラスが震える。風車の羽根が、激しく軋んでいた。


ギイイイ……ギイイイイ……


いつもより高い音。悲鳴のような、訴えかけるような。


「大丈夫、大丈夫だから……」


風車に語りかけながら、懐中電灯を手に点検を続ける。雨漏りはないか、歯車に異常はないか、壁に亀裂は——


ドンドンドン。


玄関の扉が叩かれた。


「柊さん! 柊さん、いますか!?」


この声——椎名さん?


慌てて扉を開けると、ずぶ濡れの椎名さんが立っていた。


「椎名さん、なんでここに!?」


「電話が繋がらなくて……嵐の中、心配で」


「えっ……東京から来たんですか?」


「新幹線とタクシーで」


信じられなかった。こんな嵐の中、わざわざ——


「とにかく中に! 風邪ひきますよ!」


椎名さんを中に引き入れて、タオルを渡す。


「すみません、突然……」


「いえ、でも、どうして——」


「昨夜のメッセージが気になって」


椎名さんが、濡れた髪を拭きながら言った。


「『困っていることがある』って。電話しようと思ったら、ちょうど嵐の警報が出て、圏外になって……」


「それで、来てくれたんですか?」


「……すみません、おせっかいでしたね」


「いえ……」


言葉に詰まった。嬉しいのか、驚いているのか、自分でもわからなかった。


ゴオオオ……と、また風が唸った。停電した。


「わっ」


暗闇の中、懐中電灯の明かりだけが頼りになる。


「大丈夫ですか」


「はい……慣れてます、こういうの」


ランタンに火を灯して、部屋の中央に置く。オレンジ色の光が、二人の影を壁に映した。


「座ってください。温かいもの、入れますね」


ガスコンロでお湯を沸かし、紅茶を淹れる。椎名さんは、窓の外の風車を見つめていた。


「すごい音ですね」


ギイイイ……ギイイイイ……


風車が、嵐の中で懸命に廻っている。


「怖くないんですか?」


「……怖いですよ。でも、ここにいないと」


「どうして?」


「風車が、一人で嵐に耐えてるのは、可哀想だから」


言ってから、恥ずかしくなった。子供みたいなことを言っている。


でも、椎名さんは笑わなかった。


「わかる気がします」


紅茶を両手で包みながら、椎名さんが言った。


「建物には魂がある、って。僕も、そう思います」


ランタンの明かりの中、二人でカップを傾けた。嵐の轟音と、風車の軋みが、不思議なBGMになっていた。


「昨日のメッセージ、何があったんですか?」


「……実は」


玲奈のこと、颯太のこと、借金のこと。話し始めたら、止まらなくなった。


椎名さんは、黙って聞いていた。時々頷きながら、一言も口を挟まずに。


「……だから、私、どうしていいかわからなくて」


話し終わると、涙が溢れていた。


「颯太が、最初から土地目当てだったかもしれないって思うと……十年間、何だったんだろうって」


「……」


「私、本当に馬鹿だったんですね。信じてた人に利用されてたなんて」


「違います」


椎名さんの声が、静かに響いた。


「柊さんが馬鹿だったんじゃない。信じることは、間違いじゃない」


「でも——」


「騙す方が悪いんです。人の信頼を裏切る方が、ずっとたちが悪い」


椎名さんが、私を真っ直ぐ見た。


「それに、神崎さんが本当に土地目当てだったかどうか……僕には、わかりません」


「え……?」


「確かに、白鳥さんはそう言ったかもしれない。でも、それが全て真実とは限らない。彼女には彼女の目的があって、あなたを動揺させようとした可能性もある」


考えたこともなかった。玲奈の言葉を、そのまま鵜呑みにしていた。


「神崎さんの本心がどうだったか、それは本人にしかわからない。でも——」


椎名さんが、窓の外の風車を見た。


「確実に言えることが一つあります」


「……何ですか」


「この風車小屋を十年間守り続けたのは、柊さんです。その事実は、誰にも奪えない」


ギイイ……と、風車が鳴いた。嵐が少し弱まったのか、音が穏やかになっていた。


「僕も、逃げてきた人間です」


椎名さんが、ゆっくりと話し始めた。


「都会で働いていた頃、成功ばかり追いかけていました。効率、利益、出世。それが全てだと思っていた」


「……」


「でも、壊れたんです。心も体も。休職して、実家に帰って、何ヶ月も何もできなかった」


ランタンの光が、椎名さんの横顔を照らしていた。


「その時、気づいたんです。僕が追いかけていたものは、全部偽物だったって。本物の価値って、もっと静かで、もっと地道で、もっと……軋んでいるものなんだって」


「軋んでいる……」


「完璧なものは、もろい。軋みながら廻り続けるものの方が、ずっと強い」


その言葉が、胸に染み込んでいった。


——おばあちゃんと、同じことを言ってる。


「だから僕は、この風車小屋に惹かれたんだと思います。そして——」


椎名さんが、私を見た。


「それを守り続けている、あなたにも」


時間が、止まった気がした。


嵐の音も、風車の軋みも、遠くなって。ただ、椎名さんの瞳だけが、近くに感じられた。


「……」


「すみません、変なこと言いましたね」


椎名さんが、慌てて目を逸らした。


「嵐で、テンションおかしくなってるのかも——」


「違います」


私の口が、勝手に動いた。


「嬉しいです。……本当に」


椎名さんが、驚いたように私を見た。


「颯太には、こんなこと、言われたことなかったから。私の仕事を認めてくれる人なんて、いないと思ってたから」


涙が、また溢れてきた。でも今度は、悲しい涙じゃなかった。


「ありがとうございます。わざわざ来てくれて。話を聞いてくれて」


「……いえ」


椎名さんが、小さく微笑んだ。


「こちらこそ。僕も、久しぶりに……本物に出会えた気がします」


窓の外で、嵐が収まり始めていた。雲の切れ間から、星が見える。


風車が、ゆっくりと廻っていた。軋みながら、でも力強く。


ギイ……ギイイ……


その音が、今夜は歌のように聞こえた。祝福の、歌のように。



       *



嵐が過ぎた翌朝、私のスマホが鳴った。


「咲良か? 俺だ」


颯太の声だった。


「……何の用?」


「話がある。今から行ってもいいか?」


断ろうとした。でも、その声がいつもと違うことに気づいた。震えている。追い詰められたような、切羽詰まった声。


「……わかった」


電話を切って、椎名さんを見た。


「神崎さん?」


「はい。……来るみたいです」


「僕は席を外しましょうか」


「いえ……いてください」


自分でも意外だった。でも、一人で颯太に会うのが怖かった。また、流されてしまいそうで。


三十分後、颯太がやってきた。いつもの自信に満ちた表情はなく、目の下に隈ができていた。


「……誰だ、その人」


椎名さんを見て、颯太の眉が寄った。


「文化庁の調査官、椎名さん」


「文化庁……」


颯太の顔色が、さらに悪くなった。


「話って何?」


「……外の人間の前で話すことじゃない」


「椎名さんは関係者だから。何か言いたいことがあるなら、ここで言って」


颯太が、唇を噛んだ。しばらく黙っていたが、やがて観念したように口を開いた。


「玲奈に、騙されてた」


「……え?」


「あいつ、最初から俺を利用してたんだ。この土地を買わせて、転売する気だった。俺の親父の借金を調べ上げて、それをネタに俺を脅して——」


「知ってる」


「え……?」


「玲奈本人から聞いた。あなたを使ってこの土地を安く買い叩いて、リゾート開発業者に転売するって」


颯太の顔が、蒼白になった。


「お前……知ってたのか」


「昨日、玲奈がここに来て、全部話してくれたの。『颯太って馬鹿だから、自分が利用されてることも気づいてない』って」


「——っ」


颯太が、膝から崩れ落ちた。床に手をついて、肩を震わせている。


「俺は……俺は……」


「颯太」


私は、静かに問いかけた。


「一つだけ聞かせて。あなたは、最初から土地目当てで私と一緒にいたの?」


「……」


長い沈黙が落ちた。


「違う……と言いたい」


颯太が、顔を上げた。涙が溢れていた。


「最初は本当に、お前のことが好きだった。風車小屋で一緒に過ごした時間は、本物だった」


「……」


「でも、いつからか……わからなくなったんだ。親父の借金が膨らんで、村を出たくて、金が欲しくて。そしたら、お前のことも、風車小屋のことも、金に見えるようになって」


「そう……」


「玲奈が現れた時、救世主だと思った。華やかで、金持ちで、俺を村から連れ出してくれる人だと思った。お前を捨ててでも、この状況から逃げたかったんだ」


惨めな告白だった。でも、嘘じゃないことはわかった。


「俺、最低だよな。わかってる。でも、もうどうしようもなかったんだ。親父が首括りそうで、毎日が地獄で——」


「神崎さん」


椎名さんが、静かに口を開いた。


「お父様の借金、どこからですか?」


「え……複数だ。消費者金融とか、闇金とか……」


「白鳥さんとの関係は、いつからですか?」


「三ヶ月前……村の祭りの準備で、取材に来た時に知り合って」


椎名さんが、スマホを取り出した。何かを検索している。


「……やはり」


「何かわかったんですか?」


「白鳥玲奈。過去に詐欺まがいの不動産取引に関わった疑いで、複数の訴訟を抱えています。SNSでは削除されていますが、アーカイブには残っている」


画面を見せてくれた。玲奈の過去の投稿、トラブルを報告する被害者の声、法律相談サイトへのリンク——


「彼女の手口は一貫しています。ターゲットの弱みを調べ上げ、接触し、信頼を得て、不動産を安く買い叩く。そして転売で利益を得る」


「……」


「神崎さん、あなたは彼女の『獲物』だったんです。婚約破棄のSNS配信も、全て計算されていた可能性が高い」


颯太が、呆然と椎名さんを見つめた。


「俺は……利用されてただけ……?」


「証拠を集めれば、法的措置も可能かもしれません。弁護士に相談することをお勧めします」


颯太は、何も言えないようだった。ただ、震えながら床を見つめていた。


「……咲良」


やがて、颯太が私の名前を呼んだ。


「俺、お前に謝らなきゃいけない。ごめん。本当に、ごめん」


土下座だった。額を床につけて、颯太が謝っていた。


「お前を傷つけた。大事にしなかった。全部、俺が悪い」


「……」


「やり直させてくれ。もう一度、お前と——」


「それは無理」


私は、静かに言った。


「え……」


「謝罪は受け入れる。あなたも玲奈に利用されていたこと、わかったから。でも、やり直しは無理」


颯太が、顔を上げた。信じられない、という表情だった。


「どうして……俺、お前のこと、まだ——」


「颯太」


私は、窓の外の風車を見た。嵐を耐え抜いた風車が、穏やかに廻っている。


「風車は軋んでも折れない。でも、一度止まった風は、同じようには吹かないの」


「……」


「私たちの間に吹いていた風は、もう止まったの。それを無理やり廻そうとしても、壊れるだけ」


颯太の目から、涙がこぼれ落ちた。


「あなたには、あなたの人生がある。お父さんの借金のこと、ちゃんと向き合って。玲奈に騙されたことを公にする勇気があるなら、私も協力する。でも、私たちの関係は、もう戻らない」


長い沈黙が落ちた。


やがて、颯太が立ち上がった。


「……わかった」


声は掠れていたけれど、どこか吹っ切れたような響きがあった。


「お前の言う通りだ。俺、自分の問題から逃げてた。お前に甘えてた」


「……」


「借金のこと、ちゃんと調べる。玲奈のことも、警察に相談する。迷惑かけた分、償う」


「そうして」


「ありがとな、咲良。目を覚まさせてくれて」


颯太は、もう一度深く頭を下げて、風車小屋を出ていった。


残された私と椎名さんは、しばらく黙っていた。


「……大丈夫ですか」


「はい」


意外と、心は穏やかだった。


「十年間の区切りが、やっとついた気がします」


「……」


「おばあちゃんが言ってたんです。『終わりは、始まり』だって」


窓の外で、風車がゆっくりと廻っていた。新しい風を受けて、力強く。


終わりが来た。でも、それは始まりでもあった。


私の、新しい物語の。



       *



一ヶ月後。


『号外! 柊風車小屋、国の重要文化財に正式指定!』


村の掲示板に、大きな見出しが躍っていた。


「咲良ちゃん、見たよ! テレビ!」


幸子さんが、食堂から飛び出してきた。


「うちの村から重要文化財が出るなんて、すごいねえ! ハナばあちゃんも喜んでるよ!」


「幸子さん……」


「それに、あんたが修復計画の責任者だって? 建築修復士の国家資格持ってたなんて、なんで黙ってたのさ!」


「……誰も聞かなかったから」


「あはは、そりゃそうだ! でも、もう黙ってなんていられないよ!」


幸子さんの言う通りだった。


重要文化財指定の発表以来、風車小屋には取材陣が押し寄せていた。テレビ、新聞、雑誌、ネットメディア——


『江戸時代の和洋折衷建築、二百年の時を超えて国の宝に』

『若き建築修復士、祖母から受け継いだ風車小屋を守り抜く』

『田舎の地味女? いいえ、彼女は文化財の守護者でした』


見出しが、次々と躍っていた。


一ヶ月前、『田舎女の哀れな失恋』と嘲笑われていた私が、今は『若き文化財守護者』として脚光を浴びている。


皮肉なものだ、と思う。でも、嬉しくないわけじゃない。


「柊さん、こちらへ」


椎名さんが、記者会見の壇上へ案内してくれた。


文化庁の正式発表。私は修復計画の責任者として、カメラの前に立っている。


「柊咲良さん、建築修復士として今のお気持ちを聞かせてください」


マイクを向けられて、一瞬言葉に詰まった。


でも、椎名さんが傍で頷いてくれている。幸子さんが、客席で親指を立てている。


——大丈夫。私は、一人じゃない。


「祖母が命懸けで守ってきた風車小屋を、国が認めてくださったこと、心から嬉しく思います」


声は、思ったより落ち着いていた。


「風車は、軋むから廻れるんです。軋まない風車は、もう死んでいるのと同じ——祖母がいつも言っていた言葉です」


記者たちがペンを走らせている。


「私もこの風車のように、軋みながらでも廻り続けたいと思います。この文化財を、次の世代に繋いでいくために」


拍手が起こった。


会見が終わると、椎名さんが近づいてきた。


「素晴らしいスピーチでした」


「緊張しました……」


「見えませんでしたよ」


「嘘ばっかり」


笑い合っていると、スマホが震えた。


見ると、SNSの通知だった。玲奈のアカウントが、炎上している。


『【炎上】インフルエンサー白鳥玲奈、過去の詐欺疑惑が次々発覚』

『被害者が続々証言「私も同じ手口で騙された」』

『重要文化財を安く買い叩こうとしていた? 悪質な不動産ビジネスの実態』


玲奈が過去に投稿した動画、配信のアーカイブ、SNSの書き込み——全てが証拠として掘り起こされていた。


皮肉なことに、彼女自身のSNS配信癖が、自分の首を絞めていた。


『あの田舎女の動画、今見ると印象変わるな』

『玲奈が加害者じゃん、最悪』

『風車小屋の相続人を公開処刑とか、マジで引く』


一ヶ月前、私を嘲笑っていた匿名の群衆が、今度は玲奈を叩いている。


複雑な気持ちになった。ざまぁ、と思う自分と、これでいいのかと疑問に思う自分が、同時にいる。


「見ない方がいいですよ」


椎名さんが、スマホを優しく取り上げた。


「え……」


「白鳥さんの炎上を見ても、柊さんの心は晴れないでしょう」


「……」


「それよりも」


椎名さんが、窓の外を見た。


「風車小屋に帰りませんか。修復計画の打ち合わせ、しましょう」


その言葉に、胸が温かくなった。


「……はい」


記者会見場を出て、車に乗り込む。窓から見える景色が、少しずつ田舎に戻っていく。


村の入り口で、風車小屋が見えた。夕日を受けて、ゆっくりと廻っている。


ギイ……ギイイ……


軋む音が、ここまで聞こえてくるような気がした。


「おかえり」


椎名さんが、小さく呟いた。


「え?」


「いえ、風車がそう言ってるような気がして」


「……」


笑いが込み上げてきた。


「変な人ですね、椎名さん」


「柊さんに言われたくないです」


車が風車小屋の前に止まる。降り立つと、風が頬を撫でた。


穏やかで、優しい風。新しい季節を運んでくるような、そんな風。


「ただいま」


私は、風車小屋に向かって呟いた。


風車が、大きく廻った。軋みながら、でも力強く。


まるで、「おかえり」と答えてくれているみたいに。



       *



重要文化財指定から二週間後。


修復計画の打ち合わせを終えて、一人で風車小屋の点検をしていた時だった。


「咲良」


振り返ると、颯太が立っていた。


痩せていた。頬がこけて、目の下の隈が一層濃くなっている。身なりも、以前の颯爽としたものではなく、どこか疲れ切った印象だった。


「……久しぶり」


「ああ」


颯太は、風車小屋を見上げた。


「テレビで見た。重要文化財、おめでとう」


「ありがとう」


沈黙が落ちた。


「玲奈のこと、知ってるか?」


「炎上してるのは、見た」


「俺、警察に相談した。弁護士もつけた。あいつがやってきたこと、全部明るみに出る」


「そう……」


「親父の借金も、少しずつ整理してる。闇金の方は、法的に対処できるみたいでさ。時間はかかるけど、なんとかなりそうだ」


「よかった」


本心だった。颯太がどん底から這い上がろうとしていることは、素直に嬉しかった。


「それで……」


颯太が、私の前に立った。そして——


ゆっくりと、膝をついた。


「颯太……?」


「俺が間違ってた」


額が、地面につく。土下座だった。


「お前を傷つけた。大事にしなかった。SNSで晒されるのを黙って見てた。全部、俺の責任だ」


「……」


「やっぱり、お前しかいない」


心臓が、跳ねた。


「俺、お前のことずっと好きだったんだ。十年間、ずっと。玲奈に惑わされて、金に目が眩んで、大事なものを見失ってた」


颯太が、顔を上げた。涙が溢れていた。


「やり直そう、咲良。今度こそ、お前を幸せにする。この風車小屋も、一緒に守る。俺が——」


「颯太」


私は、静かに遮った。


「起きて」


「え……」


「立って。話を聞いて」


颯太が、ゆっくりと立ち上がった。不安そうな目で、私を見つめている。


「謝ってくれたこと、嬉しかった。あなたが変わろうとしてること、わかった」


「じゃあ——」


「でも、やり直しは、できない」


颯太の顔が、凍りついた。


「どうして……俺、反省してる。もう二度と同じ過ちは繰り返さない。お前を——」


「颯太」


私は、窓の外の風車を見た。穏やかに廻っている、祖母から受け継いだ風車。


「前にも言ったよね。風車は軋んでも折れない。でも、一度止まった風は、同じようには吹かないって」


「……」


「私たちの間に吹いていた風は、もう止まったの。あなたが婚約破棄した瞬間に」


「俺は——」


「あなたのことは許す。でも、許すことと、やり直すことは違う」


言葉が、自然と溢れてきた。一ヶ月前の私だったら、言えなかった言葉。


「私はもう、あなたの隣にいる自分を想像できないの。あの頃の私は、あなたに依存していた。自分に自信がなくて、あなたがいないと生きていけないと思ってた」


「……」


「でも今は違う。私には、やるべきことがある。守るべきものがある。それを一緒に歩いてくれる人も、見つかった」


颯太の目が、見開かれた。


「誰だ……? あの文化庁の男か?」


「……」


「あいつと、付き合ってるのか?」


「まだ、何も始まってない。でも——」


私は、真っ直ぐ颯太を見た。


「椎名さんは、私の仕事を認めてくれた。風車小屋を守ることの価値を、わかってくれた。私が私でいることを、肯定してくれた」


「……」


「あなたには、それができなかった。十年間、私の仕事を『趣味』だと思ってたでしょ? 風車小屋を『ボロ小屋』だと思ってたでしょ?」


颯太が、目を逸らした。図星だった。


「私は、もう昔の私じゃない。軋みながらでも、自分の足で立てるようになった。だから——」


深呼吸をして、言葉を続けた。


「あなたがいなくても、大丈夫なの」


長い沈黙が落ちた。


風車が、ゆっくりと廻っている。軋む音が、二人の間に響いていた。


「……そうか」


やがて、颯太が口を開いた。声は掠れていたけれど、どこか晴れやかだった。


「俺の負けだな」


「勝ち負けじゃない」


「いや、負けだ。俺は、お前の本当の価値を見抜けなかった。十年も一緒にいて、何も見えてなかった」


颯太が、風車小屋を見上げた。


「この風車小屋と、お前は似てるな。地味で、古くて、軋んでるけど——本物だ」


「……」


「俺みたいな偽物には、もったいなかったんだよ、最初から」


自嘲的な笑みを浮かべて、颯太が背を向けた。


「借金の整理が終わったら、俺は都会に出る。この村にいても、お前に迷惑かけるだけだからな」


「颯太……」


「元気でな、咲良。お前の幸せを、祈ってる」


振り返らずに、颯太は歩いていった。


その背中を見送りながら、私は思った。


——さよなら、颯太。


十年間、ありがとう。そして、ごめんね。


私たちは、もう戻れない場所に来てしまった。でも、それでいい。


風が吹いた。風車が、大きく廻った。


ギイイ……ギイイイ……


その軋みは、もう悲しくなかった。新しい風を受けて、力強く廻る音。


私の人生も、同じだ。


軋みながら、廻り続ける。新しい風を受けて、前に進む。


それが、私の選んだ道だから。



       *



春が来た。


風車小屋の周りに、桜が咲いている。祖母が植えた桜。私が子供の頃、一緒に花見をした桜。


「柊さん、ここの継ぎ手、確認お願いします」


作業員の声に、振り返る。


修復工事が本格的に始まっていた。文化庁からの補助金、村からの支援金、そしてクラウドファンディングで集まった寄付金。多くの人の力が、風車小屋を蘇らせようとしている。


「ここは、元の工法を維持してください。オランダ式の蟻継ぎで」


「わかりました」


指示を出しながら、現場を歩く。国家資格を持つ建築修復士として、私は現場の責任者を任されていた。


「柊さん、お茶どうぞ」


幸子さんが、差し入れを持ってきてくれた。


「幸子さん、忙しいのにすみません」


「なーに言ってんの。あんたの晴れ舞台だよ、これが」


幸子さんが、目を細めて風車小屋を見上げた。


「ハナばあちゃんも喜んでるよ。『うちの咲良がこんなに立派になって』って、天国で自慢してるに違いないね」


「……おばあちゃん」


目頭が熱くなった。


「泣くんじゃないよ。まだ仕事中でしょ」


「泣いてません」


「はいはい」


笑いながら、幸子さんが去っていく。


村人たちの目も、変わっていた。


『ばあちゃんの風車小屋に住み着いてる地味な娘』——もうそんな目で見る人はいない。


『若き文化財守護者』『村の誇り』『ハナばあちゃんの後継者』——


呼び方が変わった。見る目が変わった。態度が変わった。


最初は複雑だった。肩書きが変わっただけで、手のひらを返すように態度を変える人たちに、少しだけ苛立ちを覚えた。


でも、椎名さんが言ってくれた。


『人は、わかりやすい物差しでしか他人を測れないんです。でも、柊さんの価値は、肩書きとは関係なく最初からあった。やっと周りが気づいただけですよ』


その言葉で、吹っ切れた。


認められなかった十年間も、無駄じゃなかった。その時間があったからこそ、今の私がいる。


「咲良さん」


椎名さんが、現場に来てくれた。今日は私服だ。いつもの黒縁眼鏡に、カジュアルなジャケット姿。


「椎名さん、お休みの日にすみません」


「いえ、見に来たかったので」


「進捗、順調です。予定通り、秋には完成できそう」


「素晴らしいですね」


椎名さんが、風車小屋を見上げた。


足場が組まれて、シートに覆われている部分もあるけれど、羽根は変わらず廻っている。


ギイ……ギイイ……


軋みながら、力強く。


「柊さん」


「はい?」


「修復が終わったら、お話したいことがあるんです」


「……何ですか?」


「今は言いません。仕事に集中してほしいので」


「そんな、気になるじゃないですか」


「秋まで待ってください」


「……意地悪」


「そうですか?」


椎名さんが、少し笑った。その笑顔に、胸がドキドキした。


——きっと、あれだ。


考えないようにしていたけれど、椎名さんへの気持ちは、もう誤魔化せなくなっていた。


颯太への未練は、完全に消えた。


颯太は借金の整理を終えて、予定通り都会に出ていった。村を出る前に一度だけ連絡があって、『新しい仕事が決まった、頑張る』と報告してくれた。


玲奈は、詐欺容疑で逮捕された。SNSのアカウントは削除され、インフルエンサーとしてのキャリアは完全に終わった。因果応報、というやつだろう。


全てが、動き出していた。


「あの」


私は、椎名さんの方を向いた。


「私も、話したいことがあるんです」


「……何ですか?」


「秋まで待てません」


「え——」


「椎名さん」


深呼吸をして、言葉を紡ぐ。


「私、あなたのことが——」


「柊さーん! 設計図の確認、お願いしまーす!」


作業員の声が、私の告白を遮った。


「……っ」


顔が、熱くなった。


椎名さんが、困ったように笑っていた。


「秋まで、待ちましょう」


「……はい」


「でも——」


椎名さんが、私の手を取った。


「僕も、同じ気持ちです」


心臓が、大きく跳ねた。


「修復が終わったら、ちゃんと伝えます。今は——」


「はい」


「お互い、自分の仕事を全うしましょう」


「はい……」


手を離して、椎名さんが去っていく。


振り返らずに、私は作業員のところへ歩いていった。


顔はきっと真っ赤だ。でも、心は晴れ晴れとしていた。


秋が来るのが、待ち遠しい。


ギイ……ギイイ……


風車が、祝福するように大きく廻った。


桜の花びらが、風に舞い上がる。


新しい季節が、始まっていた。



       *



秋。


風車小屋の修復が、完了した。


「完成式典を開催いたします」


村長のスピーチが終わり、拍手が響く。


風車小屋の前には、村人たちが集まっていた。テレビカメラも回っている。文化庁からの来賓、建築関係者、そして——椎名さん。


新しくなった風車は、鮮やかに廻っていた。


古い木材は丁寧に補修され、傷んでいた歯車は交換され、でも二百年の歴史は、そのまま受け継がれている。


ギイ……ギイイ……


軋む音は、変わらなかった。


「柊咲良さんに、修復完了の報告をお願いいたします」


名前を呼ばれて、壇上に立つ。


「皆様のご支援のおかげで、祖母から受け継いだこの風車小屋を、無事に修復することができました」


深く頭を下げる。


「この風車は、二百年以上も軋みながら廻り続けてきました。嵐にも、戦争にも、時代の変化にも負けずに」


顔を上げて、風車を見た。


「祖母はいつも言っていました。『風車は軋むから廻れる。軋まない風車は、もう死んでいるのと同じ』と」


言葉が、自然と溢れ出した。


「私もこの一年、たくさん軋みました。傷つき、悩み、立ち止まりそうになりました。でも——」


視線が、椎名さんに向いた。


「支えてくれる人がいました。認めてくれる人がいました。だから、廻り続けることができました」


椎名さんが、小さく微笑んだ。


「この風車小屋は、これからも軋み続けます。でも、それでいいんです。軋みながら廻ることが、生きているということだから」


拍手が、わき起こった。


式典が終わり、来賓との挨拶を済ませ、取材に応じ——ようやく一人になれた時には、夕暮れになっていた。


風車小屋の中で、私は一人佇んでいた。


新しく補修された壁、磨き上げられた歯車、でも変わらない匂い。おばあちゃんの匂いが、まだ残っている気がした。


「おばあちゃん」


誰もいない部屋で、呟いた。


「やったよ。風車小屋、守れたよ」


返事はない。でも、風車が大きく軋んだ。


ギイイ……ギイイイ……


まるで、「よくやったね」と言っているみたいに。


「柊さん」


振り返ると、椎名さんが立っていた。


「お疲れ様でした」


「椎名さんも」


二人で、窓の外の夕日を眺めた。風車の影が、長く伸びている。


「話があるって言ってましたよね」


「……覚えてたんですね」


「秋まで待てって言ったの、椎名さんでしょ」


「そうでした」


椎名さんが、私の方を向いた。


「柊さん」


「はい」


「僕は、この一年で、大切なことを学びました」


「……」


「本物の価値は、すぐには見えない。時間をかけて、軋みながら育まれるものだって」


椎名さんの目が、真っ直ぐ私を見ていた。


「あなたを見ていて、確信しました。僕が探していた『本物』は、あなただって」


心臓が、早鐘を打っている。


「だから——」


椎名さんが、私の手を取った。


「この風車のように、軋みながらも一緒に廻り続けたい」


「……」


「僕と、結婚してください」


プロポーズだった。


涙が、溢れた。


「……はい」


声が震えた。


「はい、私も……椎名さんと一緒に、廻り続けたいです」


椎名さんが、私を抱きしめた。


温かい腕の中で、涙が止まらなかった。嬉しい涙。幸せな涙。


「ありがとう」


耳元で、椎名さんの声が聞こえた。


「ありがとう、咲良」


初めて、名前で呼ばれた。


——ああ、やっと見つけた。


私の居場所。私を認めてくれる人。一緒に軋みながら廻ってくれる人。


顔を上げて、椎名さんを見た。夕日に照らされた横顔が、優しく微笑んでいた。


「蒼介さん」


名前を呼び返すと、椎名さん——蒼介さんの笑顔が、一層深くなった。


窓の外で、風車がゆっくりと廻っている。夕日を受けて、黄金色に輝きながら。


ギイ……ギイイ……


その軋みは、もう悲しい音じゃなかった。


喜びの音。祝福の音。二百年間、軋みながら廻り続けてきた風車が、新しい門出を祝ってくれている。


「風車が廻る限り、私はここにいる」


呟いた言葉は、祖母への約束であり、蒼介さんへの誓いであり、そして——私自身への決意だった。


軋みながらも、廻り続ける。嵐が来ても、折れない。


それが、私。それが、この風車小屋から学んだこと。


蒼介さんと手を繋いで、私は窓の外を見た。


風車が、大きく廻っている。新しい風を受けて、力強く。


これからも、軋み続ける。そして、廻り続ける。


二人で、一緒に。


——風が廻る。恋が軋む。


そして、物語は続いていく。


軋みの先に、幸せがあることを信じて。



(完)

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