EP 8
武道館の危機と、サバイバルアイドルの乱入
ざわ……ざわ……。
先ほどまでの鼓膜を破らんばかりの歓声が嘘のように、日本武道館は不気味なざわめきに包まれていた。
「えっ、何? 音止まった?」
「放送事故? トラブル?」
「月人くーん! 頑張ってー!」
アリーナ席からスタンド席の最上段まで、数万人の観客が困惑の表情でステージを見つめている。
ステージ上では、朝倉月人(20)が地声で「ごめんね! 少しまっててね!」と手を振って場を繋ごうとしているが、マイクを通さない声は広大な武道館の奥までは到底届かない。
PA(音響)システムが完全に落ちたのだ。
裏方ではスタッフたちが血相を変えて走り回っているが、復旧の目処が立っているようには見えなかった。このまま無音が続けば、不安が不満に変わり、最悪の場合は暴動やパニック事故に発展しかねない。
「むにゃ……月人くん……腹筋、さわらせて……へへっ……」
「起きろ限界魔王! 息をしろ! ここで魔力漏らすな!!」
最前列の柵のすぐ裏側では、顔面から甘いメロンアイスの匂いを漂わせた優太が、幸せそうな顔で気絶している魔王ラスティアに必死に関節技を決め、物理的に魔力暴走を抑え込んでいた。
そんな地獄のような有様の中。
千鳥足だった魚人族の元・親善大使、そして現・サバイバルアイドルのリーザの瞳から、アルコールの濁りがスッと消え去った。
(……見なさい。このすり鉢状の巨大な空間に、数え切れないほどの人間がひしめき合っているわ)
リーザは、暗闇の中で揺れる数万のペンライトの光を見渡した。
ルナミス帝国で炊き出しに並び、ポポロ村で鼻に5円玉を詰めてドワーフから小銭を稼いできた彼女の脳内で、とてつもない計算式が弾き出される。
(もし、この会場にいる一万人……いや、数万人が、全員私に『銀貨(100円玉)』を投げてくれたとしたら……? 私は優太様の作る『特製バターチキンカレー・お肉特盛り』を、一生遊んで食べられるのでは!?)
「……ゴクリ」
リーザは生唾を飲み込んだ。
音が消え、観客が退屈している今こそ、最大のチャンス。
これほどの「巨大な市場」を前にして、指をくわえて見ているなど、プロのサバイバー(強欲)としての名折れである。
「おい、リーザ! お前、まさか……!」
魔王をホールドしていた優太が、リーザのただならぬ気配(金への執着)に気づき、血相を変えた。
「優太様。アイドルの基本はね、『無音の空間こそ最大のチャンス』なのよ!」
「バカやめろ! お前が今ステージに出たら完全に不審者……!!」
優太の制止は遅かった。
リーザはアリーナ最前列の鉄柵にふわりと足を乗せると、魚人族特有の人間離れした脚力で、軽やかに宙を舞った。
「えっ……!?」
ステージ上で困り果てていた朝倉月人は、目の前に突然、尋常ではない跳躍力で『透き通るような肌の、エキゾチックな美少女』が舞い降りてきたことに、思わず息を呑んだ。
「キミ……関係者? いや、お客さん!? ここは危ないから……!」
月人が慌ててリーザを庇おうとする。
しかし、リーザはニヤリと不敵に笑うと、月人の手から「音の出ないマイク」をスッと奪い取った。
「ちょっとマイク借りるわね、イケメンのお兄さん。でも、こんなただの鉄の棒、私には必要ないわ」
リーザはマイクをステージの床にコロンと転がした。
そして、数万人の観客の視線が、突如乱入してきた謎の美少女に釘付けになる中――リーザは、大きく、深く、武道館の空気を肺の底まで吸い込んだ。
魚人族。
かつて深い海の中で、何キロも離れた同胞とコミュニケーションを取るために進化してきた彼女たちの声帯と肺活量は、人間のそれとは根本的に構造が違う。
それに加えて、ポポロ村の広場で「鼻に5円玉を詰めて腹太鼓を打つ」という地獄の路上ライブで鍛え上げられた、鋼のメンタルと発声法。
「さあ! トーキョーの迷える子羊(金ヅル)たち!!」
マイクを通していない。
それなのに、リーザの透き通るような、それでいて圧倒的な声圧を持ったソプラノボイスが、武道館の最上階の最後列まで、ビリビリと空気を震わせて響き渡ったのだ。
「「「……ッ!?」」」
数万人の観客が、そしてすぐ隣にいた朝倉月人が、あまりの声量と美声に硬直する。
「音楽が止まったくらいで下を向いてちゃダメ! 私が今夜、アンタたちの魂とお財布を揺さぶる『本当の歌』を聴かせてあげるわ!! 一緒に歌って、踊って! そして……私に惜しみない愛(投げ銭)を頂戴!!」
静まり返っていた武道館の空気が、一瞬にしてリーザという『異世界のサバイバルアイドル』の支配下に落ちた。
「あーあ。やっちまったよ、あいつ……」
最前列で魔王を押さえ込みながら、優太はメロンの匂いを漂わせて天を仰ぐしかなかった。
かくして。
伝説となる武道館ジャック――『LOVE&Money』のゲリラライブが、今、圧倒的な熱狂と共に幕を開けようとしていたのである。




