EP 6
恋する武闘派ウサギの暴走と、医学生の顎クイ
翌朝。
ポポロ村の村長宅の廊下を、ウサギ耳を限界までピンッと立てたキャルルが、フラフラと覚束ない足取りで歩いていた。
目は完全に充血し、目の下にはうっすらとクマができている。しかし、その瞳の奥には、これまでオークの頭蓋骨を砕いてきた時には決して見せなかった、乙女特有の「キラキラした熱」が宿っていた。
(……冷徹公爵様、不器用だけど本当は令嬢のこと凄く大切に想ってて……あああっ! もう、尊いっ……!!)
両手で昨晩優太から貰った文庫本『貴婦人の恋心』を大事そうに胸に抱きしめ、キャルルは完全に脳内でロマンスの海を泳いでいた。
「おい、キャルル。ひどい顔だぞ。徹夜でもしたのか?」
「ひゃうっ!?」
リビングに入った瞬間、不意にかけられた低い声に、キャルルのウサギ耳がビクゥゥゥンッ! と跳ね上がった。
声の主は、エプロン姿で朝食のコーヒーを淹れている優太だった。
普段なら「書類仕事が終わらなくてね」と笑って返すところだ。
しかし、今のキャルルの脳内には、極厚の【少女漫画フィルター】がかかっている。
エプロン姿でこちらを振り向く優太の無精髭すら、なぜか『冷徹公爵様の気怠げなモーニングルーティン』のようにキラキラと輝いて見えた。
「ゆ、優太……っ! お、おはよう……ございますっ」
キャルルは本を背中に隠し、モジモジと内股になりながら顔を赤らめた。
「ん? なんだその変な敬語。……やっぱり顔色がおかしいな。熱でもあるのか?」
外科志望の医学生である優太は、村長(=自分の平穏な居候ライフの要)の体調不良を見過ごすわけにはいかない。
優太はスタスタとキャルルに歩み寄ると、彼女の顔を覗き込んだ。
「ひっ……近っ……」
「じっとしてろ。目元が真っ赤だぞ」
優太はキャルルの正面に立つと、スッと右手を伸ばし、彼女の『顎』に指を添えてクイッと上を向かせた。
そして、もう片方の親指で、充血したキャルルの下まぶたをアッカンベーのように軽く押し下げたのだ。眼瞼結膜(まぶたの裏)の充血と貧血のサインを確認するための、医学生としての極めて純粋な診察行動である。
しかし、キャルルの脳内は爆発寸前だった。
(あ、あ、あ、顎クイィィィィィィィッ!?!?)
本の表紙で、冷徹公爵が令嬢にやっていた『アレ』である。
至近距離にある優太の真剣な瞳。吐息がかかるほどの距離。顎に添えられた、剣と薙刀ダコのある男らしい指の感触。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!
キャルルの心拍数が、オークの軍勢に単騎で突撃した時よりも遥かに激しく跳ね上がる。
「うむ。結膜の異常な充血と、眼精疲労だな。完全に睡眠不足だ。……お前、村長だからって無理しすぎだぞ。今日は俺が書類仕事を手伝ってやるから、休め」
優太はため息をつきながら、ポンッと優しくキャルルの頭を撫でた。
『今日は俺が手伝うから、休め』
(=「お前をこれ以上、誰にも渡したくない。俺の腕の中で休んでいろ」!?)
少女漫画フィルターを通したキャルルの脳内で、優太のセリフがとんでもない超絶甘々ボイスに自動翻訳されていく。
「ゆっ……優太のバカァァァァァァァッ!!」
「……は?」
パーーーンッ!!
キャルルは真っ赤に茹で上がった顔で優太の胸を両手で力いっぱい突き飛ばすと、そのままウサギ耳を真っ赤にして、100m5秒台の神速のダッシュで自室へと逃げ帰ってしまった。
「……なんだあいつ。眼精疲労で情緒まで不安定になってるのか?」
突き飛ばされて尻餅をついた優太は、全く身に覚えのない理不尽な暴力に首を傾げるしかなかった。
「ふふふ……優太様も罪な男ね。乙女のデリケートなハートを、あんな風に乱暴にこじ開けるなんて」
「アンタねぇ。地球の恋愛小説なんかをあの堅物ウサギに読ませるからよ。完全に毒されてるじゃないの」
リビングの隅で、昨日ドワーフからもらったシープピッグの串焼きの残りをかじりながらニヤニヤしているリーザと、二日酔いから復活しつつあるルチアナが、呆れたように優太を見下ろしていた。
「本? ああ、そういえば昨日暇つぶしに渡したな。……まさか、あれのせいか?」
現代の医療と軍事知識には長けていても、乙女心という未知の領域に関しては、優太の戦術は全く通用しない。
武闘派ウサギ村長と、鈍感医学生の奇妙なラブコメディの歯車が、ポポロ村で静かに(そして激しく)回り始めた朝であった。




