24.震える睫毛
一瞬、その手があったかと思った。
でもすぐに諦めた。
薔薇の棘で指先を傷つけ、その赤で腰を抜かした男が相手なのだ。
小さな血の粒でさえその有様になると理解した上で彼に真っ赤な髪を見せつけるのは最早暴行だろう。
もっと早く言って欲しかったという悔しさと、軽はずみに試さなくて良かったという安堵。
それが綯い交ぜになった複雑さを隠しきれないまま「そんな酷いことはできません」とだけ答えた。
しかしアンブローズ公爵が何を考えてそんなことを口に出したのか。
俺がまんまと提案に乗った場合酷い目に遭うのは自分自身だというのに。
それとも彼も理由を見つけてさっさと離婚したいのだろうか。
芝生の上で寝転がったままの美男子を隣から見下ろすと彼が視線だけこちらに向ける。
そして薄い唇を開いた。
「やはり君は善人だ」
「はあ……」
「そんな君に嫌われている私はやはり悪人ということなのだろう」
「は!?」
どうしてそうなる。
アリオスの急カーブする台詞に思考がついていけなくなる。
俺を褒めるのはまあいい、なんで自分が悪人と言う結論になるのだ。
いや確かに初夜に花嫁へ向かい愛するつもりはないと告げる男は善人では無いが。
でも別にそういう会話は今して無かっただろう。
俺の戸惑いに気づいたのかアリオスが又ゆっくりと唇を動かす。
「君は私を嫌っているのに、私が傷つくことは出来ないと断った。だから善良だと判断した」
別にそこが理解出来なかった訳ではない。
というか俺に好かれてないことは知っていたんだな。特に隠してもいなかったけれど。
こちらとしては険悪にならない程度に距離を置いて時間を稼げれば良かったんだが、公爵が色々な意味で予想外過ぎた。
子供みたいに寝っ転がってる隣の男が数年後は三十路ってどうかと思う。
「それだけで善人だと判断するのは止した方が良いですよ」
つい余計な事を言ってしまう。彼はゆっくり瞬きを一回した。睫毛が長い、目に入ったら痛そうだ。
「人間って色んな面を持っているから、公爵が私の悪い部分を知らないだけかもしれません」
知らないと言うか現在進行形で隠しているし騙しているんだけどな。
「それに私が嫌っているという理由だけで公爵が悪人になるということも当然有り得ないです」
「やはり嫌っているのか……」
「たとえ!たとえですよ!」
アリオスが無表情の癖に落ち込んだ雰囲気を出して来たからつい否定してしまった。
多分セシリアだったらにっこりと笑いながら嫌いですよとか言うんだろうな。
「私はただ、自分の価値を他人の言動や行動に委ねない方が良いと言いたかっただけで……」
何で十歳近く年上の同性に説教みたいなことしたり、乳母みたいにあやしたりしなきゃいけないんだろうか。
というか公爵が腰抜かして立ち上がれないなら、あの金髪の従者とかを呼びに行けば良いんだよな。
俺じゃ頭一つ分以上身長の高い彼を抱えて歩けないだろうし。今更気づく。
よし、公爵邸の使用人に助けを求めてそれでこちらの役目は終わりだ。
俺はゆっくりと立ち上がった。公爵が寝転がったまま視線だけで動きを追っているのがわかる。
整っているけれど能面みたいなその顔に、何故か俺は婚約していた気弱な少女を思い浮かべた。全然似ていないのに。
もしかしてアリオスは今、不安なのだろうか。俺に置いて行かれるのが怖くて?
そこまで彼と何かを育んだ記憶は皆無だが、確かに身動きできない状態で一人でいるのは辛いだろう。
飢えた野犬や野良猫とかに襲い掛かられるかもしれないし。いや手入れされた庭にそれらが出没するかしわからないけど。
腹を減らした小鳥とかなら出てくるかもしれない。というか朝見たな。
まあ呼びに行かなくてもエストが来てくれるか。彼なら公爵ぐらい持ち運べるだろう。
俺は芝生へ座り直した。
「行かないのか」
「人を呼びに行かなくても私の侍女が迎えに来ることを思い出しただけです」
「私はやはり君は善人だと思う」
君なら憎い相手にも毒を盛ったりしないのかもしれない。
何でもない事のように公爵が呟く。
ぎょっとする俺の耳に妹の名を呼ぶ声が遠くから聞こえた。




