第8話 動かない男を警戒せよ
敵国軍・前線司令部。
地図の上に並べられた駒を前に、ヴェルナー・シュトラウスは腕を組んでいた。
年齢不詳。
表情は常に冷静で、感情の起伏を表に出さない男だ。
「……妙だな」
彼は、低く呟いた。
「何がですか、軍師」
「敵が、動かない」
副官が地図を覗き込む。
「前回、こちらの奇襲が成功したにもかかわらず」
「再編後の動きが、鈍すぎる」
ヴェルナーは、駒を一つ指で弾いた。
「恐怖から来る停滞……ではない」
「恐怖なら、無理にでも動く」
沈黙。
彼は、少しだけ目を細めた。
「これは……“待っている”動きだ」
副官が、眉をひそめる。
「敵は、こちらの出方を?」
「いや」
ヴェルナーは、首を振った。
「こちらが“どう出るか”を、見極めようとしている」
彼は、報告書を一枚手に取った。
そこには、前回の戦闘における敵軍の動きが簡潔にまとめられている。
「後方支援が異様に整っている」
「撤退路が事前に確保されていた」
「被害が、想定よりも少ない」
副官が、ゆっくりと息を吐いた。
「……偶然では?」
「偶然で済ませるほど、こちらは余裕がない」
ヴェルナーは、静かに言った。
「この戦場には、“考える人間”がいる」
「しかも、前に出ない」
それは、彼にとって最も厄介なタイプだった。
前線で吠える英雄は、分かりやすい。
勇敢な将軍も、対処できる。
だが。
「動かない者は、判断材料を与えない」
「判断材料を与えない者は、読めない」
ヴェルナーは、駒を一つ後退させた。
「敵は、こちらの攻勢を見てから、最適解を選ぶつもりだ」
「だから、今は沈黙している」
副官は、喉を鳴らした。
「……脅威、ということですか」
「そうだ」
即答だった。
「名は分かっているのですか」
「断片的にだが」
ヴェルナーは、別の紙を取り出す。
「後方支援担当」
「名は……アレン・フォルツ」
その名を口にした瞬間、場の空気がわずかに変わった。
「後方、ですか」
「だからこそだ」
ヴェルナーは、淡々と続ける。
「前に出ない人間は、失敗しにくい」
「失敗しにくい人間は、戦場では危険だ」
彼は、命令書にペンを走らせた。
「次の作戦では、敵の前線ではなく」
「後方の動きを注視しろ」
「……後方を?」
「そうだ」
ヴェルナーは、静かに笑った。
「補給が乱れなければ、敵は退かない」
「退かないということは、退路がある」
副官は、無言で頷いた。
一方、その頃。
王国軍後方拠点。
倉庫の隅で、アレンは帳簿とにらめっこしていた。
「……多すぎるな」
物資の数。
配置。
消費速度。
彼は、ただそれを見ているだけだ。
「次は、どうなりますかね」
補給兵が、雑談のつもりで話しかける。
「さあ」
「でも、なんか……」
兵士は、声を落とした。
「敵が、様子見してるって噂ですよ」
「そうなんだ」
アレンは、特に興味なさそうに返す。
「フォルツさんが動かないから、だとか」
「……え?」
一瞬、ペンが止まった。
「いや、冗談ですよ」
「……」
アレンは、何も言わなかった。
(……変な噂が広がってるな)
彼は、そう思っただけだった。
だが、その沈黙は。
敵にも、味方にも。
**「次の一手を待つ、危険な間」**として、
確実に認識され始めていた。




