第17話 判断が遅れた夜
それは、夜半過ぎのことだった。
倉庫で帳簿を整理していたアレンは、外の騒がしさに気づいて顔を上げた。
足音が多い。しかも、急いでいる。
(……嫌な予感がする)
その直感は、外れなかった。
「フォルツさん!」
息を切らした伝令兵が、倉庫に飛び込んでくる。
「前線、第三警戒線より緊急連絡です!」
「敵影を確認、夜襲の可能性ありと――!」
アレンは、すぐに立ち上がった。
「規模は?」
「不明です」
「接触は?」
「まだ。ただし、動きが速いと」
情報が足りない。
決定的に、足りない。
(……今、判断する材料じゃない)
アレンは、一瞬だけ目を閉じた。
「現場指揮官は?」
「迎撃か、後退かで迷っています」
「……フォルツさんの判断を仰ぎたいと」
胸の奥が、冷たくなる。
(……来た)
いつか来ると思っていた瞬間が、今だった。
「敵の位置は正確に分かっていません」
「斥候の数も?」
「不足しています」
アレンは、即答しなかった。
迎撃すれば、罠の可能性がある。
後退すれば、夜間の混乱で被害が出るかもしれない。
どちらも、最悪だ。
(……選べない)
沈黙が、数秒続く。
その沈黙が、現場にどう伝わっているかを、アレンは想像してしまう。
「……フォルツさん?」
伝令兵の声が、かすかに震えている。
「今は、判断できません」
絞り出すように言った。
「情報が足りない」
「無理に決めれば、誰かが死にます」
伝令兵は、一瞬言葉を失ったが、すぐに頷いた。
「……分かりました」
「現場には、そう伝えます」
彼が走り去った後、アレンはその場に立ち尽くしていた。
(……遅れた)
自分の沈黙が、どう作用するか。
考えないわけにはいかなかった。
夜は、長かった。
遠くで、かすかな金属音がした気がする。
風の音か、武器の擦れる音か、判別できない。
やがて、再び足音。
「フォルツさん!」
同じ伝令兵が、今度は泥と汗にまみれて戻ってきた。
「敵が接触!」
「第三警戒線、後退中です!」
アレンは、歯を食いしばった。
「被害は?」
「負傷者が数名! ただ――」
伝令兵は、言葉を続ける。
「事前に確保されていた退路が」
「……役に立っています」
アレンは、はっと顔を上げた。
「退路?」
「はい! 夜間用の簡易灯が設置されていて」
「混乱は最小限です!」
胸の奥に、重たい安堵が広がる。
(……間に合った)
それは、彼がずっと前に整えていたものだ。
使われない方がいいと願っていた準備。
だが、今夜は。
「部隊は?」
「撤退に成功」
「孤立は回避できました」
その報告に、アレンは深く息を吐いた。
「……よかった」
夜明け前。
緊急報告がまとめられ、簡易会議が開かれた。
「判断が遅れた」
前線指揮官の声は、正直だった。
「即時命令があれば、被害はもっと少なかったかもしれない」
「だが」
彼は、続ける。
「退路があった」
「それがなければ、もっと悪い結果になっていた」
室内に、微妙な沈黙が落ちる。
責める声は、ない。
だが、称賛もない。
アレンは、静かに頭を下げた。
「……申し訳ありません」
「いや」
指揮官は、首を振る。
「君が即断しなかった理由も、理解できる」
「それでも、判断を仰いだのは事実だ」
その言葉が、重い。
リーシャは、黙ってその様子を見ていた。
会議が終わった後、彼女はアレンに声をかけた。
「……怖かったですか」
「はい」
即答だった。
「判断を、求められるのが」
「……そうですか」
リーシャは、それ以上何も言わなかった。
その夜。
アレンは一人、倉庫の外で空を見上げていた。
星は、変わらず瞬いている。
(……選ばなかった)
それが、今夜の事実だ。
だが同時に。
(……備えていた)
その事実も、否定できない。
判断が遅れた夜。
それでも、誰かが生きている。
その重さを、アレンは静かに噛みしめていた。




