第16話 彼を前提にした作戦
その作戦書を見たとき、アレン・フォルツはしばらく言葉を失った。
紙面に並ぶのは、いつも通りの項目。
目的、配置、補給、撤退条件。
どれも見慣れた形式だ。
ただ、一行だけ。
どうしても、目が離れない部分があった。
――最悪の場合、後方判断を優先し、フォルツ案に準拠。
(……フォルツ案?)
アレンは、思わず書類をめくり直した。
別紙があるわけでもない。
注釈があるわけでもない。
“フォルツ案”という言葉だけが、当然のように書かれている。
「……そんなもの、作った覚えはないんだけどな」
小さく呟く。
だが、書類は何も答えない。
彼はそのまま、作戦書を抱えて補給部門責任者のもとへ向かった。
「マルティナさん」
「どうしたい、そんな顔して」
マルティナは、一目で察したように言った。
「これなんですけど」
アレンは、問題の箇所を指で示す。
マルティナは一瞥し、すぐに理解した。
「ああ」
「それか」
驚きも、戸惑いもない。
「……いつから、ですか」
「少し前からだよ」
あっさりした答えだった。
「作戦を立てる連中がね」
「“もしもの時は、フォルツが止めるだろう”って」
「勝手に思ってる」
アレンは、思わず頭を抱えた。
「止めませんよ」
「止められませんし」
「そんな権限もありません」
「分かってる」
マルティナは、穏やかに言った。
「でもね」
「彼らにとっては、それで十分なんだ」
意味が分からず、アレンは顔を上げる。
「十分……?」
「そう」
マルティナは、少し言葉を選んで続けた。
「“誰かが最後にブレーキを踏む”と」
「皆が思っていることが、大事なんだ」
アレンは、息を呑んだ。
(……ブレーキ)
それは、自分がずっと避けてきた役割だ。
「僕は、判断しません」
「選びません」
はっきりと言った。
「分からないことは、分からないと言います」
「それだけです」
「うん」
「知ってる」
マルティナは、苦笑した。
「でも、それが」
「一番怖い判断だと、思われてる」
アレンは、返す言葉を失った。
その日の午後。
前線指揮官たちが、作戦の最終確認を行っていた。
「今回は、無理をしない」
「退路を常に確保する」
「最悪の場合は?」
「……フォルツ案に従う」
そのやり取りを、アレンは少し離れた場所で聞いていた。
(……聞いてない)
誰も、彼に意見を求めていない。
作戦会議にも、呼ばれていない。
それなのに。
自分の名前だけが、勝手に使われている。
リーシャが、アレンの元へ来た。
「聞きました」
「……何を、ですか」
「今回の作戦」
「あなたを前提にしていると」
アレンは、曖昧に笑った。
「前提にされるほどのことは」
「何も、してないんですけどね」
「それが、問題なんです」
リーシャは、静かに言った。
「あなたは、作戦を作らない」
「命令もしない」
「でも」
「皆、“あなたなら止める”と信じている」
アレンは、視線を落とす。
「……信じすぎです」
「そうかもしれません」
リーシャは否定しなかった。
「でも」
「それで救われている人がいるのも、事実です」
その言葉が、重く胸に残る。
夕方。
アレンは、倉庫の片隅で一人、作戦書を見返していた。
自分は、何も決めていない。
何も命じていない。
ただ、逃げ道を考えてきただけだ。
それなのに。
その逃げ道が。
いつの間にか、皆の“前提”になっている。
(……逃げても、逃げても)
独白が、胸の内に沈む。
(……結局、同じ場所に立たされる)
作戦開始は、翌朝。
アレンは、その場に立ち会わない。
だが、作戦書の最後には、こう書かれていた。
――判断が困難な場合、後方判断を優先。
彼の名前は、もう書かれていない。
それが。
かえって、決定的だった。
アレン・フォルツという個人は、
作戦から外されつつある。
だが、彼の“やり方”だけは。
すでに、作戦の一部になっていた。




