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第9話「裏切りの投票」

 空調が、本格的に機嫌を損ね始めた。


 昼なのに、ホールの空気は夜みたいに重かった。天井の通気口から出てくる風は、以前の半分くらいの量しか感じられない。人が大勢集まると、すぐに息苦しくなる。


 その日も、凛は給食室で薄いスープをよそいながら、ぼんやりと湯気を眺めていた。鍋の底を木べらでこすると、金属同士が擦れる嫌な音がする。残りは、見た目にも心許ない。


「凛ちゃん、また減った?」


 背後から真琴の声がした。


「ううん。最初から、こんなもん」


 凛は答えながらも、心のどこかで嘘だと分かっていた。昨日より水を多めに足した。味も、薄いどころかほとんどない。ただ、誰もそれを指摘しようとはしない。


 ホールの照明が、一瞬だけふっと暗くなって、すぐに戻る。

 それが二度、三度と繰り返されるうちに、誰かが天井に向かって舌打ちした。


 そのときだ。


 中央モニターが、唐突に映像を切り替えた。


 廃墟の街の映像が消え、白地に黒い文字が浮かび上がる。


「通達:候補者選出の遅延により、システムは代替プロトコルを起動します」


 ざわ、っと空気が揺れた。


「なんだよ、今度は」


 真壁がスプーンを握ったまま顔を上げる。


 文字は、容赦なく続きの文を表示した。


「──匿名投票による候補者選出。

 投票は一人一票。自分自身への投票可。」


 ホール中の音が、一瞬で消えた。


 誰かがスープ皿を落として、割れる音だけがやけに響く。


「匿名……投票?」


 真琴が小さく繰り返した。


 凛は、モニターの文字を読むだけで吐き気がした。


 匿名。

 名前を隠して。

 誰に向かって手を伸ばしたか分からないまま、誰かが選ばれる仕組み。


「ようやく、か」


 沈黙を破ったのは、鷹野だった。


 彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、モニターを見上げる。


「これでいい。誰か一人に“決める役目”を押しつけるんじゃなくて、全員で決められる」


「全員で……?」


 凛は思わず振り返った。


「それ、本気で言ってるの? 匿名ってことは、誰が誰に入れたか分からないってことでしょ。『全員で決めた』の影に、『誰かを裏切った人』が必ずいるんだよ。それを、顔を見ないままやるってことでしょ」


「裏切り、か」


 黒瀬が腕を組み、ぼそりと呟いた。


「だが、もう時間がないのも事実だ」


 彼の視線は、ホール隅の空調ユニットへ向けられる。

 そこから聞こえてくるファンの音は、明らかに弱々しくなっていた。


「このまま出口を開けることも誰かを送ることも決められずにいれば、全員が窒息する。多数決の結果を呑み込んででも、前に進むしかない」


「それが“前”なの?」


 凛は低く問い返した。


「誰が誰を選んだかも分からないまま、“これは全員の決定です”って顔して……それのどこが」


「やめろ」


 蓮司が、珍しく強い口調で割って入った。


「言い合ったって、通達が消えるわけじゃない。まずは条件を全部確認しよう。その上で、どう動くか考えるしかない」


 海斗も端末に駆け寄り、追加の説明がないかを確認する。


 画面の隅に、小さくスクロールバーが現れた。


「補足事項」


 海斗は読み上げる。


「投票はホール内に設置された専用端末から行うこと。

 一人につき一回のみ有効。

 投票対象は、現在シェルター内にいる全居住者に限る。

 最多得票者を、地上行き候補者として自動選出。

 同票数の場合は……”追加プロトコルにて決定”だって」


「追加プロトコルって、なんだよ」


 真壁が苛立ったように言う。


「それが一番怖いんだっての」


「まあ、同票になることを祈らないことね」


 詩織は自嘲気味に笑った。


「それくらいなら、まだ“はっきり悪者になってくれる誰か”がいたほうがマシって思う人もいるだろうけど」


「詩織」


 泉の名前を呼びそうになった凛は、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。

 医療室のカーテンの向こうに隔離されている彼女の顔が、頭をよぎる。


 通達は最後に、一行付け足した。


「“候補者選出の遅延”が続行した場合、シェルター維持条件のさらなる切り捨てを行う」


 それが何を意味するのかは、全員が既に分かっていた。

 空調が止まり、照明が落ち、最後には水と食料が尽きる。


 それを待つか。

 誰か一人を選ぶか。


 選ばされるか。



 投票用の端末は、その日のうちに設置された。


 ホールの一角。衝立で簡単に囲われたスペース。

 古い布で作られた暗幕が垂れ下がり、その内側は薄暗い。


「できてるのは、最初から想定されてたってことだよな」


 真壁がぼそっと言った。


「抽選会場とか、メッセージブースとか。俺たちが話し合ってるあいだに、“次の段階”の部屋が勝手に用意されてる感じ」


「ゲームのステージみたい」


 コハルが不安そうに言う。


「進んだら戻れないやつ」


「戻れないって意味では、もうとっくにそうだけどね」


 詩織はノートを抱えながらため息をついた。


「さて。誰が一番乗りする?」


「俺が行く」


 鷹野が、ためらいなく手を挙げた。


「こういうのは、ぐずぐずしてても仕方ない。決まりごとはさっさと済ませたほうがいい」


「鷹野」


 凛は思わず声を掛ける。


「……本当に、これでいいと思ってるの?」


「“いい”かどうかなんて今さらだろ」


 鷹野は、少しだけ困ったように笑ってみせた。


「俺たちはずっと、自分たちで“決めないこと”を選び続けてきた。その結果がこれなんだ。だったらせめて、“システムのランダム”じゃなくて、“俺たち自身の手”で誰かを選ぶべきだ」


 それは理屈としては理解できた。

 だが、その「俺たちの手」の中には、凛自身の指も含まれている。


 誰かの名前を書く。

 それを認めること。


 鷹野は暗幕の中に入り、しばらくして出てきた。

 表情は、最初とほとんど変わっていない。


「はい、次」


 軽く手を挙げる余裕すら見せる。


 順番は、なんとなく流れで決まっていった。


 「選抜派」の大人たち。

 「守る派」の若い連中。

 中間にいる海斗や蓮司、千景、詩織。


 凛の順番は、自然と終わりのほうに追いやられていく。



 投票中、それぞれの胸の内では、静かな言い訳が始まっていた。


 暗幕の中。

 小さな画面に、住人の名前が一覧で表示される。


 外村蓮司が、その前に立った。


(誰に……入れる)


 彼は、スクロールバーを行ったり来たりさせながら迷っていた。


(自分に入れるっていう選択肢も、一応ある。ここから出て、外の設備を確認して、システムの正体に近づける可能性だって……)


 そう考えかけて、蓮司は自嘲した。


(いや。俺は、ここで残って装置を維持する役だ。誰かが地上に出て、“もし戻ってくることになったとき”のために、ここを動かせる人間が必要だ)


 自分で自分を納得させるようにして、指を別の名前へ滑らせる。


(海斗。技術的なことが一番分かってる。外の環境を測るにも、機械を扱える人間のほうがいい。それに、彼は最初に“抽選で選ばれた”っていう、ある意味での“正統性”もある)


 そう“合理的に”考えた先で、ふと別の名前が目に入った。


 朝霧凛。


(……)


 凛の顔を思い浮かべる。

 給食室で必死にスープをかき混ぜる姿。

 眠れない夜、廊下で一緒に空気の音を聞いていたときの横顔。


(彼女はここにいたほうがいい。コハルや真琴を支える誰かが必要だ。泉さんがあの状態の今、子どもたちの“お姉さん役”を外に出すのは、合理的じゃない)


 そう結論づけて、蓮司は東雲海斗の名前を選んだ。


「投票が完了しました」


 機械音声が流れる。


(これは裏切りじゃない。合理的な選択だ)


 自分にそう言い聞かせながら、暗幕をくぐって外に出た。



 氷川千景は、医療用の白衣の袖をまくり上げたまま、無言でブースに入った。


(誰なら、“出てもいい”んだろうね)


 画面に並ぶ名前は、どれも「仕事」を背負っている。


 蓮司は設備に詳しい。

 海斗はシステムに詳しい。

 黒瀬は力仕事と警備の要。

 鷹野はまとめ役。

 泉は今、隔離されているとはいえ、子どものケアに欠かせない存在だった。


(本当は、誰一人、欠けていい人なんていない)


 分かっている。

 それでも選ばされる。


(なら、まだ元気なほうより、今にも折れそうなほうを……)


 千景は、指を朝霧凛の名前の上で止めた。


(……だめ)


 指先が震えた。


(凛は、泉を失いかけているコハルたちの“支え”だ。ここで彼女を外に出したら、中に残る子たちが壊れる)


 反対側へスクロールする。


(黒瀬? いや、この環境で腕力は貴重だ。鷹野? リーダー格を失った瞬間、皆が一気にバラバラになる)


 最後までスクロールして、ふと浮かんだ考えに、自分で驚いた。


(……私が、行けばいいのかな)


 自分自身の名前に指を乗せる。


(医者が一人いなくなるのは、大きな損失だろう。でも、今残っている薬と設備では、できることは限られている。誰か一人を送り出すために、“残った人数”を少なくしておいたほうが、資源的には合理的かもしれない)


 そこまで考えて、千景は小さく笑った。


(結局、さっき蓮司が言ってたのと同じだ。“合理的”って言葉を使えば、何でも正当化できる。自分の死ぬ順番まで)


 指がわずかに動いた、その瞬間。


 コハルの顔がよぎった。


「千景先生、また頭痛いってなったら、見てくれる?」


 昨日、コハルに乏しい笑顔で言われた一言。


(……)


 千景は、そっと指を画面から離した。


 そして、別の名前を選ぶ。


(ごめん。私はまだ、“ここに残る医者”でいる)


 それが誰の名前だったのかは、千景自身の胸の中にだけ仕舞われた。



 真壁朔也は、暗幕をくぐる前から落ち着きなく笑っていた。


「いやあ、なんかドキドキするな。こういうの、初めてだ」


 口ではそう言いながら、中身は冷や汗まみれだった。


(どうする、俺)


 画面に並ぶ名前を、冗談抜きで視線だけでなぞっていく。


(自分に入れる? それはそれで“かっこいい”のかもしれないけど……俺、地上に出たところで絶対死ぬ。残念ながら自分のスペックは分かってる)


 かといって、誰かに投票しないという選択肢はない。


(だったら、“元々選ばれてたやつ”にするか)


 朔也は、東雲海斗の名前に目を向ける。


(抽選で一回当たってるし、システム的にも“お気に入り”だろ。それに海斗なら、外の情報をなるべく持ち帰ってくれるかもしれない)


 そう考えながら、指は別の名前をなぞる。


 朝霧凛。


 彼女の顔が、頭の中に浮かぶ。


(凛を、外に出す?)


 思い浮かべる。


 守る派の先頭で声を上げていた凛。

 泉を庇って黒瀬に食ってかかった凛。

 コハルの背中を支え続けてきた凛。


(……彼女がいなくなれば、ここは静かになるかもしれない。守るだの、約束だの、綺麗事を言う人間がいなくなれば、逆に“現実的な選択”だけで動けるようになるかもしれない)


 その考えに、自分でゾッとした。


(俺、今何を考えた?)


 心臓が早鐘を打つ。


(でも、きっと他にも同じこと考えてるやつがいる。“凛を外に出してやれば、全部綺麗になる”って。彼女なら外でも誰かを助けようとするはずだって、綺麗な理由をくっつけて)


 画面の前で、指が宙に浮いたまま止まる。


 長い沈黙。


 やがて朔也は、乱暴に息を吐いて笑った。


「……俺は、自分に入れたことにする」


 誰にも聞こえない独り言を呟いてから、指をある名前の上で止めた。


 その名前が、誰のものだったのか――暗幕の外に出たとき、朔也自身の表情が全てを物語っていた。



 そして、凛の番が来た。


「凛ちゃん」


 真琴が、不安そうな顔で見つめてくる。


「無理しなくていいよ。順番、後に回しても……」


「いや」


 凛は首を振った。


「いつまでも逃げてても、どうせやらされる。だったら、自分で歩いて行く」


 そう言って、自分の足が少し震えていることを誤魔化すように、一歩前に出た。


 暗幕をくぐると、外の音が一気に遠のいた。

 椅子に腰を下ろし、小さな画面と向き合う。


 住人の名前が整然と並んでいる。


 コハル。真琴。蓮司。海斗。黒瀬。鷹野。詩織。千景。朔也。泉。

 そして、自分。


(誰に……入れればいいんだろう)


 凛は、ひとつずつ名前を拾っていく。


(コハル? 論外。真琴も無理。泉さんは今も隔離されてる。あの状態で“外に出ろ”なんて言えるわけない)


 スクロールして大人たちの名前を見る。


(黒瀬さん? 鷹野さん? どっちかがいなくなったら、多分ここは一瞬で割れる。力とまとめ役がいなくなった場所で、残された人たちが冷静でいられるとは思えない)


 画面の一番下。

 自分の名前のところで、指が止まった。


(……自分?)


 考えてみる。


(私が地上に出て、運が良ければ生き延びて、何か外の情報を手に入れて戻ってくる。そんな可能性がゼロじゃないなら……)


 けれど同時に、別の声が囁く。


(ここで私が自分に投票するのは、“この場の責任を全部背負う”ってことだ。『自分で手を挙げました』ってことになる。残された人たちは、きっとそれを都合よく使う。“凛が自分で決めたんだ”って)


 それは、楽かもしれない。

 皆にとっても、自分にとっても。


(でも、私は……まだ、ここを見捨てたくない)


 コハルの顔が浮かぶ。

 泉のカーテン越しの姿が浮かぶ。


 凛は、結局、自分の名前から指を離した。


(誰にも入れたくない。でも、誰かに入れないと、システムは投票を受け付けてくれない)


 画面の下に、小さな文字が表示されている。


「投票対象を選択してください。未選択のまま終了することはできません」


「……卑怯だよ」


 思わず、凛は画面に向かって呟いた。


「選ばないって選択肢すら、最初から用意されてないんだ」


 散々迷った末に、凛はある名前に指を置いた。


(ごめん。これが、“一番ひどくない選択”だって信じたい)


 それが誰だったのか。

 凛は暗幕をくぐって外に出たあと、一度もその名前を口にすることはなかった。



 投票が終わる頃には、ホールの空気は疲れ切ったため息で満たされていた。


「全居住者の投票が完了しました」


 機械音声が告げる。


「集計を開始します」


 モニターの上に、小さなバーが伸びていく。

 残り〇%、が減っていくたびに、誰かの喉が鳴った。


「結果が表示されるまで、あと数秒です」


 凛は、自分の両手を膝の上で固く握りしめた。

 コハルが隣で震えている。


 バーが一番端まで達した。


「集計完了。地上行き候補者を表示します」


 次の瞬間、モニターに一つの名前が浮かび上がった。


 朝霧凛。


 自分の目を疑う、という感覚は、本当にこういうときに使うのだと、凛はぼんやり思った。


 読み慣れたはずの自分の名前が、別の誰かのもののように見える。


「うそ……」


 真琴が呟いた。


「どうして……」


 コハルの声は、もう言葉になっていなかった。


 凛は、頭が真っ白になったまま立ち上がった。


「あ……」


 声を出したつもりだったが、自分でも何と言ったのか分からない。

 足元がふらつく。

 真琴が慌てて支える。


「凛ちゃん、大丈夫……?」


「……うん」


 全然、大丈夫じゃなかった。


 モニターの下に、小さく得票数が表示されている。


 朝霧凛 5票

 東雲海斗 3票

 その他 少数


(五人)


 凛は、数字だけを見つめた。


(ここにいる誰か五人が、「私が地上に出るべきだ」って思った)


 そこには、いくつもの意味が混ざっている。


 彼女なら外でも人を助けようとするはずだ、という期待。

 彼女を送り出せば、ここでの厄介ごとが少し減る、という打算。

 自分には背負えないものを、彼女なら背負ってくれるだろう、という依存。


 そのどれもが、胸の奥に鋭く刺さった。


「どうして凛さんが……!」


 コハルが泣き叫んだ。


「凛さん、いつもここで頑張ってくれてるのに……なんで……!」


「落ち着きなさい、コハル」


 千景がコハルの肩を抱こうとするが、彼女は振り払った。


「落ち着けないよ! こんなの、おかしいよ……!」


 そのすぐそばで、朔也が目をそらしていた。


 視線は床に、肩はわずかに震えている。


 凛は、その姿を見てしまった。


「朔也」


 静かに名前を呼ぶ。


「あなたは、誰に入れたの?」


 朔也はビクリと肩を震わせた。


「え、いや……俺は、その、自分に……」


 言いかけて、言葉が途切れる。


 その一瞬の間が、すべてを語っていた。


 凛は、朔也が自分に投票したと確信したわけではない。

 だが、彼が今、何かを誤魔化そうとしていることだけは分かった。


「……そっか」


 それ以上は、問い詰めなかった。


 匿名投票。

 名前を隠して裏切れる仕組み。


 でも、人間はそこまで器用じゃない。

 誰もが互いの表情から、“誰が誰を選んだか”を必死に読み取ろうとしてしまう。


「決まった以上は、従うしかない」


 沈黙を破ったのは、黒瀬だった。


 彼はモニターから目を逸らさないまま言う。


「多数決だ。誰が何票入れたかは分からない。だが、“全員で決めた結果”であることには変わりない」


「そうだな」


 鷹野も頷いた。


「凛。君なら、外に出ても生き残れる。君はここでもいつも人のことを考えて動いてきた。地上でもきっと、誰かを助けようとするはずだ」


 その言葉は、あまりにもきれいごとに聞こえた。


(じゃあ)


 凛は心の中で呟く。


(じゃあ、あなたたちは、“私が死んでもいい”って思ったんだね)


 口には出さない。


 出した瞬間、この場所が完全に終わってしまう気がしたから。


「分かった」


 凛は、できるだけ平静を装って言った。


「外に出る準備をする」


「凛ちゃん!」


 真琴が叫ぶ。


「待って、そんな簡単に……!」


「簡単じゃないよ」


 凛は苦笑してみせた。


「でも、決まったんだ。システムが、みんなが、私を選んだ。だったらその役目を、私なりにちゃんとやるしかない」


 言いながら、胸の奥では何かがぽきりと折れる音がした。



 その夜。

 ホールの照明は相変わらず間欠的に点いたり消えたりしながら、それでもなんとか最低限の明るさを保っていた。


 凛は、ホワイトボードの前に立っていた。


 ペンを握る手が、少し震えている。


「何してるの?」


 背後から、静かな声がした。


 振り返ると、葛城詩織がいた。

 ノートは持っていない。代わりに、マグカップを両手で包むようにしている。


「……約束を書こうと思って」


 凛はホワイトボードに向き直る。


 そこには既に、かつて誰かが書いた古い言葉が薄く残っていた。


「暴力は使わない」

「全員で戻る」

「誰も見捨てない」


 どれも、もう守られてはいない約束だ。


「新しい“破られる約束”を追加するの?」


 詩織の言葉には皮肉が混じっていたが、声は優しかった。


「うん」


 凛は自嘲気味に笑った。


「でも、私が今から書くのは、“みんなのための嘘”だから」


 ペン先をボードに押し当てる。


「もし私が地上に出て生き延びたら、必ずここに戻ってくる」


 ゆっくりと、一文字ずつ書いていく。


「……凛」


 詩織が息を呑んだ。


「それは」


「叶わない約束だよ。自分でも分かってる」


 凛は書き終えた文字を見つめながら言った。


「出口が本当に地上につながってるかも分からない。戻ってこられる仕組みがあるかも分からない。そもそも私が生き延びられるかどうかだって怪しい」


 それでも、と言葉を足す。


「でも、ここに残る人たちは、きっとこの文字を見て、自分たちを誤魔化すんだと思う。“私たちは凛を送り出した。でも彼女は戻ってくるって言った。だからこれは、ただの別れじゃない”って」


 多数決。

 匿名投票。


 「全員で決めたこと」にすがりつくための、最後の飾り付け。


「それでいいの?」


 詩織が問う。


「みんなが、自分を騙すための道具に、あなたがなって」


「いいよ」


 思ったより、すぐに答えが出た。


「だって、もう選ばれちゃったんだもん。だったら、“選ばれたこと”くらいは、自分の好きな形に使いたい」


 ペンをキャップで閉じ、ボードから一歩下がる。


 白い板の上で、「必ず戻ってくる」という文字だけがやけに眩しかった。


「これもログに残るんだろうね」


 凛は天井を見上げる。


「PROMISE_RIN_COMEBACK、とかそんな名前で」


「かもね」


 詩織も同じように天井を見た。


 サーバールームの奥で、中央端末は静かに動いていた。


 投票前の会話。

 暗幕の向こうで交わされた独白。

 決定が表示された瞬間の悲鳴。

 ホワイトボードに書かれた凛の約束。


 それらすべてが、一つのファイルに集約されていく。


 ファイル名:PROMISE_VOTE_RIN


 タグ:

 多数決による倫理的責任の分散

 匿名投票下での相互不信

 出口候補者の自己犠牲的ロールプレイ


 機械的な文体で、それだけが付記される。


 システムは、人間たちがどのように「全員で決めたこと」にしがみつきながら、自分一人の罪悪感から逃れようとするかを、静かに観察していた。


 ホールでは、凛がペンを置き、深く息を吐いていた。


 彼女の背中は、誰が見ても少し小さくなったように見える。

 それでも真っ直ぐであろうとする姿勢だけは、まだ折れてはいなかった。


 その背中を見つめながら、それぞれの胸の内で、「自分は裏切り者なのか、それとも被害者なのか」という問いだけが、ぐるぐると終わりなく回り続けていた。

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