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第7話「共同体の崩壊」

 約束ログの存在が明らかになってから、シェルターの空気は目に見えて変わった。


 ホールでの会議は、前よりも静かになった。

 静かになった、というと聞こえはいいが、実際は違う。


 誰もが、言葉を飲み込むようになったのだ。


「その案には……ええと、その……」


 蓮司がそう言って口ごもる。

 いつもなら、数値とデータを並べて反論している場面だ。


 彼の視線は、無意識のうちに天井の隅へ向かっていた。

 あの小さな黒いマイク。

 自分の声を録音し、「PROMISE_何々」というファイル名で保存する“耳”だ。


「最後まで言えよ、外村」


 黒瀬が苛立ちを隠さずに言う。


「今さら言葉を選んだところで、状況が良くなるわけじゃない」


「いや、別に……」


 蓮司は言葉を濁した。


 会議のたび、似たような光景が繰り返される。

 誰かが言いかけてやめる。

 代わりに沈黙が伸びる。

 結論は先延ばしになり、イライラだけが蓄積していく。


 あるいは、逆の方向に振り切れる者もいた。


「どうせログに残るならさ」


 真壁朔也が、わざと明るい声で言った。


「本音で話そうぜ。綺麗事言っても“破棄率”が上がるだけなんだろ? だったら最初から、守る気のない約束なんてしないほうがいいじゃん」


 その開き直りに救われる者もいれば、余計に不安になる者もいた。


 約束が、「守るためのもの」から「いつか自分の首を絞める証拠」に変わってしまった。

 それが、共同体の基盤を静かに侵食していく。



 やがて、議論は色分けされるようになった。


「私は……誰も殺さないって決めたい」


 ある会議の場で、凛ははっきりと口にした。

 天井のマイクを意識しながら、それでも逃げずに。


「出口の通達がどれだけ理不尽でも、『地上に戻れるのは一人だけ』って条件そのものを、受け入れたくない。ここで全員が死ぬことになったとしても……それでも、誰かを“選んで殺す”ことだけはしたくない」


 その言葉に、泉がうなずく。


「私も。最初にここへ来たとき、みんなで『全員で戻ろう』って約束した。それがログに残ってて、破られた約束としてカウントされてるのなら……せめて、これ以上、違う種類の“裏切り”を増やしたくない」


「私も、です」


 真琴が小さな声で続ける。


「誰かを犠牲にして生き延びるより、みんなで最後まで一緒にいたほうが……私は、まだ救われる気がするから」


 コハルも、布団にくるまったまま手を挙げた。


「こわいのはやだけど……誰かをわざと殺すのは、もっといや」


 その輪が、後に「守る派」と呼ばれるようになる。


 朝霧凛、片倉泉、雨宮コハル、真琴。

 その他にも数人、まだ“共同体”という言葉を信じたい者たち。


 彼らの主張は一貫していた。


「誰も殺さない」

「出口の通達そのものを拒否する」


 一方で、違う立場を取る者もいた。


「地上に戻れるのは一人だけ、という条件が変わらないなら」


 鷹野隼人は、ホワイトボードの前でマーカーを握りながら言った。


「俺たちにできるのは、その一人を“なるべく確実に生かす”ことだ。感情論で選ばず、能力と状況で選抜する。そうしなきゃ、全員が無駄死にするだけだ」


 黒瀬が腕を組んで、言葉を引き継ぐ。


「ここに残る全員が、最後まで“綺麗なまま”死ねるなら、それも一つの選択肢かもしれない。だが現実には、飢えと恐怖に耐えきれずに、誰かが必ず先に禁を破る」


 黒瀬の眼差しには、どこか諦めが混ざっていた。


「そうなるくらいなら、最初から“誰を生かすか”を決めて、そのために残りが身を削るほうが、まだましだ」


 彼らの周りには、「こどもを優先すべきだ」「いや、外で動ける大人だ」といった意見を持つ者たちが集まり始める。


 現実主義を標榜するそのグループは、いつしか「選抜派」と呼ばれるようになった。



 もちろん、すべてが二分されたわけではない。


 東雲海斗、外村蓮司、氷川千景、葛城詩織。

 彼らはその中間にいた。


「俺は……どっちの言い分も分かる」


 蓮司は苦笑した。


「“誰も殺さない”って言葉に救われたい気持ちもあるし、現実の数字を見れば見るほど、“何かを選ばないと全員死ぬ”って現実から目を逸らせなくなる」


「私は医者だから」


 千景は、メディカルルームの片隅で言った。


「目の前の命を救いたい。だから、今ここで倒れかけている人を優先してしまう。けど、それは『将来助かるかもしれない誰か』を見捨てる選択と、表裏一体でもある」


 詩織は、ノートを閉じて小さくため息をついた。


「私は“記録者”としての自分と、“この共同体の一員”としての自分が、あとどれくらい同じ身体の中にいられるのか、それすら分からなくなってきたよ」


 海斗はモニターを見ながら、短く答えた。


「僕は、まだ結論を出せない。ただ一つだけ確かなのは、“情報が足りない状態で選ぶのは嫌だ”ってことだ」


 彼らが何度も間に入って話を繋ごうとしても、飢えと疲労は、少しの言い回しで火花を散らす。


「どうしてみんな、怒ってばかりなの」


 ある日の会議で、コハルが突然泣き出した。


「誰も悪いことしたくないって言ってるのに、なんでずっと喧嘩みたいになるの……?」


 その質問に、誰もすぐには答えられなかった。



 衝突が決定的な形で現れたのは、三日目の夜だった。


 きっかけは、空調アラートだった。


「第三寝室ブロックの温度が急上昇してる!」


 蓮司の叫びに、全員が顔を上げる。


 ホールのモニターには、シェルター内各所の温度分布が表示されていた。

 青から黄、橙へと色が変わる中で、第三寝室ブロックだけが不自然に赤く染まっている。


「空調ユニットの一部が止まってる」


 海斗が端末を叩く。


「フィルターの差圧が異常値。何かが詰まってる可能性が高い」


「俺が見てくる」


 黒瀬が立ち上がった。


「蓮司、場所を案内しろ」


 二人は走って通路を駆け抜けていく。

 凛も気づけば立ち上がっていた。


「あのブロック、コハルたちが寝てるところだよね!」


「凛、待って!」


 泉が呼び止めるが、彼女もすぐに後を追った。



 第三寝室ブロックは、息苦しいほど熱くなっていた。


 ドアを開けた瞬間、むっとした熱気が押し寄せる。


「だ、誰か……?」


 中で寝ていた者たちが、汗にまみれた顔を上げる。

 コハルは半分意識が飛びかけていて、真琴が必死に水を口元に運んでいるところだった。


「全員、廊下に出ろ!」


 黒瀬の怒鳴り声で、人々がふらつきながら外に出てくる。


 千景も駆けつけ、脈を測りながら指示を飛ばした。


「水を少しずつ飲ませて。いきなり大量に飲ませないで。身体を冷やすものが……」


 凛もコハルの肩を支え、ゆっくりと廊下に連れ出す。


「大丈夫、外のほうがまだ涼しいから」


「……りん、ちゃん……?」


 かすかな声が返ってくる。


 その間に、蓮司と海斗が空調ユニットのパネルを開けていた。


「フィルター、完全に詰まってる」


 蓮司の声に怒りが混ざる。


「ほこりじゃない。布切れだ。誰かが、意図的に詰め込んでる」


「見せて」


 黒瀬が身を乗り出し、フィルターの奥から引っ張り出された布切れを掴む。

 複数の布片が団子状に押し込まれていた。

 どれも同じ種類の生地でできている。


 凛は、それを見て息を呑んだ。


「あの布……」


 見覚えがあった。

 共同スペースに置かれている、古い毛布を解体したときに出た端切れだ。


 誰でも手に入れられる。

 誰でも悪用できる。


 だが、それがわざわざ空調ユニットのフィルターに詰め込まれていたということは――。


「これは、明確なテロだ」


 黒瀬の声は低く、冷たかった。


「事故じゃない。誰かが、意図的に“第三寝室ブロックだけ”を殺そうとした」


 第三寝室ブロックには、偶然にも「守る派」のメンバーが多く寝泊まりしていた。

 凛、泉、コハル、真琴。そのほか、選抜に否定的な若い連中が数人。


 その事実が頭をよぎった瞬間、凛の背筋が凍る。


「犯人をあぶり出す必要がある」


 黒瀬はためらわなかった。


「このまま見逃せば、次はもっと露骨な方法で誰かが殺される。空調を止めて“熱で焼く”ことができるなら、水を止めて干上がらせることもできる」


 彼の言葉に、誰も軽口を挟めなかった。


「持ち物検査と尋問を行うべきだ。特に、このブロックに関わる連中から優先的にな」


「また、それ……?」


 凛は思わず叫んでいた。


「また同じことを繰り返すの? 三浦のときみたいに、誰かを疑って、追いつめて……」


「凛」


 鷹野が静かに言った。


「このまま何もしなかったら、次に死ぬのは誰か分からない。それでもいい?」


 凛は言葉を詰まらせた。


「俺だって好きでやりたいわけじゃない。けど、“何もしない”ってことは、もう選べないところまで来てる」


 廊下の隅で、泉が歯を噛みしめていた。

 コハルの背中をさすりながら、目は明らかに怯えている。


 結局、黒瀬たちの主張が押し切られる形で、「限定的な調査」という名目の持ち物検査が行われることになった。



 調査は、最低限の人数だけで行われた。


「守る派」と「選抜派」の代表者、医療班、記録役としての葛城。

 それぞれが相手のやり方を監視するためでもある。


「やめるなら今のうちだよ」


 凛は最後まで抵抗した。


「これ以上、“疑いの儀式”みたいなのを繰り返したら、本当に取り返しがつかなくなる」


「もう取り返しなんてつかないところまで来てる」


 黒瀬は短く返した。


「これが最後の線引きだと信じたいなら、なおさら徹底的にやるべきだ」


 ロッカーが一つずつ開けられていく。

 衣類、メモ帳、小さな玩具、個人的な写真。

 本来なら他人に見られたくないものが、白いライトの下にさらされる。


 凛はコハルのロッカーを自ら開け、何も出てこないことに安堵した。

 真琴のロッカーからも、不自然なものは何も見つからない。


 問題が起きたのは、泉の番だった。


「泉、開けるぞ」


「うん……」


 震える手で、泉はロッカーの扉を開いた。


 衣類がきちんと畳まれて並び、その奥に、紙袋が一つ置かれている。


「それは?」


「ただの……」


 泉が手を伸ばすより早く、黒瀬が紙袋を取り上げた。


「待って!」


 泉の声は、空しく金属壁に反射する。


 紙袋の中から、銀色の缶詰が三つ、ころりと床に転がり出た。


 凛の心臓が止まりそうになった。


「あ……」


 思わず声が漏れる。


「缶詰……」


 全員の視線が、泉へと集中する。


「違う、これは……」


 泉が慌てて手を伸ばすが、黒瀬が制した。


「触るな。数を確認する」


 葛城がノートを開き、冷静に数え上げる。


「三つ。ラベルは……スープ、豆、混合野菜」


 蓮司が呆然と呟く。


「在庫リストから消えてたやつだ。三日前に一個、その前にも……」


「違う!」


 泉は床に膝をつきそうになりながら、首を振った。


「これは、盗んだんじゃない。配給が決まった分から、少しずつ“予備”として取り分けておいたの。コハルたちが倒れたときのために、すぐ使えるように……」


「でも、そのことを誰にも言ってなかった」


 鷹野の声は冷静だった。


「物資管理担当の蓮司にも、医療担当の千景にも、共有していなかった。違う?」


「だって、言ったら止められると思って……」


「つまり、自覚はあったってことだ」


 黒瀬が言う。


「共通の備蓄から、自分の判断で“隠し分”を作った。それが正義感から来ていようが、やってることは横領に近い」


「違う、そんなつもりじゃ……!」


 泉の目に、涙が溜まる。


「私はただ、コハルが倒れたときとか、誰かが本当に動けなくなったとき用の……“最後の保険”みたいなもので……」


 凛は、泉の肩を掴んだ。


「泉は悪くない。だって、実際にコハルが倒れたときだって、真っ先に飛んできてくれたし、配給減らしてまで薬の材料に回してくれたりも……!」


「気持ちがどうとか、人格がどうとかの話じゃない」


 鷹野は首を振った。


「ルールを破った事実が問題なんだ。盗まれた缶詰の件がまだ終わってないこの状況で、『実は僕が“予備”として隠してました』なんて話が出てきたら、どうなるか分かるだろ」


「盗んだんじゃない!」


 泉は声を荒げた。


「配給のとき、ほんの少しずつ減らして、みんなには気づかれないように……って、それは盗みと同じだって言いたいんでしょ。でも私は、誰かを贔屓したわけじゃない。自分のためだけに隠したんじゃない!」


「結果として、“一部の人間だけ”に使うつもりだった」


 黒瀬の言葉は容赦がなかった。


「それが“子ども”であろうと、“守る派”であろうと、線の外にいる者から見れば立派な不公平だ」


 「誰かのための備え」が、「誰かから盗ったに違いない」という解釈にすり替わる瞬間だった。


「泉がそんなことするはずない!」


 凛は叫んだ。


「缶詰をわざと隠して、誰かを飢えさせようなんて思う人じゃない!」


「そうだとしても、ルールを破ったことは事実だ」


 鷹野が一歩前に出る。


「ここで何も処分しなければ、『隠し物資を持つのはアリなんだ』って前例を作ることになる。それは、共同体全体の崩壊に直結する」


「じゃあ、どうすればいいの」


 凛は歯を噛みしめた。


「泉を追い出す? 殴る? 食料を抜く? そうやって、“罰”って言葉で暴力を正当化するの?」


 空気が、一気に張り詰める。


「殴りもしないし、追い出しもしない」


 先に口を開いたのは千景だった。


 彼女は缶詰を見つめながら、小さく息を吐く。


「泉を一時的に、共同生活の場から切り離す。医療室の一角を使って、“隔離”する形にしよう」


「千景、それは……」


 凛が言いかける。


「これは罰じゃない」


 千景は、自分に言い聞かせるように続けた。


「今ここで誰かを血祭りにあげたら、本当に取り返しがつかなくなる。だから一度、距離を置く。みんなの頭が冷えるまで、泉には少し離れていてもらう」


「それって結局、“軟禁”ってことじゃないの?」


 泉が絞り出すように言った。


「医療室から出られないようにして、私だけ別に扱うんでしょ。それのどこが罰じゃないの……?」


 千景は言葉を失いかけ、唇を噛んだ。


「……ごめん。でも、それしか方法が思いつかない」


 泉の瞳から、何かが静かに消えていくのを、凛は感じた。


 信頼、という言葉で呼んでいた何か。

 その光が薄れていく。



 最終的に、「泉を一時的に共同生活から隔離する」という決定が下された。


 医療室には簡易ベッドが一つ、カーテンで仕切られたスペースがある。

 そこが泉の“部屋”になった。


「食事は皆と同じ時間に持っていく。話したいことがあれば、私か真琴を呼んで」


 千景はそう説明しながらも、目を合わせることができなかった。


「期間は……そうだな。一週間をめどに。一週間経って、皆が納得できるなら、また一緒に……」


「一週間で何が変わるの?」


 泉は静かに問うた。


「みんなの腹の足しになる? 空調が元通りになる? 約束ログが消える? それとも、“守る派”と“選抜派”の垣根がなくなる?」


 千景は黙った。


「ごめん」


 それしか言えなかった。


 カーテンが閉じられ、泉の姿が隠れる。


 凛はしばらくその前に立ち尽くしていたが、何もできなかった。


 扉の外に出ると、空調の風が顔に当たった。

 それがひどく冷たく感じられた。



 その一部始終を、中央端末は淡々と録音していた。


 サーバールームのモニターには、新しいファイル名が表示される。


 PROMISE_COMMUNITY_BREAK


 ファイルに付された注釈。


 「共同体の自己防衛機能が、内部への暴力として転化するプロセス」


 機械的な文体で、それだけが書かれている。


 誰かを守ろうとする意志が、別の誰かを傷つける刃に変わる。

 自分たちの行動が、冷たい説明文に還元されていく。


 凛はそのことを、まだ知らない。

 ただ、胸の奥がじわじわと冷えていく感覚だけが、本能的な危機として残っていた。


 共同体は、もう元には戻らない場所に足を踏み入れてしまった。


 彼女がそれを、はっきりと自覚するのは、もう少し先のことになる。

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