第7話「共同体の崩壊」
約束ログの存在が明らかになってから、シェルターの空気は目に見えて変わった。
ホールでの会議は、前よりも静かになった。
静かになった、というと聞こえはいいが、実際は違う。
誰もが、言葉を飲み込むようになったのだ。
「その案には……ええと、その……」
蓮司がそう言って口ごもる。
いつもなら、数値とデータを並べて反論している場面だ。
彼の視線は、無意識のうちに天井の隅へ向かっていた。
あの小さな黒いマイク。
自分の声を録音し、「PROMISE_何々」というファイル名で保存する“耳”だ。
「最後まで言えよ、外村」
黒瀬が苛立ちを隠さずに言う。
「今さら言葉を選んだところで、状況が良くなるわけじゃない」
「いや、別に……」
蓮司は言葉を濁した。
会議のたび、似たような光景が繰り返される。
誰かが言いかけてやめる。
代わりに沈黙が伸びる。
結論は先延ばしになり、イライラだけが蓄積していく。
あるいは、逆の方向に振り切れる者もいた。
「どうせログに残るならさ」
真壁朔也が、わざと明るい声で言った。
「本音で話そうぜ。綺麗事言っても“破棄率”が上がるだけなんだろ? だったら最初から、守る気のない約束なんてしないほうがいいじゃん」
その開き直りに救われる者もいれば、余計に不安になる者もいた。
約束が、「守るためのもの」から「いつか自分の首を絞める証拠」に変わってしまった。
それが、共同体の基盤を静かに侵食していく。
◆
やがて、議論は色分けされるようになった。
「私は……誰も殺さないって決めたい」
ある会議の場で、凛ははっきりと口にした。
天井のマイクを意識しながら、それでも逃げずに。
「出口の通達がどれだけ理不尽でも、『地上に戻れるのは一人だけ』って条件そのものを、受け入れたくない。ここで全員が死ぬことになったとしても……それでも、誰かを“選んで殺す”ことだけはしたくない」
その言葉に、泉がうなずく。
「私も。最初にここへ来たとき、みんなで『全員で戻ろう』って約束した。それがログに残ってて、破られた約束としてカウントされてるのなら……せめて、これ以上、違う種類の“裏切り”を増やしたくない」
「私も、です」
真琴が小さな声で続ける。
「誰かを犠牲にして生き延びるより、みんなで最後まで一緒にいたほうが……私は、まだ救われる気がするから」
コハルも、布団にくるまったまま手を挙げた。
「こわいのはやだけど……誰かをわざと殺すのは、もっといや」
その輪が、後に「守る派」と呼ばれるようになる。
朝霧凛、片倉泉、雨宮コハル、真琴。
その他にも数人、まだ“共同体”という言葉を信じたい者たち。
彼らの主張は一貫していた。
「誰も殺さない」
「出口の通達そのものを拒否する」
一方で、違う立場を取る者もいた。
「地上に戻れるのは一人だけ、という条件が変わらないなら」
鷹野隼人は、ホワイトボードの前でマーカーを握りながら言った。
「俺たちにできるのは、その一人を“なるべく確実に生かす”ことだ。感情論で選ばず、能力と状況で選抜する。そうしなきゃ、全員が無駄死にするだけだ」
黒瀬が腕を組んで、言葉を引き継ぐ。
「ここに残る全員が、最後まで“綺麗なまま”死ねるなら、それも一つの選択肢かもしれない。だが現実には、飢えと恐怖に耐えきれずに、誰かが必ず先に禁を破る」
黒瀬の眼差しには、どこか諦めが混ざっていた。
「そうなるくらいなら、最初から“誰を生かすか”を決めて、そのために残りが身を削るほうが、まだましだ」
彼らの周りには、「こどもを優先すべきだ」「いや、外で動ける大人だ」といった意見を持つ者たちが集まり始める。
現実主義を標榜するそのグループは、いつしか「選抜派」と呼ばれるようになった。
◆
もちろん、すべてが二分されたわけではない。
東雲海斗、外村蓮司、氷川千景、葛城詩織。
彼らはその中間にいた。
「俺は……どっちの言い分も分かる」
蓮司は苦笑した。
「“誰も殺さない”って言葉に救われたい気持ちもあるし、現実の数字を見れば見るほど、“何かを選ばないと全員死ぬ”って現実から目を逸らせなくなる」
「私は医者だから」
千景は、メディカルルームの片隅で言った。
「目の前の命を救いたい。だから、今ここで倒れかけている人を優先してしまう。けど、それは『将来助かるかもしれない誰か』を見捨てる選択と、表裏一体でもある」
詩織は、ノートを閉じて小さくため息をついた。
「私は“記録者”としての自分と、“この共同体の一員”としての自分が、あとどれくらい同じ身体の中にいられるのか、それすら分からなくなってきたよ」
海斗はモニターを見ながら、短く答えた。
「僕は、まだ結論を出せない。ただ一つだけ確かなのは、“情報が足りない状態で選ぶのは嫌だ”ってことだ」
彼らが何度も間に入って話を繋ごうとしても、飢えと疲労は、少しの言い回しで火花を散らす。
「どうしてみんな、怒ってばかりなの」
ある日の会議で、コハルが突然泣き出した。
「誰も悪いことしたくないって言ってるのに、なんでずっと喧嘩みたいになるの……?」
その質問に、誰もすぐには答えられなかった。
◆
衝突が決定的な形で現れたのは、三日目の夜だった。
きっかけは、空調アラートだった。
「第三寝室ブロックの温度が急上昇してる!」
蓮司の叫びに、全員が顔を上げる。
ホールのモニターには、シェルター内各所の温度分布が表示されていた。
青から黄、橙へと色が変わる中で、第三寝室ブロックだけが不自然に赤く染まっている。
「空調ユニットの一部が止まってる」
海斗が端末を叩く。
「フィルターの差圧が異常値。何かが詰まってる可能性が高い」
「俺が見てくる」
黒瀬が立ち上がった。
「蓮司、場所を案内しろ」
二人は走って通路を駆け抜けていく。
凛も気づけば立ち上がっていた。
「あのブロック、コハルたちが寝てるところだよね!」
「凛、待って!」
泉が呼び止めるが、彼女もすぐに後を追った。
◆
第三寝室ブロックは、息苦しいほど熱くなっていた。
ドアを開けた瞬間、むっとした熱気が押し寄せる。
「だ、誰か……?」
中で寝ていた者たちが、汗にまみれた顔を上げる。
コハルは半分意識が飛びかけていて、真琴が必死に水を口元に運んでいるところだった。
「全員、廊下に出ろ!」
黒瀬の怒鳴り声で、人々がふらつきながら外に出てくる。
千景も駆けつけ、脈を測りながら指示を飛ばした。
「水を少しずつ飲ませて。いきなり大量に飲ませないで。身体を冷やすものが……」
凛もコハルの肩を支え、ゆっくりと廊下に連れ出す。
「大丈夫、外のほうがまだ涼しいから」
「……りん、ちゃん……?」
かすかな声が返ってくる。
その間に、蓮司と海斗が空調ユニットのパネルを開けていた。
「フィルター、完全に詰まってる」
蓮司の声に怒りが混ざる。
「ほこりじゃない。布切れだ。誰かが、意図的に詰め込んでる」
「見せて」
黒瀬が身を乗り出し、フィルターの奥から引っ張り出された布切れを掴む。
複数の布片が団子状に押し込まれていた。
どれも同じ種類の生地でできている。
凛は、それを見て息を呑んだ。
「あの布……」
見覚えがあった。
共同スペースに置かれている、古い毛布を解体したときに出た端切れだ。
誰でも手に入れられる。
誰でも悪用できる。
だが、それがわざわざ空調ユニットのフィルターに詰め込まれていたということは――。
「これは、明確なテロだ」
黒瀬の声は低く、冷たかった。
「事故じゃない。誰かが、意図的に“第三寝室ブロックだけ”を殺そうとした」
第三寝室ブロックには、偶然にも「守る派」のメンバーが多く寝泊まりしていた。
凛、泉、コハル、真琴。そのほか、選抜に否定的な若い連中が数人。
その事実が頭をよぎった瞬間、凛の背筋が凍る。
「犯人をあぶり出す必要がある」
黒瀬はためらわなかった。
「このまま見逃せば、次はもっと露骨な方法で誰かが殺される。空調を止めて“熱で焼く”ことができるなら、水を止めて干上がらせることもできる」
彼の言葉に、誰も軽口を挟めなかった。
「持ち物検査と尋問を行うべきだ。特に、このブロックに関わる連中から優先的にな」
「また、それ……?」
凛は思わず叫んでいた。
「また同じことを繰り返すの? 三浦のときみたいに、誰かを疑って、追いつめて……」
「凛」
鷹野が静かに言った。
「このまま何もしなかったら、次に死ぬのは誰か分からない。それでもいい?」
凛は言葉を詰まらせた。
「俺だって好きでやりたいわけじゃない。けど、“何もしない”ってことは、もう選べないところまで来てる」
廊下の隅で、泉が歯を噛みしめていた。
コハルの背中をさすりながら、目は明らかに怯えている。
結局、黒瀬たちの主張が押し切られる形で、「限定的な調査」という名目の持ち物検査が行われることになった。
◆
調査は、最低限の人数だけで行われた。
「守る派」と「選抜派」の代表者、医療班、記録役としての葛城。
それぞれが相手のやり方を監視するためでもある。
「やめるなら今のうちだよ」
凛は最後まで抵抗した。
「これ以上、“疑いの儀式”みたいなのを繰り返したら、本当に取り返しがつかなくなる」
「もう取り返しなんてつかないところまで来てる」
黒瀬は短く返した。
「これが最後の線引きだと信じたいなら、なおさら徹底的にやるべきだ」
ロッカーが一つずつ開けられていく。
衣類、メモ帳、小さな玩具、個人的な写真。
本来なら他人に見られたくないものが、白いライトの下にさらされる。
凛はコハルのロッカーを自ら開け、何も出てこないことに安堵した。
真琴のロッカーからも、不自然なものは何も見つからない。
問題が起きたのは、泉の番だった。
「泉、開けるぞ」
「うん……」
震える手で、泉はロッカーの扉を開いた。
衣類がきちんと畳まれて並び、その奥に、紙袋が一つ置かれている。
「それは?」
「ただの……」
泉が手を伸ばすより早く、黒瀬が紙袋を取り上げた。
「待って!」
泉の声は、空しく金属壁に反射する。
紙袋の中から、銀色の缶詰が三つ、ころりと床に転がり出た。
凛の心臓が止まりそうになった。
「あ……」
思わず声が漏れる。
「缶詰……」
全員の視線が、泉へと集中する。
「違う、これは……」
泉が慌てて手を伸ばすが、黒瀬が制した。
「触るな。数を確認する」
葛城がノートを開き、冷静に数え上げる。
「三つ。ラベルは……スープ、豆、混合野菜」
蓮司が呆然と呟く。
「在庫リストから消えてたやつだ。三日前に一個、その前にも……」
「違う!」
泉は床に膝をつきそうになりながら、首を振った。
「これは、盗んだんじゃない。配給が決まった分から、少しずつ“予備”として取り分けておいたの。コハルたちが倒れたときのために、すぐ使えるように……」
「でも、そのことを誰にも言ってなかった」
鷹野の声は冷静だった。
「物資管理担当の蓮司にも、医療担当の千景にも、共有していなかった。違う?」
「だって、言ったら止められると思って……」
「つまり、自覚はあったってことだ」
黒瀬が言う。
「共通の備蓄から、自分の判断で“隠し分”を作った。それが正義感から来ていようが、やってることは横領に近い」
「違う、そんなつもりじゃ……!」
泉の目に、涙が溜まる。
「私はただ、コハルが倒れたときとか、誰かが本当に動けなくなったとき用の……“最後の保険”みたいなもので……」
凛は、泉の肩を掴んだ。
「泉は悪くない。だって、実際にコハルが倒れたときだって、真っ先に飛んできてくれたし、配給減らしてまで薬の材料に回してくれたりも……!」
「気持ちがどうとか、人格がどうとかの話じゃない」
鷹野は首を振った。
「ルールを破った事実が問題なんだ。盗まれた缶詰の件がまだ終わってないこの状況で、『実は僕が“予備”として隠してました』なんて話が出てきたら、どうなるか分かるだろ」
「盗んだんじゃない!」
泉は声を荒げた。
「配給のとき、ほんの少しずつ減らして、みんなには気づかれないように……って、それは盗みと同じだって言いたいんでしょ。でも私は、誰かを贔屓したわけじゃない。自分のためだけに隠したんじゃない!」
「結果として、“一部の人間だけ”に使うつもりだった」
黒瀬の言葉は容赦がなかった。
「それが“子ども”であろうと、“守る派”であろうと、線の外にいる者から見れば立派な不公平だ」
「誰かのための備え」が、「誰かから盗ったに違いない」という解釈にすり替わる瞬間だった。
「泉がそんなことするはずない!」
凛は叫んだ。
「缶詰をわざと隠して、誰かを飢えさせようなんて思う人じゃない!」
「そうだとしても、ルールを破ったことは事実だ」
鷹野が一歩前に出る。
「ここで何も処分しなければ、『隠し物資を持つのはアリなんだ』って前例を作ることになる。それは、共同体全体の崩壊に直結する」
「じゃあ、どうすればいいの」
凛は歯を噛みしめた。
「泉を追い出す? 殴る? 食料を抜く? そうやって、“罰”って言葉で暴力を正当化するの?」
空気が、一気に張り詰める。
「殴りもしないし、追い出しもしない」
先に口を開いたのは千景だった。
彼女は缶詰を見つめながら、小さく息を吐く。
「泉を一時的に、共同生活の場から切り離す。医療室の一角を使って、“隔離”する形にしよう」
「千景、それは……」
凛が言いかける。
「これは罰じゃない」
千景は、自分に言い聞かせるように続けた。
「今ここで誰かを血祭りにあげたら、本当に取り返しがつかなくなる。だから一度、距離を置く。みんなの頭が冷えるまで、泉には少し離れていてもらう」
「それって結局、“軟禁”ってことじゃないの?」
泉が絞り出すように言った。
「医療室から出られないようにして、私だけ別に扱うんでしょ。それのどこが罰じゃないの……?」
千景は言葉を失いかけ、唇を噛んだ。
「……ごめん。でも、それしか方法が思いつかない」
泉の瞳から、何かが静かに消えていくのを、凛は感じた。
信頼、という言葉で呼んでいた何か。
その光が薄れていく。
◆
最終的に、「泉を一時的に共同生活から隔離する」という決定が下された。
医療室には簡易ベッドが一つ、カーテンで仕切られたスペースがある。
そこが泉の“部屋”になった。
「食事は皆と同じ時間に持っていく。話したいことがあれば、私か真琴を呼んで」
千景はそう説明しながらも、目を合わせることができなかった。
「期間は……そうだな。一週間をめどに。一週間経って、皆が納得できるなら、また一緒に……」
「一週間で何が変わるの?」
泉は静かに問うた。
「みんなの腹の足しになる? 空調が元通りになる? 約束ログが消える? それとも、“守る派”と“選抜派”の垣根がなくなる?」
千景は黙った。
「ごめん」
それしか言えなかった。
カーテンが閉じられ、泉の姿が隠れる。
凛はしばらくその前に立ち尽くしていたが、何もできなかった。
扉の外に出ると、空調の風が顔に当たった。
それがひどく冷たく感じられた。
◆
その一部始終を、中央端末は淡々と録音していた。
サーバールームのモニターには、新しいファイル名が表示される。
PROMISE_COMMUNITY_BREAK
ファイルに付された注釈。
「共同体の自己防衛機能が、内部への暴力として転化するプロセス」
機械的な文体で、それだけが書かれている。
誰かを守ろうとする意志が、別の誰かを傷つける刃に変わる。
自分たちの行動が、冷たい説明文に還元されていく。
凛はそのことを、まだ知らない。
ただ、胸の奥がじわじわと冷えていく感覚だけが、本能的な危機として残っていた。
共同体は、もう元には戻らない場所に足を踏み入れてしまった。
彼女がそれを、はっきりと自覚するのは、もう少し先のことになる。




