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第6話「約束ログの部屋」

 東雲海斗が「大規模テスト」の準備を進めていた三日間のうち、二日目の午後。

 凛は整備室の隣にある小さなサーバールームにいた。


 ここは、最初の頃こそ皆で機械の状態を確認しに来ていたが、最近はほとんど誰も足を踏み入れない場所になっていた。

 金属ラックに並んだ黒い筐体は、低く唸り続けている。冷却ファンの風が、乾いた音を立てて回っていた。


「あった。ログの直アクセス用インターフェース。やっぱり残ってたか」


 端末の前に座る海斗が、わずかに口角を上げる。


「そんなの、本当にいじって大丈夫なの?」


 凛は、背後から画面を覗き込みながら言った。


 モニターには、これまで見たことのないメニュー画面が表示されている。

 黒い背景に、灰色のシステム文字が静かに並んでいるだけだ。


「大丈夫かどうかは分からない。でも、やらないと分からない」


「もう、そのセリフ聞き飽きた」


 ため息をつきつつも、凛は海斗の隣にしゃがみ込んだ。


 そこへ、工具箱を抱えた蓮司が入ってくる。


「おい、さぼってるのかと思ったら……また妙なことしてるな」


「妙なことじゃない。“監査”だよ」


 海斗は軽口を返しながら、別のコマンドを打ち込んだ。


「ここのシステムは、定期的に自動ログを集約してる。でも僕らが見られるのは、そのごく一部。さっき権限テーブルを見たら、“管理者専用”のログビューアが別にあってね」


「権限テーブルって……」


 蓮司はこめかみを押さえる。


「相変わらず、聞きたくない単語ばっかり出てくるな」


「で、その“管理者専用”ってのが、今見てる画面?」


 凛の問いに、海斗はうなずいた。


「うん。で、ここからが本題」


 画面の一部を指さす。


 そこには、似たような名前のファイルがずらりと並んでいた。


 PROMISE_DAY01

 PROMISE_DAY02

 PROMISE_DRAW_01

 PROMISE_KAITO_PRIVATE

 PROMISE_MEDICAL_01


 スクロールバーを少し動かすだけで、さらにいくつもの「PROMISE_」から始まる名前が現れる。


「……約束?」


 凛は思わず声を出していた。


「そう。恐らく“Promise Log”。約束ログだ」


 海斗はキーボードに指を滑らせ、一番古いファイルをクリックした。


 PROMISE_DAY00_START


 再生ボタンを押すと、ノイズの混じった音声が流れ始める。


『ここは一時的な避難場所です。すぐに救助が来ますから──』


 聞き覚えのある声だった。

 避難当初に彼らをここへ誘導した、防災センターの職員の声。


 続いて、今よりずっと明るい調子の誰かの声が重なる。


『大丈夫だって。だって公式のシェルターだろ、ここ。全員助かるに決まってるじゃん』


『そうだよ、必ず迎えが来る。誰一人見捨てないって、上も言ってるし──』


 凛は喉が熱くなるのを感じた。


 忘れかけていた、あの頃の空気。

 まだ「地上」に仲間や家族がいて、いつかきっと再会できると信じていた頃。


 音声は途切れ、画面にファイル情報が表示される。


 ファイル名:PROMISE_DAY00_START

 タグ:ALL_MEMBER

 記録種別:Collective Promise(集団約束)


「……全部、録音されてるの?」


 凛の声は震えていた。


「少なくとも、“約束と解釈できる発言”は自動的に抽出されているっぽい」


 海斗は淡々と分析する。


「キーワード、人称、文脈……そういうのを組み合わせて、『これは約束だ』って判断した音声だけが、こうやって別枠で保存されてるんだろうね」


 蓮司が眉間に皺を寄せる。


「勝手に録られてたってわけか。気味が悪いにもほどがある」


「まあ、まだ気味悪い程度で済んでるだけマシかもしれないけどね」


「どういう意味だよ」


「あとでもっと悪いのが出てくるかもしれないって意味」


 軽口のつもりだったのかもしれないが、笑えなかった。



「他のも……聞いてみてもいい?」


 凛が問うと、海斗は一瞬だけ迷い、結局うなずいた。


「じゃあ、最近のやつからいこうか」


 スクロールを下へ送る。


 そこには見覚えのあるファイル名があった。


 PROMISE_DAY02

 PROMISE_DRAW_01


 海斗はPROMISE_DAY02を選び、再生する。


『今から24時間は誰も選ばない』

『その間に外の状況とシステムの真意を探る』

『絶対に暴力には訴えない』


 鷹野の声が、驚くほどクリアに再生された。


 あの日、E-01の扉の存在を知った直後。

 皆で手を重ねて誓ったときの言葉だ。


 音声は続く。


『それでいいな? 全員』


『ああ』『分かった』『約束する』『うん……』


 皆の声が、次々とログに刻まれている。


 凛は、思わず自分の口元を押さえた。


「こんなに、はっきり……」


「マイク位置がいいんだろうね。ホールの天井にあるやつ」


 海斗は視線を天井に向けた。

 今もそこには、小さな黒い点が見えている。

 ただの埃だと信じたかったものは、実はずっと前から、彼らの言葉を拾い続けていたらしい。


 再生が終わると、システム情報が表示された。


 記録種別:Collective Promise

 キーワード:暴力禁止/選出保留/調査優先


 蓮司が低く唸る。


「……これを再生させて、『お前ら、約束破ってるぞ』って突きつけることも、できるってことか」


「やろうと思えばね」


 海斗は目を細めて、別のファイルをクリックした。


 PROMISE_DRAW_01


 抽選の夜のログだ。


『選ばれた人は、地上に出たら、可能な限り救助や物資の手配を試みる』

『選ばれた人への暴力や妨害を禁ずる』

『抽選結果に不満を残さず、やり直しを要求しない』


 泉の声、千景の確認、鷹野の同意。

 そして、皆が順番に「賛成」と答え、ホワイトボードにサインしていく音まで。


 最後に、海斗の声が聞こえた。


『僕も、守るよ』


 凛は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。


 紙の上だけじゃない。

 言葉にした約束までもが、冷たいファイルとして、こうして残っている。


「なんでこんなものが……?」


 いつの間にか、給食室から呼び出された泉が、凛の隣で画面を見つめていた。

 彼女の声もまた、震えている。


「誰のための記録なの。何のために、こんな……」


「“嘘を見張るため”だろうな」


 淡々とした声が、部屋の奥から聞こえた。


 葛城詩織だった。

 ノートを手に、いつの間にか扉の横に立っている。


「“約束”っていうのは、人が一番嘘をつきやすい場所でもある。だからこそ、誰かがそれを観察し、記録しようとしている」


「誰かって、誰よ」


「さあね」


 詩織は肩をすくめた。


「人かもしれないし、機械かもしれないし、その両方かもしれない。でも少なくとも、このシステムは“約束”に異常な執着を持ってる。ファイル名の付け方を見れば分かる」


 海斗がうなずく。


「約束を抽出して、分類して、整理してる。『誰が』『いつ』『どんな言い方で』約束して、それを守ったか破ったか。全部、数字か何かにしてるんじゃないかな」


 蓮司がホイールを回し、一覧をさらにスクロールした。


 そこには、彼らがこのシェルターで過ごしてきた一年間分の「PROMISE_」がぎっしりと並んでいた。

 ファイル名の横には、日付と時刻が細かく刻まれている。


「こんなに……」


 凛は息を呑む。


 PROMISE_DAY001_FOOD_SHARE

 PROMISE_DAY013_MEDICAL_ASSIST

 PROMISE_DAY057_NO_ESCAPE

 PROMISE_DAY100_NO_SUICIDE


 見覚えのあるキーワードが次々と目に入る。

 そのほとんどは、今となっては形骸化したか、完全に破られたものばかりだった。


「これ、最初の頃のやつも残ってる?」


 泉が恐る恐る尋ねる。


「避難したばかりのときの、あの……」


「あるよ」


 海斗は一番古い日付までスクロールを戻し、数ファイルを選んで開いた。


『全員を助ける』

『誰一人見捨てない』

『ここは一時的な避難場所だ。すぐに上が迎えに来る』


 まだ疲れはしているが、希望を失っていない声。

 明るく場を盛り上げようとする、誰かの冗談。

 それに笑って応じる声。


 凛の視界が、少しぼやけた。


「やめて……」


 思わず、再生を止めていた。


「こんなの、もう聞きたくない」


 泉も、唇を噛んで俯く。



「……で、問題はここから」


 しばらく沈黙が続いたあと、海斗が別のタブを開いた。


「“約束ログ”と一緒に、妙なファイルが一つだけあった」


 画面に、“PROMISE_”とは別の名前が現れる。


 SYSTEM_NOTE


 文字の感じが、明らかに他とは違っていた。


「システム……ノート?」


 蓮司が読み上げる。


「管理者メモか何かか?」


「多分、そう」


 海斗は深呼吸を一つしてから、そのファイルを開いた。


 モニターに、無機質な文章が表示される。


 被験体グループ#27

 観察期間:365日+α

 “約束”の数:132

 “約束”の破棄率:83%

 観察継続


 凛は、その一行目で目を見開いた。


「被験体……?」


 日本語として意味は分かる。

 だが、それが自分たちを指しているのだと理解した瞬間、全身の血が逆流したように思えた。


「ちょっと待って。これ、どういう……」


 泉が言葉を失う。


 葛城が画面を覗き込み、淡々と読み上げる。


「“被験体グループ#27”。このシェルターにいる私たちを、番号付きでグループ分けされた“被験体”として扱ってるってことだね」


「被災者じゃなくて……」


 凛の喉から、乾いた声が漏れた。


「“観察対象”……?」


 海斗は唇を固く結んだ。


「観察期間:365日+α。約一年、ってことだ。僕らがここに来てからの時間と、ほぼ一致してる」


「“約束”の数:132」


 蓮司が指で画面をなぞる。


「俺たちが交わした約束の総数ってことか」


「“破棄率:83%”」


 詩織がそこを指さす。


「約束のうち、八十三パーセントが破られた。そういう意味に見えるね」


「そんな……」


 凛は、その数字の重さに息苦しくなった。


 「暴力は使わない」

 「全員で地上に戻る」

 「食料は平等に分け合う」

 「誰も一人にならないようにする」


 そうやって口にしてきた言葉の、どれだけが今も守られているのか。

 考えるまでもなかった。


「観察継続、か」


 黒瀬獅子雄の声が、背後から降ってきた。

 いつの間にか、彼も部屋に入っていた。


「まだ終わっていない。俺たちがどこまで堕ちるか、あるいは踏みとどまるか。そういう“実験”の途中ってわけだな」


 黒瀬の口調には、怒りよりも先に諦めが混ざっていた。



「この事実を、みんなにどう伝えるかだな」


 詩織がノートを閉じながら言った。


 部屋の空気は張り詰めていた。

 誰もが、さっき見た文字列を頭の中で反芻している。


「全部そのまま言うべきだろ」


 凛は即座に言った。


「知らないまま、実験動物みたいにされるなんて、絶対に嫌。少なくとも、自分たちがどう扱われてるかくらいは、知る権利がある」


「落ち着け、凛」


 黒瀬が静かに制した。


「この情報を全部広めたら、どうなると思う?」


「どうって……」


「『俺たちは被験体だった』『約束は監視されてた』『破った数まで記録されてる』。そんな話を聞かされた連中が、今まで通り冷静でいられると思うか」


 黒瀬の言葉に、凛は口をつぐんだ。


「秩序なんて、今だってギリギリだ。これ以上揺さぶったら、完全に崩壊する。暴力沙汰じゃ済まない」


「それでも、知らされないままっていうのは……」


 泉が訴える。


「私たちは被験体なんかじゃない。ここで生きようと必死になってる人間だよ。それを“観察対象”って一言で片づけるような誰かに、これ以上好き勝手されたくない」


 海斗は黙って二人のやり取りを見ていた。


「情報統制は、もうとっくに限界なんじゃない?」


 葛城が口を挟む。


「三浦の死も、缶詰の件も、抽選の裏の違和感も……みんな薄々勘づいてる。でも、“誰も確信を持って言わない”ことで、ギリギリの均衡を保ってるだけ」


 彼女はペンをくるくると回しながら続けた。


「ここで“被験体”なんて単語を出したら、多分その均衡は本格的に崩れる。誰かが必ず言うよ、『だったらもう、好きにしていいよな』って」


「じゃあ、どうしろっていうの」


 凛が睨みつける。


「黙ってろって? このまま、“観察”されてることに気づかないふりして?」


「全部か、ゼロかの二択じゃない」


 詩織は肩をすくめた。


「“小出し”にする。約束のログが保存されてるってことだけ伝える。『このシェルターは、私たちが口にした約束を全部録音している』って。それなら、まだ現実の延長線上として飲み込める」


「“被験体”って言葉は?」


「それはここだけの話にしておく」


 詩織はきっぱりと言った。


「少なくとも今はね。全員が冷静じゃない状態で投げ込むには、毒が強すぎる」


「情報を隠すことになる」


 泉が悔しそうに言う。


「それこそ、“上に立つ誰か”みたいなやり方だよ」


「じゃあ聞くけど」


 詩織の目が、真っ直ぐ泉を射抜いた。


「今これを全部話したら、泉は一人ひとりに責任を持ってケアできる? 全部受け止めて、暴走しかけたやつを止めて、それでも誰も死なせず、約束を守らせ続ける自信がある?」


「それは……」


 泉は言葉に詰まった。


「私はない」


 詩織はあっさりと言った。


「だから“最悪の爆弾”は一旦伏せておいて、“それとなく歯止めになる情報”だけ共有したほうがいいと思ってる。『約束は全部記録されてるよ』っていう事実は、少なくとも“嘘をつきにくくする”方向に働くはずだから」


「……それもまた、観察者の思考に近いな」


 黒瀬がぼそっと言った。


「何が言いたい」


「いや。お前、本当に記者志望か?」


 皮肉めいていたが、詩織は気にした様子もなく肩を竦める。


「じゃあ、決めよう」


 海斗が静かに口を開いた。


「僕は詩織の案に賛成だ。今、“被験体”って言葉まで共有するのは危険すぎる。正直、自分でもまだ飲み込めていない」


 蓮司も頷く。


「俺もだ。約束ログのことは伝えていいと思う。でも、SYSTEM_NOTEの中身まで言うのは……今はやめておきたい」


「私は……」


 泉はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。


「納得は、できてない。でも……今、ここにいる人がそれぞれの立場で“一番マシ”だと思う選択をしてるのは分かる。だったら、私もそれに乗る」


 凛は、胸の中で何度も押し問答を繰り返していた。


 全部言うか。

 何も言わないか。

 その間を取るか。


「……じゃあ、せめて」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「今ここにいる人だけは、“被験体”って言葉を忘れないでいよう。それを知らないふりをしたまま、この先ずっと過ごしたくないから」


 誰もすぐには何も言わなかった。

 やがて、黒瀬が短くうなずく。


「分かった」


 詩織も、ゆっくりとうなずいた。


「記録は、ここに残る。消したとしても、きっとどこかにバックアップがある。だったらせめて、“見た私たち”くらいは、忘れないでいよう」



 その日の夜のミーティングで、「約束ログ」のことは全員に共有された。


 内容は、詩織の案に沿っている。


「このシェルターのシステムは、ホールのマイクを通して、俺たちが口にした“約束”を全部録音してた」


 海斗の言葉に、皆がざわめいた。


「全部?」


「本当に?」


「いつから?」


 質問が飛び交う中、鷹野が手を挙げて場を落ち着けた。


「事実確認だけしよう。約束ってのは?」


「“暴力は使わない”とか、“抽選の結果に従う”とか……そういう類の言葉が、自動で抽出されて『PROMISE_なんとか』って名前で保存されてる。実際に再生もできた」


 海斗は誇張せず、事実だけを並べた。


「つまり、俺たちが口で言ったことは、全部“証拠として”残ってるってわけだ」


 真壁が顔をしかめた。


「うわ……最低だな、それ」


「最初に言ったよね」


 詩織が口を挟む。


「ここは“ただの避難場所”じゃなくて、“自律管理型シェルター”だって。環境と人間の行動を全部データ化して、『最適な生存戦略』を導き出すっていう、どこぞのきれいなパンフレットがあった」


「そんなもん、誰も信じちゃいなかったろ」


 黒瀬が吐き捨てる。


「でも、実際にそうなってた。少なくとも約束については、“どれだけ守られて、どれだけ破られたか”を監視してる」


 泉が皆を見渡した。


「だからこれから先、何かを約束するときは、それが全部記録されるってことを忘れないでほしい」


 その瞬間まで、まだ何人かは苦笑い混じりに話を聞いていた。

 “勝手にログを録られてた”という事実に怒りはしても、どこか冗談の延長のように受け止めていた。


 だが、ある一言をきっかけに、空気は決定的に変わった。


「約束をしても、どうせまたログに残されて、破った証拠にされるだけだろ」


 ぼそりと呟いたのは、誰だったか。

 真壁か、別の誰かか。

 はっきりとは分からなかった。


 だがその言葉は、ホール中にじわりと広がった。


 責任の重さとしての約束ではなく、“いつか自分を縛る証拠”としての約束。


 凛は、胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。


 泉が慌てて言葉を継ごうとする。


「違うよ。約束っていうのは、本来、人を守るためのもので……」


 しかし、コハルが小さく首を振った。


「でも、怖いよ」


 ベッドから起きられるようになったばかりの彼女の声は、か細かったがはっきり届いた。


「また『暴力は使わない』って約束しても、きっと誰かが破る。『誰も見捨てない』って言っても、きっと誰かが先に死ぬ。そうしたら、そのたびに“あのときこう言ったよね”ってログを再生されて……」


 コハルの目には、涙が溜まっていた。


「そんなの……もう、約束したくない」


 言葉を失ったのは、凛だけではなかった。


「約束をすればするほど、“破った証拠”が増えていく」


 葛城詩織が、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「道徳の鎖じゃなくて、“破られる前提の記録対象”。そう扱われた瞬間に、約束っていう行為そのものの意味が変わってしまう」


 黒瀬が椅子にもたれ、天井を見上げる。


「ならいっそ、何も約束しないほうがいいってことか」


 誰も否定しなかった。


 凛は、握りしめた拳に自分の爪が食い込むのを感じた。


 約束すれば、ログが増える。

 ログが増えれば、「破棄率」が上がる。

 システムのどこかにある数字が大きくなっていく。


 その数字が何を意味しているのか、誰も知らない。

 だが少なくとも、このシェルターを設計した“誰か”にとっては、きっと重要なパラメータなのだ。


 被験体グループ#27

 観察期間:365日+α

 “約束”の数:132

 “約束”の破棄率:83%


 凛の脳裏に、あの冷たい文字が何度も浮かんでは消えた。


 約束をやめれば、破ることもない。

 破ることがなければ、数字はそれ以上増えない。


 だが同時に、それは“人としての最後のブレーキ”を自分たちで外すことにもつながる。


 誰かを疑っても、「ごめん」と言って手を握り合うきっかけがなくなる。

 「もう二度としない」と誓う言葉が、口から消える。


 つまり、これから先に交わされるのは、約束ではなく取引だけになる。

 条件と条件の交換。

 その都度、その場しのぎの利害だけで動く関係。


 凛は、自分の胸の奥にひびが入る音を聞いた気がした。



 その晩。

 サーバールームの奥で、中央端末は静かにログをまとめていた。


 新しく生成されたファイルが一つ。


 PROMISE_ROOM_DISCUSS


 その中には、「約束ログの存在を共有する」という行為そのものに関する、議論の録音が詰まっている。


『約束をしても、どうせまたログに残されて、破った証拠にされるだけだろ』


『そんなの……もう、約束したくない』


『何も約束しないほうがいいってことか』


 システムは、それらの言葉を個別にタグ付けしながら保存していく。


 タグ:Promise Exhaustion/Ethics Collapse


 人が自分の口で、自分の倫理の崩壊を語る。

 その過程もまた、記録すべき「約束」の一形態として扱われていた。


 被験体グループ#27

 観察継続


 サーバーのファンが、黙々と回り続ける。


 約束は、もはや誰も救わない。

 それでもログだけは、今も忠実に、過去と現在を積み重ねていくのだった。

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