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第5話「放射線の雨のテスト」

 東雲海斗が“地上行き候補”として選ばれてから、三日が過ぎた。


 その間、彼はほとんど寝室に戻らなかった。

 作業場と化した整備室と、出口E-01の前の通路。

 その往復だけで、一日の大半を使っていた。


「お前さ、もうちょっと休んだら?」


 外村蓮司がそう声をかけたとき、海斗は配線の束と格闘していた。

 床いっぱいに広げられた工具と、古びた機械の残骸。

 使われないまま放置されていた防護服の切れ端、劣化したゴム手袋、黄ばんだ線量計。


「休んでる時間がもったいないんだよ」


 海斗は目の下のクマも気にせず、手元から視線を上げなかった。


「僕が外に出るって決まったなら、その前にやれることは全部やる。ここでのんびりしてる暇なんて、ないだろ」


 彼の手元には、小型の整備用ドローンが一機、横たわっていた。

 元は通気口のメンテナンスに使われていた機体だが、今は装甲を増やされ、前面に簡易カメラと線量計が無理やり取り付けられている。


「……本当に動くのか、それ」


 凛は整備室の入り口から、それを見つめていた。


 ドローンの機体のあちこちにはテープで補修した跡があり、素人目には今にもバラバラになりそうに見える。


「動くようにするんだよ」


 海斗は工具を置き、線量計の設定を確認した。


「人間が外に出る前に、“無人テスト”をやる。E-01の前までこの子に行ってもらって、サービスハッチを少しだけ開ける。外気を吸わせて、放射線量を測る」


「サービスハッチ……?」


「扉本体を開けなくても、内部の圧力調整用に空気を出し入れするための小さな口だ。設計図に載ってた」


 凛は背筋が冷えた。


「そんなことして、大丈夫なの?」


「扉そのものを開けるわけじゃない。ほんの少しだけだ。シェルター内の空気が汚染されないように、フィルターを二重にかませる」


 海斗は壁際の簡易ホワイトボードに、手順を書き出していく。


 一、ドローンをE-01前まで遠隔操作で移動。

 二、サービスハッチ用の端末と接続。

 三、ハッチを数センチだけ開ける。

 四、外気を一時的に吸入し、線量計で測定。

 五、即座にハッチを閉じ、換気フィルターを全開にして室内を循環。


「もちろん、完全に安全とは言えない。でも、何もしないで“外はきっと大丈夫だろう”って思い込みだけで扉を開けるよりは、まだマシだ」


 合理的な理屈だった。

 だからこそ、怖かった。



 テストは、全員の了承を得てから行われることになった。


 E-01の前の通路に、凛たちは集まっていた。

 ドローンはすでに扉の前に待機し、線量計の小さなディスプレイが緑色に光っている。


「フィルターは?」


「最大出力にしてある。千景、万が一のときはすぐに言ってくれ」


 蓮司が空調の制御盤を確認しながら言う。


 氷川千景はマスクをつけ、携帯用の測定器を手にしていた。


「了解。でも、ほんの少しでも空気の流れがおかしいと感じたら、即中止だからね」


 E-01の扉は相変わらず無機質にそびえたままだ。

 高い天井からの照明が、扉の表面に冷たい光を落としている。

 扉の右上には小さな緑のランプが灯っている。

 出口がここにあると言わんばかりに。


「本当に……やるの?」


 凛は、思わず隣に立つ泉の袖をつかんだ。


 泉は黙って、ぎゅっと凛の手を握り返した。


「やらなきゃ、何も分からないままだから」


 彼女の声は震えていたが、目はしっかりと前を向いていた。


 海斗が端末を立ち上げる。


「ドローン、起動する」


 彼の指が画面を滑ると、小さな駆動音が通路に響いた。

 ドローンの脚部がゆっくり動き出し、車輪が床の金属を擦る。


 E-01の扉の前まで進むと、海斗はもう一台の端末に切り替えた。


「サービスハッチの制御系にアクセス……パスコード、認証通った」


 モニターに、「準備完了」の文字が表示される。


 凛は息を飲んだ。


「これより、サービスハッチを五センチだけ開放する。時間は十秒。それ以上は、どんな状況でも中止する」


 海斗の声が固い。


「千景、準備は?」


「いつでもいい。やるなら、早くして」


 千景の額にも、汗がにじんでいた。


 蓮司は空調の制御スイッチに手をかける。


「フィルター全開。換気ルート、仮想ループに切り替え……よし」


「黒瀬」


 海斗が振り返る。


「万が一、システムが勝手に扉を開こうとしたら、物理的に止める。頼めるか」


「こんな扉、俺一人の力で止められると思うなよ」


 黒瀬は苦笑しながらも、扉の脇に立った。


「だが、できる限りはやってやるさ」


 その言葉が、妙な安心感をくれた。



「──開ける」


 海斗が指を、スイッチに乗せた。


 一瞬、時間が止まる。

 凛は無意識のうちに息を止めていた。


 クリック。


 小さな音とともに、E-01の右下あたりにある四角いパネルが、ほんの数ミリ浮き上がる。

 サービスハッチが、ゆっくりと隙間を作り始めた。


 その瞬間だった。


 通路の空気に、ふっと異物が混ざった。


 金属が焼けるような、鉄さびを濃縮したような、鼻の奥を刺すにおい。

 喉の粘膜がきゅっと縮み、肺が拒絶反応を起こす。


「げほっ……!」


 誰かが咳き込んだ。

 千景が叫ぶ。


「空気の流れが変わった! これ以上は無理、閉じて!」


「まだ十秒経ってない!」


「数秒で十分だって言ったのはそっちでしょ! 今すぐ閉じて!」


 凛の喉にも、焼けるような刺激が走る。

 胸が重く、空気が固い。


 海斗が歯を食いしばり、ハッチ閉鎖ボタンを叩いた。


 パネルが即座に閉じ、鈍い音を立てて元の位置に戻る。


「フィルター全開! 換気開始!」


 蓮司が叫び、空調のスイッチを押し込んだ。


 天井の換気口から、強い風が吹き出す。

 通路の空気が循環し、金属臭が少しずつ薄まっていく。


 千景は喉を押さえながら、携帯測定器を確認した。


「一時的に、線量が跳ね上がった……」


「どのくらいだ」


 黒瀬が問う。


「まだ詳しい数値は解析しないと分からないけど、普通じゃないのは確か。少なくとも、“安全”なんて言葉を使えるレベルじゃない」


 凛は壁に手をついて、浅い呼吸を繰り返した。

 少し吸い込んだだけでこの状態。

 もし扉を大きく開けていたら、と想像して背筋が凍る。



 整備室に戻ると、蓮司が線量計のログをノート端末に取り込んだ。


 グラフが、壁のモニターに映し出される。

 開放の瞬間、針が跳ね上がったように数値が急上昇し、その後ゆっくりと下降していく。


「……なあ、これ」


 蓮司の顔が青ざめていく。


「このピーク値。換算すると、人間が直にあの空気を吸ったら、数時間で致死量に達するレベルだ」


 凛は冷たい水を浴びせられたような感覚に襲われた。


「数時間……?」


「防護服を着ていても、長時間の滞在は無理だろう。まして、僕らのところにあるのは、こんなボロ布みたいな代物だ」


 蓮司はテーブルの上の防護服を指さした。

 ところどころ破れ、シーム部分のシールも劣化している。


「今の状態で外に出たら、多分……」


 そこまで言って、言葉を飲み込んだ。


 千景が低く告げる。


「死ぬ。外に出た人間は、高確率で死ぬ。そう考えて動かないとダメ」


 整備室の空気が、別の意味で重くなる。


「でも、待って」


 海斗が食い下がる。


「これは“今の”外の状況だ。放射線量が高いのは、何かイベントが起きた直後かもしれない。一時的な放射線の雨、みたいなものだとしたら、しばらく待てば落ち着く可能性も……」


「可能性?」


 千景の声に怒気が混ざる。


「“可能性”に、人の命を賭けるわけ?」


 海斗は口をつぐんだ。


「さっきだって、私たち全員、少しは吸い込んでるのよ。ハッチを一瞬開けただけで、喉に違和感が出るくらいには」


 千景は凛とコハルをちらりと見た。


「今すぐどうこうってレベルじゃないにしても、積み重ねれば確実に身体にダメージが残る。そんなところに、誰か一人を送り出す意味が、本当にあるの?」


 泉が小さな声で言いかけて、途中で言葉を飲み込んだ。


「そんなところに送るくらいなら、ここでみんな一緒に……」


 黒瀬が彼女の言葉を引き取る。


「ここに残ったところで、いずれ全員餓死だ」


 冷たい現実。


 蓮司が表をめくる。


「食料は、現時点で残り五日分くらいだ。省エネモードにして、配給を減らしても一週間が限界」


「空調がこのまま落ちていけば、それまでに窒息するかもしれないけどね」


 葛城詩織が淡々と付け足した。


「つまり、外はほぼ死の世界。中も、遅い死が待っている。選べるのは、“どう死ぬか”だけってわけだ」


 その言い方に、凛は思わず反発したくなった。


「死ぬか生きるか、じゃなくて……!」


 何かを言いかけたが、言葉が続かなかった。

 自分でも、何を否定したいのか分からなかった。



 テストの詳細は、その日のうちに全員に共有された。


 ホールのモニターに、線量のグラフが映し出される。

 ピーク値の高さと、その後の緩やかな降下。


「この数値だと、防護服を着て出ても、十数分の活動が限界だろう」


 蓮司の説明に、何人かが顔をしかめた。


「地上に行った人がその状態で動けることを前提に、“救助や物資の手配”なんて、ほとんど期待できない」


 泉の言葉に、沈黙が落ちる。


「だったら、海斗を外に送る意味って、まだあるの?」


 凛は、皆の視線が一斉に海斗に向かうのを感じた。


 海斗はボードの前に立ち、自分の名前が丸で囲まれている箇所を見つめていた。


「意味があるかどうかは、僕にも分からない」


 静かな声だった。


「でも、完全にゼロとは言えない。放射線量は確かに高いけど、時間とともに下がっている。もし外に出た瞬間が“たまたま一番マシなタイミング”だったら、僕はもう少し長く動けるかもしれない」


「そんなの、宝くじどころか、雷に二度打たれるレベルの話じゃないの?」


 真壁朔也が苦笑混じりに言った。


「それでも……何もしないよりは」


 海斗は言葉を重ねようとして、千景の視線に気づき、そこで止めた。


 泉が小さく息を吸う。


「私は……正直、もう分からないよ。救いがどこにあるのか、どこを目指せばいいのか」


 彼女の目には涙がにじんでいた。


「こんなところに送るくらいなら、みんなでここで一緒に、って思う自分と……それでも誰か一人が外に出て、“何か”を見つけてくれるかもしれないっていう希望に、すがりたい自分がいる」


 黒瀬が腕を組んだまま、壁に背を預ける。


「どっちを選んでも、誰かは恨む。自分自身を含めてな」



 その夜。

 雨宮コハルが、突然、ベッドから起き上がれなくなった。


「頭が……痛い。気持ち悪い……」


 凛が気づいたとき、コハルは布団の中で丸くなっていた。

 顔色は悪く、額には汗がにじんでいる。


「千景!」


 凛は慌てて千景を呼びに行き、メディカルルームから駆けつけた彼女がコハルの脈と瞳孔を確認する。


「熱は……少し高いけど、危険なレベルじゃない。吐き気と頭痛……」


 千景は診察結果をまとめながら、眉をひそめた。


「ストレス性のものだと思う。ここ数日の緊張と、さっきのテストの騒ぎで、心身ともに疲れ切ってる」


「本当にそれだけ?」


 凛は思わず問い返した。


 千景は周囲を見回し、皆が少し離れたところで様子を伺っているのを確認すると、そっと凛の袖を引いた。


「……その可能性が一番高い。でも」


 声を潜める。


「あのときの空気漏れで、軽度の被ばくをした可能性も、ゼロとは言えない。もしそうなら、これからしばらく、同じような症状の子が他にも出るかも」


 凛の背筋に冷たいものが走った。


「そんな……」


「今のところは様子見でいい。でも、悪化したらすぐ教えて。いい?」


 凛はうなずくしかなかった。


 コハルの寝顔を見るたびに、胸が締め付けられた。

 あのとき、自分もハッチの前にいた。

 海斗のテストに賛成したわけではないが、止めきれなかった。


 実験に巻き込まれた形のコハルが苦しんでいる。

 その責任の一部は、自分にもある。


 怒りと罪悪感が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。


 怒りの矛先は、自然と一人の名前に向かう。


 東雲海斗。


 彼が合理的な判断を口にするたびに、それがどれだけ正しくても、凛の胸の中には「でも、コハルが」と叫ぶ声が生まれる。



 夜更け。

 海斗は一人で中央端末の前に立っていた。


 ホールは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。

 照明は常夜灯だけが灯り、薄暗い光が床を斜めに照らしていた。


「システム。聞こえるか」


 海斗は画面の前に立ち、ぽつりと呟いた。


 もちろん、返事はない。

 端末は黒い画面を映したまま、動かない。


「地上は、本当に“戻れる場所”なのか」


 誰にともなく、問いを投げる。


「今のテストの結果を見る限り、少なくとも『家』とか『日常』って言葉からは、遠すぎる。放射線の雨。空気そのものが毒ガスみたいな世界」


 言葉にすることで、自分の思考を整理しているのだと凛は気づいた。

 いつからか、ホールの入り口からその様子を見てしまっていた。


「そもそも、この通達は誰が出している?」


 海斗は続ける。


「人間か、AIか。あるいはその両方か。出した“意図”は何だ。人口の調整? 心理実験? それとも、本当に僕らを生かそうとしている?」


 天井の隅にある小さなマイクが、微かに赤く光っているのが見えた。

 その光を、海斗は知ってか知らずか、じっと見上げる。


「だったら、もっとましな方法はいくらでもあったはずだよな。『地上に戻れるのは一人だけ』なんて言い方じゃなくて、具体的な避難計画を提示するとか、救助のスケジュールを教えるとか」


 自嘲気味に笑う。


「選択肢をわざと狭めて、僕ら同士を疑わせて、潰し合わせて……その先に何を見たい?」


 海斗は、自分の胸に手を当てた。


「僕は、ここの住民として、じゃなくて……“このプログラムに噛みついたユーザーの一人”として聞いている。システム。君は、僕らに何をさせたい?」


 沈黙だけが返ってくる。


 だが天井のマイクは、確かにその声を拾っていた。


 数秒後、中央端末の内部ログに、新しいファイルが生成される。


 ファイル名。


 PROMISE_KAITO_PRIVATE


 そう名付けられた音声データが、他の約束ファイルとは別のディレクトリにそっと保存される。


 凛はドアの影からそれを見ていた。

 聞き耳を立てるつもりはなかった。

 ただ、眠れなくてホールまで来たら、海斗が一人で話しているのが見えてしまっただけだ。


 彼の背中は、いつもより小さく見えた。



 翌日の会議。

 海斗は端末の前に立ち、皆を見渡した。


「出口を開ける前に、もう一度だけ、大規模なテストをさせてほしい」


 その一言で、空気が変わった。


「大規模?」


 黒瀬が眉をひそめる。


「今度は、E-01の前だけじゃなくて、シェルター内全体の空気と換気システムを使ったテストだ。外の空気をフィルター越しに少しずつ取り入れて、時間経過とともに線量がどう変化するかを観測する」


 海斗はホワイトボードに簡単な図を描いた。


「もし放射線量が時間とともに安定して下がっていくなら、“待てば安全になる”って仮説に、少しだけ根拠が持てる。逆に、ずっと高いままなら……その時点で、外に出る計画を根本から見直したほうがいい」


「待ってる間にも、物資は減っていく」


 黒瀬の反論は、簡潔で的確だ。


「食料も空調も、水も。実験してる間に全員が弱っていくのに、まだ“テスト”に使う余裕があるのか」


「分かってる。でも――」


 海斗は鷹野に視線を向けた。


「科学的根拠がないまま、誰かを送り出すのは愚かだ。合理性を大事にするなら、ここで一度だけ情報を増やしておくべきだと思う」


 鷹野は少し考え込み、それからゆっくりと頷いた。


「俺は、海斗の案に賛成だ」


 その言葉に、何人かがほっとした顔をした。


「理由はシンプル。今は“不確実性”が多すぎる。外がどれくらい危険で、どれくらいの時間なら活動できるのか。その目安もないまま、人一人を外に出すのは……単なる賭けだ」


 鷹野は、ボードの角を指先でとんとんと叩いた。


「賭けそのものは避けられないにしても、その倍率を少しでも下げる努力はしておくべきだろ」


「でも、時間の問題はどうするの」


 泉が問う。


「テストの間、私たちの生活はどうなるの。食料の量は? 空調は? コハルの体調だって不安定なのに」


 海斗は言葉を慎重に選んだ。


「無制限に待とうとは言わない。だから、上限を決めたい。“あと三日だけ”。それで結果が出なければ、その後は僕の判断に従ってもらう」


 黒瀬の目が鋭くなった。


「三日」


「三日あれば、線量の変化の傾向は見えてくるはずだ。増え続けるのか、減るのか、横ばいか。それだけ分かるだけでも、“出るにせよ出ないにせよ”、選択の根拠にはなる」


 ホールに、低いざわめきが広がる。


 三日。

 短いようで、長い。


 その間に物資は確実に減り、空調はさらに弱くなる。

 人の心も、きっと今よりは摩耗する。


 凛は胸の奥がざわざわと騒ぎ始めるのを感じた。


 鷹野が両手を挙げ、場を落ち着かせた。


「提案だ。この件は多数決で決めよう」


 葛城がメモを構える。


「選択肢は二つ。“三日だけ大規模テストを行う”か、“このままの情報で計画を進める”か」


 泉が凛の手を握る。


「……どうする?」


 凛は迷った。


 テストをすれば、誰かがまた体調を崩すかもしれない。

 コハルのように。


 でも、何もしないで海斗を外に送り出すのも、別の意味で怖い。


「三日、だけなら」


 凛は、そう答えている自分に気づいた。


「歯止めがあるなら……情報がないよりは、少しでも分かったほうがいいと思う」


 蓮司も千景も、慎重な表情ながら賛成に手を挙げた。

 黒瀬は最後まで難しい顔をしていたが、やがて息を吐き、やや不機嫌そうに手を上げた。


 賛成多数。

 結果として、“あと三日だけ待つ”という妥協案が採用された。



 会議が終わり、皆が散っていく中で、凛はホールの真ん中に立ち尽くしていた。


 三日。


 たった三日。

 けれど、それは“誰かの恐怖や欲望が膨れ上がるには十分すぎる時間”だと、直感が告げていた。


 空調の音が、以前よりも弱く、遠くから聞こえてくる。

 照明の光は揺れ、影は濃くなる。


 蓮司は倉庫で物資の再計算をし、

 千景はメディカルルームで薬の残量を確認し、

 葛城はボードのメモを整理し、

 黒瀬は誰にも見せないメモ帳に何かを書き込む。


 それぞれが、それぞれの不安を抱えたまま、三日間を迎える準備を始めていた。


 凛は、自分の胸の中に渦巻くざわめきを押さえられなかった。


 ──三日もあれば、人の心なんていくらでも変わる。


 恐怖は膨らみ、疑いは増殖し、

 「誰が残り、誰が出るのか」という計算が、頭の片隅にこびりつく。


 均衡は、もう限界まで傾いている。

 あとは、ほんの小さなきっかけで音を立てて崩れるだけだ。


 凛には、それがはっきりと分かっていた。


 そして現に、その三日のあいだに、シェルター内の“均衡”は、彼女の予感どおり、静かに、しかし確実に壊れはじめていくのだった。

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