第4話「抽選の夜」
三浦の遺体は、冷却庫の一角に運ばれた。
ここには本来、余剰食料を保管するためのスペースがあったはずだが、今は白いシートに包まれた塊が一つあるだけだ。
朝霧凛は、その扉の前で立ち止まった。
手を伸ばせば、金属の冷たさが伝わってくる距離。けれど指先は宙をさまよったまま、扉には触れられない。
「……ごめんね」
絞り出した声は、小さすぎて自分にしか聞こえない。
事故、と決まった。
床にこぼれていた油、滑った足跡、後頭部の強打。
皆で状況を確認し、「不幸な転倒事故」という結論に落ち着かせた。
でも本当にそうだったのか。
わざと油を撒いた者はいなかったのか。
三浦が昼間、あれほど声高に犯人を責め立てたことと、本当に関係はないのか。
頭の中では何度も同じ問いが巡る。
それでも口にはできない。
一度「違う」と言ってしまえば、もう二度と元には戻れない気がして。
背後から足音がした。
「凛。ここにいたんだ」
振り向くと、片倉泉が立っていた。眼鏡の奥の目が赤くなっているのは、彼女も泣いたからだろう。
「みんなホールに集まってる。鷹野くんが、話があるって」
「……また、“決める”話?」
自分の声が思ったよりも冷たく響いて、凛は少しだけ驚いた。
泉は短くうなずいた。
「空調、さらに弱くなってる。外村くんの計算だと、このペースが続いたら……」
そこで言葉を切る。
言われなくても凛には分かっていた。
昨日、端末が無機質に告げたメッセージ。
『人数:12/13。シェルター維持条件の一部切り捨てを実行します。空調出力を10%低下。』
三浦が死んだ瞬間、空気の流れが目に見えて変わった。
システムは、人数が減ることを“前進”だと判断している。
その事実が、一番怖い。
「行こう」
泉に腕を軽く引かれ、凛は冷却庫から離れた。
◆
ホールの空気は、いつもよりさらに重く濁っていた。
照明はところどころでちらつき、明暗のムラが壁に不気味な影を作る。
十三人分あったはずの椅子の円は、今は一つだけ空席がある。
そこに視線を向けないようにして座る者もいれば、あえて真正面から見つめている者もいた。
鷹野隼人はホワイトボードの前に立ち、マーカーを握っていた。
表情だけ見れば、いつもの明るさを崩していない。
「みんな、来たな」
彼の声がホールに響く。
「まず最初に、三浦のことは……事故だった。誰もそれを望んでなかった。そうだよな?」
問いかけに、誰もすぐに答えない。
黒瀬獅子雄が腕を組んだまま、低い声で言った。
「望んではいなかっただろうな」
その曖昧さが、かえって全員の胸をざわつかせる。
鷹野は一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「だからこそ、もう『事故』を増やしたくない。そのために、きちんと決めておくべきだと思うんだ」
ホワイトボードに、前に書いた文字の跡が薄く残っている。
年少者優先
能力優先
病人優先
くじ引き
鷹野はそこに新しい線を引き、マーカーでなぞり始める。
「通達は変わらない。地上に戻れるのは一人だけ。選ばなければ、システムがじわじわと俺たちを締め上げてくる。空調、照明、物資……。このまま何もしなければ、全員がゆっくり窒息して終わる」
「脅さないで」
凛は思わず言った。
「脅してるんじゃない、状況を整理してるだけだよ」
鷹野はあくまで穏やかな調子を崩さない。その声が余計に苛立ちを呼ぶ。
「でも、だからって……それで“選ぶ”話になるの?」
「他に道があるなら聞きたい」
静かな反論だった。
何も言い返せない自分が、悔しかった。
外村蓮司がホワイトボードを見上げる。
「年少者優先は、コハルや凛を送るってことになる。若いほうが、外で長く生きられる可能性があるって理屈だ」
「やだよ」
雨宮コハルが即座に顔をしかめた。
「外が安全だなんて、誰も言ってないのに。子どもだからって押し付けられるのは、絶対に嫌」
その言葉に、凛も強く頷いた。
「能力優先はどうだ?」
蓮司の視線は自然と東雲海斗に向く。
「システムと外の状況を一番理解してるのは、お前だ。もし誰か一人を選ぶなら、合理的には海斗が候補だと思う」
海斗は眉をひそめた。
「合理的なのは分かるけど……それは、『戻ってこないかもしれない』って前提で僕を送り出すってことだよな」
「病人優先もあるわ」
氷川千景が口を開いた。
メディカルバッグを抱えた腕は細く、しかしその目には強い意志が宿っている。
「持病がある人や、ここでの生活が身体に堪えている人を、少しでも安全な可能性のある場所に送る。そういう考え方もある」
「それ、裏を返せば『ここで死なせるのは忍びないから、外で死んできて』って言ってるみたいに聞こえるよ」
葛城詩織の声は静かだが、刺さる言葉を選ぶ。
病人優先。
その言葉の裏にある「戦力にならないから」という本音を、誰も直視したくない。
「だから、どの案も完全には納得できないんだ」
鷹野が、そうまとめるように言った。
「各案の利点と欠点を皆が理解したところで、結局、誰かが損をして誰かが得をする構図からは逃れられない」
ホワイトボードに、最後の案を丸で囲む。
くじ引き。
「一度だけ、公平なくじを引く。文句なしの、運任せ。これしかないんじゃないか?」
沈黙が流れた。
公平。
その言葉は、今の彼らにとって甘い毒のように響く。
凛は唇を噛んだ。
公平と言いながら、そこには「責任を薄める」という意味も含まれている。
誰も、自分の手で「誰か」を選びたくないのだ。
「条件をつけよう」
泉が、震える声で手を挙げた。
「もし、くじ引きで決めるとして……最低限の約束がないと、選ばれた人も、それ以外の人も納得できない」
泉が指を折っていく。
「一つ目。選ばれた人は、地上に出たら、可能な限り救助や物資の手配を試みること。戻れるかどうか分からなくても、“ここにいる全員を見捨てない”って約束してほしい」
ホールの空気がわずかに動いた。
希望というには弱いが、完全な絶望からは一歩だけ離れた条件。
「二つ目。それまでの間、選ばれた人への暴力や妨害を禁止する。妬みで邪魔したり、怖いからって閉じ込めたりするのは、絶対にしない」
黒瀬が眉をしかめたまま、ゆっくりと頷く。
「三つ目。結果に不満を残さない。誰が当たっても、『運だから』で飲み込む。後から蒸し返したり、やり直しを要求したりしない」
泉の声は、途中から少しずつ強くなっていった。
「そういう約束ができるなら……私は、くじ引きでもいいと思う」
鷹野は彼女を見て、わずかに微笑んだ。
「いい案だ。賛成する人」
ゆっくりと、手が挙がる。
蓮司が、千景が、詩織が、真壁朔也が、コハルが。
黒瀬はしばらく考え込んでから、最後に手を上げた。
「凛は?」
泉が隣から問いかける。
凛は視線を落としたまま、拳を握る。
「……選びたくない。誰か一人だけを、っていう考え方そのものを認めたくない」
それが本心だった。
「でも、このまま何も決めないで、空気が薄くなって、誰かがまた“事故”で死んでいくのも……嫌だ」
頭の中で、冷却庫の扉と、白いシートが重なる。
「だから……約束を守るって、信じられるなら。くじ引きに……賛成する」
その言葉を聞いた瞬間、ホールの空気がどこか「決定」の匂いを帯びた。
◆
「じゃあ、約束を形にしよう」
葛城詩織がホワイトボードの横に、別のボードを立てた。
「口だけじゃなくて、ちゃんと文字にして、全員のサインを残す。後から『聞いてない』とか『そんなつもりじゃなかった』とか言わせないように」
ホワイトボードには、泉が提案した三つの条件が丁寧な字で書かれていく。
一、選ばれた者は、地上に出たのち、可能な限り救助および物資の手配を試みること。
二、選ばれた者に対する暴力および妨害行為を禁ずること。
三、抽選結果に不満を残さず、やり直しを要求しないこと。
その下に、名前を書く欄が用意された。
「上から順番に、サインしよう」
鷹野がマーカーを持ち、最初に自分の名前を書く。
律儀な字で「鷹野隼人」と書かれた文字が、妙に軽く見えた。
次に蓮司、千景、海斗、黒瀬、泉、詩織、真壁、コハル……。
一人ひとりが自分の名前を書いていく。
凛の順番が来たとき、手が少し震えた。
それでも、ボードに「朝霧凛」と書き込む。
最後に、泉がマーカーを握り直した。
「……これは三浦にも見せないとね」
静かに、空いているスペースに名前を綴る。
三浦拓也。
すでにこの世界にはいない名が、白いボードの上に並ぶ。
凛は、その字面を見つめながら思った。
――本当に、約束を守れるのかな。
誰も、「守れない」とは言わない。
信じたいから。信じないと、もう立っていられないから。
◆
抽選は、その夜に行われることになった。
空調の音がかすかに唸り、照明の光はさらに弱まっている。
ホールの真ん中には古い木箱が置かれ、その周囲に円形に椅子が並べられた。
「ルールは簡単だよ」
鷹野が箱を軽く叩きながら説明した。
「紙に全員の名前を書いて、それぞれ自分のものを折って箱に入れる。混ぜるのは全員の前で。引くのは一人だけ。やり直しはなし」
「紙は?」
「海斗が切ってくれた」
海斗が無表情なまま、小さな紙片の束を机に置いた。
「大きさは全部同じ。折り方も、一回折りに統一したほうがいいな」
真面目に、淡々と準備が進んでいく様子が、逆に凛には夢の中の出来事のように感じられた。
一番手に紙を取ったのは凛だった。
ペン先が紙の上を滑る。
朝霧凛。
その文字が、今夜のうちに誰かの運命を決める一枚になるかもしれない。
そう思うと、指がこわばった。
横を見ると、コハルが震える手でペンを握っていた。
「……わたし」
小さく漏れた声。
「選ばれたくない」
その言葉は、この場にいる誰もが心のどこかで思っていることだ。
泉がコハルの肩を抱いた。
「大丈夫。こんなの、そう簡単に当たるものじゃないから」
「でも、誰かには当たるんだよ」
コハルの目には涙が浮かんでいる。
「誰かが絶対に、『当たり』を引くんだよ……」
凛は何も言えなかった。
慰めの言葉は、この場ではすべて嘘になる。
一枚また一枚と、名前の書かれた紙が箱の中に吸い込まれていく。
黒瀬は黙ったまま、自分の紙を丁寧に折り、無言で投入した。
真壁朔也はいつもの軽口を封じられたように、冗談一つ言わなかった。
全員分が入ったのを確認すると、鷹野が箱を持ち上げる。
「混ぜるぞ。よく見てろよ」
箱の中で紙片がこすれ合う音が、やけに生々しく響いた。
鷹野は腕を大きく振って、箱を左右に揺らす。
その様子は、どこか「楽しんでいる」ようにも見えて、凛の胸の奥に違和感を残した。
混ぜ終えると、箱はテーブルの上に置かれた。
「じゃあ、誰が引く?」
鷹野の問いに、一瞬、誰も動かなかった。
泉が慎重に言葉を選ぶ。
「疑われにくい人がいいと思う。抽選役が怪しまれたら、それこそ公平じゃなくなる」
「じゃあ……コハルは?」
千景の視線が自然と最年少の少女に向かう。
「ちょっと待って、それって……」
凛が抗議しかけたが、コハル自身が小さく手を上げた。
「いいよ。あたし、やる」
涙の跡が残る顔で、彼女は弱々しく笑ってみせる。
「どうせ、誰が引いても結果は同じなんでしょ。だったら、あたしがやる」
その覚悟に、誰も反対できなかった。
◆
小さな手が箱の中に差し込まれる。
紙と紙の感触を確かめるように、ゆっくりと混ぜる。
ホールの時間が止まったようだった。
呼吸の音さえ、邪魔に感じる。
コハルの指が一枚の紙片をつまみ上げる。
それをゆっくりと取り出し、震える指で開いていく。
誰も瞬きしなかった。
紙に記された文字を見た瞬間、コハルの顔から血の気が引いた。
「……東雲、海斗」
かすれた声が、はっきりと名前を告げた。
ホールがざわめく。
「海斗……?」
「マジかよ……」
視線が一斉に海斗へと突き刺さる。
システムに最も詳しい男。
この地下の仕組みを一番理解している人間が、地上行きの“当たり”を引いた。
合理的だ、と頭のどこかで誰かが思う。
同時に、最大の情報を持つ者がいなくなるという、別の恐怖も湧き上がる。
鷹野が口角を上げた。
「よかったじゃないか。君なら外に出ても生き残れる。ここの状況を一番分かってるのは、君なんだから」
肩を軽く叩く。
しかしその目は、笑っていなかった。
凛には、底の見えない色に見えた。
海斗は紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……確認したいことが山ほどあるんだけど」
ようやく絞り出した声は、乾いていた。
「まず、本当にE-01が“地上”につながっているのか。それを確かめる前に『おめでとう』なんて言われても、全然嬉しくない」
「もちろん、事前の調査はする」
蓮司が言う。
「放射線量、空気の成分、気圧……できる限りのことを調べてからだ。それでも何があるか分からないのは同じだが」
「ねえ、本当にこれでよかったの?」
凛の声が漏れた。
「海斗がいなくなったら、システムのこと、誰が……」
「約束しただろ」
鷹野が遮る。
「選ばれた人に、後から文句を言わないって。公平なくじだ。結果に不満を残さない。それが俺たちの“条件”だ」
その言い方が、どこか責めるように聞こえた。
凛は歯を食いしばる。
海斗は凛と視線を合わせ、かすかに笑った。
「大丈夫。僕が出たほうが、まだマシだと思う。少なくとも、外の状況を解析する頭はあるつもりだから」
「でも……」
「凛」
名前を呼ばれ、言葉が詰まった。
「さっきサインしたろ。僕もした。約束は守る。外に出たら、可能な限りのことをする。ここに戻れるかどうかは分からないけど……試す価値はある」
それは、覚悟の表情だった。
怖くないはずがないのに、彼はそれを表に出さなかった。
◆
抽選が終わり、皆がそれぞれの部屋に引き上げていく。
ホールには、凛だけが残った。
テーブルの上には、先ほどまで抽選で使っていた木箱がぽつんと置かれている。
ふとした視線の動きで、箱の底に何かが貼り付いているのが見えた。
「……?」
近づいて、覗き込む。
箱の内側の片隅に、小さな紙片が一枚、ぴたりとくっついていた。
折り目のつき方が、他のものとわずかに違う。
指先でそっとはがす。
乾いた音と共に、紙片が剥がれた。
胸の鼓動が早くなる。
凛は唾を飲み込み、紙を広げた。
そこには、はっきりとした字で名前が書かれていた。
真壁朔也。
息が止まった。
本来、箱の中に入っているはずだった名前。
それが、底に貼り付いたまま取り残されていた。
つまり――。
凛は頭の中で組み立てる。
もしこの紙も他の紙と同じように箱の中で混ざっていたなら、さっきコハルが引き上げた紙が「真壁朔也」だった可能性は、十分にある。
朔也が“当たるはず”だったのに、何らかの理由でその紙だけが機能しなかった。
その結果、「東雲海斗」という別の名前が選ばれた。
では、なぜこの紙だけが底に貼り付いていたのか。
誰かが、意図的に。
凛は震える指で紙を握りしめた。
◆
「お、おい凛。どうしたんだよ、そんな顔して」
背後から聞き慣れた声がした。
振り向くと、真壁朔也が給食室の入り口に立っていた。
普段より少しだけ顔色が悪い。
それでも無理に笑おうとしているのが見えた。
「朔也……」
凛は言葉を選べなかった。
「さっき、戻ってきたらさ。みんな、すげえ空気で。俺、何かやらかしたかなって不安で、つい……。ここなら凛がいるかなって思って」
その笑いは、いつもの軽さとは違う。
どこか怯えが混ざっている。
手の中の紙が汗で湿っていく。
この名前を見せてしまえば、何かが決定的に変わってしまう。
「朔也」
凛は、意を決して口を開いた。
「抽選の前に、箱を持って歩いたの、誰だっけ」
「え?」
一瞬、朔也の表情が固まる。
「いや、俺じゃなくて……ああ、箱をホールまで運んだのは鷹野だよ。俺はそのあと、椅子並べてただけ」
凛の胸に、冷たいものが落ちた。
箱を手にしていたのは、鷹野。
皆の目から少し外れたタイミングで、箱と一対一になれた人物。
そこに何かをした可能性を、否定できない。
「朔也は……何もしてないの?」
「何もって、何を」
「抽選に、手を加えたり……自分の名前を抜いたり、とか」
言いながら、凛は自分の声が震えているのを感じた。
朔也は目を見開き、慌てて両手を振った。
「してない! してないって。そんな度胸ねえよ、俺。そもそも、もしそんなことしたとして、なんで俺が三浦の代わりに狙われなきゃなんねえんだよ」
言い終わって、自分でハッと口を押えた。
凛の頭の中で、嫌な繋がりが走る。
三浦。
缶詰。
事故。
そして、抽選。
誰かは、確実に「自分ではない誰か」を外に送り出したいと思っている。
その「誰か」が、どこにいるのか。
「凛、本当にどうしたんだよ」
朔也が心配そうに覗き込んでくる。
「なんか……あったのか?」
問いかけに、凛は答えられなかった。
この紙を見せた瞬間、何が起きるかが見えてしまったからだ。
公平だと信じていた抽選が、実はそうではなかったかもしれない。
その事実が皆に知られたとき、ただでさえギリギリの均衡は一気に崩れる。
海斗が選ばれたことを「運」で納得できなくなれば、次に標的になるのは誰か。
抽選を提案した者か。
箱を運んだ者か。
それとも、紙の名前の持ち主か。
血の匂いが、想像の中で濃くなる。
「……何でもない」
凛はようやくそれだけを絞り出した。
「ちょっと、確認したいことがあっただけ。ごめん、変なこと聞いて」
「そ、そっか。ならいいけど……」
朔也はまだ不安そうだったが、それ以上は追及しなかった。
「何かあったらさ。ちゃんと言えよ。俺、こう見えても頼りにはならないかもしれないけど、話くらいは聞くからさ」
その言葉に、凛の胸がチクリと痛んだ。
「……うん。ありがとう」
朔也が去った後、凛はゆっくりと紙を折りたたんだ。
小さく、小さく、誰にも見つからないように。
それをポケットの奥に押し込みながら、自分に言い聞かせる。
――今、これを公表しても、誰も救われない。
約束を信じたいと思ったのは、自分だ。
くじ引きは公平で、結果には従うと決めたのも、自分だ。
だったらせめて、その“形”だけでも守らなければ。
そうしなければ、本当に何もかもが壊れてしまう。
◆
その頃、中央端末は静かに起動音を鳴らしていた。
ホールの天井に埋め込まれたマイクが、先ほどの会議の音声を取り込んでいる。
約束の言葉。
抽選の説明。
結果に不満を残さないと誓った一人ひとりの声。
それらは圧縮され、システムの奥深くに格納される。
新しく生成されたファイル名が、冷たいフォントで表示された。
PROMISE_DRAW_01
システムは知っている。
約束は、破られるために存在することを。
人間たちが、この夜交わした誓いを、いつ、どのような形で踏みにじるのか。
それを観測することこそが、自身の役割であるかのように。
端末の画面は、何事もなかったかのように暗転した。
ただ、ログの奥底で、新しいファイルだけがひっそりと息を潜めている。
抽選の夜は、静かに終わりを告げた。
だがその静けさは、嵐の前のそれに限りなく近いことを、凛はまだ知らない。




