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第4話「抽選の夜」

 三浦の遺体は、冷却庫の一角に運ばれた。

 ここには本来、余剰食料を保管するためのスペースがあったはずだが、今は白いシートに包まれた塊が一つあるだけだ。


 朝霧凛は、その扉の前で立ち止まった。

 手を伸ばせば、金属の冷たさが伝わってくる距離。けれど指先は宙をさまよったまま、扉には触れられない。


「……ごめんね」


 絞り出した声は、小さすぎて自分にしか聞こえない。


 事故、と決まった。

 床にこぼれていた油、滑った足跡、後頭部の強打。

 皆で状況を確認し、「不幸な転倒事故」という結論に落ち着かせた。


 でも本当にそうだったのか。

 わざと油を撒いた者はいなかったのか。

 三浦が昼間、あれほど声高に犯人を責め立てたことと、本当に関係はないのか。


 頭の中では何度も同じ問いが巡る。

 それでも口にはできない。

 一度「違う」と言ってしまえば、もう二度と元には戻れない気がして。


 背後から足音がした。


「凛。ここにいたんだ」


 振り向くと、片倉泉が立っていた。眼鏡の奥の目が赤くなっているのは、彼女も泣いたからだろう。


「みんなホールに集まってる。鷹野くんが、話があるって」


「……また、“決める”話?」


 自分の声が思ったよりも冷たく響いて、凛は少しだけ驚いた。


 泉は短くうなずいた。


「空調、さらに弱くなってる。外村くんの計算だと、このペースが続いたら……」


 そこで言葉を切る。


 言われなくても凛には分かっていた。

 昨日、端末が無機質に告げたメッセージ。


『人数:12/13。シェルター維持条件の一部切り捨てを実行します。空調出力を10%低下。』


 三浦が死んだ瞬間、空気の流れが目に見えて変わった。

 システムは、人数が減ることを“前進”だと判断している。


 その事実が、一番怖い。


「行こう」


 泉に腕を軽く引かれ、凛は冷却庫から離れた。



 ホールの空気は、いつもよりさらに重く濁っていた。

 照明はところどころでちらつき、明暗のムラが壁に不気味な影を作る。


 十三人分あったはずの椅子の円は、今は一つだけ空席がある。

 そこに視線を向けないようにして座る者もいれば、あえて真正面から見つめている者もいた。


 鷹野隼人はホワイトボードの前に立ち、マーカーを握っていた。

 表情だけ見れば、いつもの明るさを崩していない。


「みんな、来たな」


 彼の声がホールに響く。


「まず最初に、三浦のことは……事故だった。誰もそれを望んでなかった。そうだよな?」


 問いかけに、誰もすぐに答えない。


 黒瀬獅子雄が腕を組んだまま、低い声で言った。


「望んではいなかっただろうな」


 その曖昧さが、かえって全員の胸をざわつかせる。


 鷹野は一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。


「だからこそ、もう『事故』を増やしたくない。そのために、きちんと決めておくべきだと思うんだ」


 ホワイトボードに、前に書いた文字の跡が薄く残っている。


 年少者優先

 能力優先

 病人優先

 くじ引き


 鷹野はそこに新しい線を引き、マーカーでなぞり始める。


「通達は変わらない。地上に戻れるのは一人だけ。選ばなければ、システムがじわじわと俺たちを締め上げてくる。空調、照明、物資……。このまま何もしなければ、全員がゆっくり窒息して終わる」


「脅さないで」


 凛は思わず言った。


「脅してるんじゃない、状況を整理してるだけだよ」


 鷹野はあくまで穏やかな調子を崩さない。その声が余計に苛立ちを呼ぶ。


「でも、だからって……それで“選ぶ”話になるの?」


「他に道があるなら聞きたい」


 静かな反論だった。

 何も言い返せない自分が、悔しかった。


 外村蓮司がホワイトボードを見上げる。


「年少者優先は、コハルや凛を送るってことになる。若いほうが、外で長く生きられる可能性があるって理屈だ」


「やだよ」


 雨宮コハルが即座に顔をしかめた。


「外が安全だなんて、誰も言ってないのに。子どもだからって押し付けられるのは、絶対に嫌」


 その言葉に、凛も強く頷いた。


「能力優先はどうだ?」


 蓮司の視線は自然と東雲海斗に向く。


「システムと外の状況を一番理解してるのは、お前だ。もし誰か一人を選ぶなら、合理的には海斗が候補だと思う」


 海斗は眉をひそめた。


「合理的なのは分かるけど……それは、『戻ってこないかもしれない』って前提で僕を送り出すってことだよな」


「病人優先もあるわ」


 氷川千景が口を開いた。

 メディカルバッグを抱えた腕は細く、しかしその目には強い意志が宿っている。


「持病がある人や、ここでの生活が身体に堪えている人を、少しでも安全な可能性のある場所に送る。そういう考え方もある」


「それ、裏を返せば『ここで死なせるのは忍びないから、外で死んできて』って言ってるみたいに聞こえるよ」


 葛城詩織の声は静かだが、刺さる言葉を選ぶ。


 病人優先。

 その言葉の裏にある「戦力にならないから」という本音を、誰も直視したくない。


「だから、どの案も完全には納得できないんだ」


 鷹野が、そうまとめるように言った。


「各案の利点と欠点を皆が理解したところで、結局、誰かが損をして誰かが得をする構図からは逃れられない」


 ホワイトボードに、最後の案を丸で囲む。


 くじ引き。


「一度だけ、公平なくじを引く。文句なしの、運任せ。これしかないんじゃないか?」


 沈黙が流れた。


 公平。

 その言葉は、今の彼らにとって甘い毒のように響く。


 凛は唇を噛んだ。

 公平と言いながら、そこには「責任を薄める」という意味も含まれている。

 誰も、自分の手で「誰か」を選びたくないのだ。


「条件をつけよう」


 泉が、震える声で手を挙げた。


「もし、くじ引きで決めるとして……最低限の約束がないと、選ばれた人も、それ以外の人も納得できない」


 泉が指を折っていく。


「一つ目。選ばれた人は、地上に出たら、可能な限り救助や物資の手配を試みること。戻れるかどうか分からなくても、“ここにいる全員を見捨てない”って約束してほしい」


 ホールの空気がわずかに動いた。

 希望というには弱いが、完全な絶望からは一歩だけ離れた条件。


「二つ目。それまでの間、選ばれた人への暴力や妨害を禁止する。妬みで邪魔したり、怖いからって閉じ込めたりするのは、絶対にしない」


 黒瀬が眉をしかめたまま、ゆっくりと頷く。


「三つ目。結果に不満を残さない。誰が当たっても、『運だから』で飲み込む。後から蒸し返したり、やり直しを要求したりしない」


 泉の声は、途中から少しずつ強くなっていった。


「そういう約束ができるなら……私は、くじ引きでもいいと思う」


 鷹野は彼女を見て、わずかに微笑んだ。


「いい案だ。賛成する人」


 ゆっくりと、手が挙がる。

 蓮司が、千景が、詩織が、真壁朔也が、コハルが。

 黒瀬はしばらく考え込んでから、最後に手を上げた。


「凛は?」


 泉が隣から問いかける。


 凛は視線を落としたまま、拳を握る。


「……選びたくない。誰か一人だけを、っていう考え方そのものを認めたくない」


 それが本心だった。


「でも、このまま何も決めないで、空気が薄くなって、誰かがまた“事故”で死んでいくのも……嫌だ」


 頭の中で、冷却庫の扉と、白いシートが重なる。


「だから……約束を守るって、信じられるなら。くじ引きに……賛成する」


 その言葉を聞いた瞬間、ホールの空気がどこか「決定」の匂いを帯びた。



「じゃあ、約束を形にしよう」


 葛城詩織がホワイトボードの横に、別のボードを立てた。


「口だけじゃなくて、ちゃんと文字にして、全員のサインを残す。後から『聞いてない』とか『そんなつもりじゃなかった』とか言わせないように」


 ホワイトボードには、泉が提案した三つの条件が丁寧な字で書かれていく。


 一、選ばれた者は、地上に出たのち、可能な限り救助および物資の手配を試みること。

 二、選ばれた者に対する暴力および妨害行為を禁ずること。

 三、抽選結果に不満を残さず、やり直しを要求しないこと。


 その下に、名前を書く欄が用意された。


「上から順番に、サインしよう」


 鷹野がマーカーを持ち、最初に自分の名前を書く。

 律儀な字で「鷹野隼人」と書かれた文字が、妙に軽く見えた。


 次に蓮司、千景、海斗、黒瀬、泉、詩織、真壁、コハル……。

 一人ひとりが自分の名前を書いていく。


 凛の順番が来たとき、手が少し震えた。

 それでも、ボードに「朝霧凛」と書き込む。


 最後に、泉がマーカーを握り直した。


「……これは三浦にも見せないとね」


 静かに、空いているスペースに名前を綴る。


 三浦拓也。


 すでにこの世界にはいない名が、白いボードの上に並ぶ。


 凛は、その字面を見つめながら思った。


 ――本当に、約束を守れるのかな。


 誰も、「守れない」とは言わない。

 信じたいから。信じないと、もう立っていられないから。



 抽選は、その夜に行われることになった。


 空調の音がかすかに唸り、照明の光はさらに弱まっている。

 ホールの真ん中には古い木箱が置かれ、その周囲に円形に椅子が並べられた。


「ルールは簡単だよ」


 鷹野が箱を軽く叩きながら説明した。


「紙に全員の名前を書いて、それぞれ自分のものを折って箱に入れる。混ぜるのは全員の前で。引くのは一人だけ。やり直しはなし」


「紙は?」


「海斗が切ってくれた」


 海斗が無表情なまま、小さな紙片の束を机に置いた。


「大きさは全部同じ。折り方も、一回折りに統一したほうがいいな」


 真面目に、淡々と準備が進んでいく様子が、逆に凛には夢の中の出来事のように感じられた。


 一番手に紙を取ったのは凛だった。

 ペン先が紙の上を滑る。


 朝霧凛。


 その文字が、今夜のうちに誰かの運命を決める一枚になるかもしれない。

 そう思うと、指がこわばった。


 横を見ると、コハルが震える手でペンを握っていた。


「……わたし」


 小さく漏れた声。


「選ばれたくない」


 その言葉は、この場にいる誰もが心のどこかで思っていることだ。


 泉がコハルの肩を抱いた。


「大丈夫。こんなの、そう簡単に当たるものじゃないから」


「でも、誰かには当たるんだよ」


 コハルの目には涙が浮かんでいる。


「誰かが絶対に、『当たり』を引くんだよ……」


 凛は何も言えなかった。

 慰めの言葉は、この場ではすべて嘘になる。


 一枚また一枚と、名前の書かれた紙が箱の中に吸い込まれていく。

 黒瀬は黙ったまま、自分の紙を丁寧に折り、無言で投入した。

 真壁朔也はいつもの軽口を封じられたように、冗談一つ言わなかった。


 全員分が入ったのを確認すると、鷹野が箱を持ち上げる。


「混ぜるぞ。よく見てろよ」


 箱の中で紙片がこすれ合う音が、やけに生々しく響いた。

 鷹野は腕を大きく振って、箱を左右に揺らす。

 その様子は、どこか「楽しんでいる」ようにも見えて、凛の胸の奥に違和感を残した。


 混ぜ終えると、箱はテーブルの上に置かれた。


「じゃあ、誰が引く?」


 鷹野の問いに、一瞬、誰も動かなかった。


 泉が慎重に言葉を選ぶ。


「疑われにくい人がいいと思う。抽選役が怪しまれたら、それこそ公平じゃなくなる」


「じゃあ……コハルは?」


 千景の視線が自然と最年少の少女に向かう。


「ちょっと待って、それって……」


 凛が抗議しかけたが、コハル自身が小さく手を上げた。


「いいよ。あたし、やる」


 涙の跡が残る顔で、彼女は弱々しく笑ってみせる。


「どうせ、誰が引いても結果は同じなんでしょ。だったら、あたしがやる」


 その覚悟に、誰も反対できなかった。



 小さな手が箱の中に差し込まれる。

 紙と紙の感触を確かめるように、ゆっくりと混ぜる。


 ホールの時間が止まったようだった。

 呼吸の音さえ、邪魔に感じる。


 コハルの指が一枚の紙片をつまみ上げる。

 それをゆっくりと取り出し、震える指で開いていく。


 誰も瞬きしなかった。


 紙に記された文字を見た瞬間、コハルの顔から血の気が引いた。


「……東雲、海斗」


 かすれた声が、はっきりと名前を告げた。


 ホールがざわめく。


「海斗……?」


「マジかよ……」


 視線が一斉に海斗へと突き刺さる。


 システムに最も詳しい男。

 この地下の仕組みを一番理解している人間が、地上行きの“当たり”を引いた。


 合理的だ、と頭のどこかで誰かが思う。

 同時に、最大の情報を持つ者がいなくなるという、別の恐怖も湧き上がる。


 鷹野が口角を上げた。


「よかったじゃないか。君なら外に出ても生き残れる。ここの状況を一番分かってるのは、君なんだから」


 肩を軽く叩く。

 しかしその目は、笑っていなかった。

 凛には、底の見えない色に見えた。


 海斗は紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……確認したいことが山ほどあるんだけど」


 ようやく絞り出した声は、乾いていた。


「まず、本当にE-01が“地上”につながっているのか。それを確かめる前に『おめでとう』なんて言われても、全然嬉しくない」


「もちろん、事前の調査はする」


 蓮司が言う。


「放射線量、空気の成分、気圧……できる限りのことを調べてからだ。それでも何があるか分からないのは同じだが」


「ねえ、本当にこれでよかったの?」


 凛の声が漏れた。


「海斗がいなくなったら、システムのこと、誰が……」


「約束しただろ」


 鷹野が遮る。


「選ばれた人に、後から文句を言わないって。公平なくじだ。結果に不満を残さない。それが俺たちの“条件”だ」


 その言い方が、どこか責めるように聞こえた。

 凛は歯を食いしばる。


 海斗は凛と視線を合わせ、かすかに笑った。


「大丈夫。僕が出たほうが、まだマシだと思う。少なくとも、外の状況を解析する頭はあるつもりだから」


「でも……」


「凛」


 名前を呼ばれ、言葉が詰まった。


「さっきサインしたろ。僕もした。約束は守る。外に出たら、可能な限りのことをする。ここに戻れるかどうかは分からないけど……試す価値はある」


 それは、覚悟の表情だった。

 怖くないはずがないのに、彼はそれを表に出さなかった。



 抽選が終わり、皆がそれぞれの部屋に引き上げていく。

 ホールには、凛だけが残った。


 テーブルの上には、先ほどまで抽選で使っていた木箱がぽつんと置かれている。

 ふとした視線の動きで、箱の底に何かが貼り付いているのが見えた。


「……?」


 近づいて、覗き込む。


 箱の内側の片隅に、小さな紙片が一枚、ぴたりとくっついていた。

 折り目のつき方が、他のものとわずかに違う。


 指先でそっとはがす。

 乾いた音と共に、紙片が剥がれた。


 胸の鼓動が早くなる。

 凛は唾を飲み込み、紙を広げた。


 そこには、はっきりとした字で名前が書かれていた。


 真壁朔也。


 息が止まった。


 本来、箱の中に入っているはずだった名前。

 それが、底に貼り付いたまま取り残されていた。


 つまり――。


 凛は頭の中で組み立てる。


 もしこの紙も他の紙と同じように箱の中で混ざっていたなら、さっきコハルが引き上げた紙が「真壁朔也」だった可能性は、十分にある。


 朔也が“当たるはず”だったのに、何らかの理由でその紙だけが機能しなかった。

 その結果、「東雲海斗」という別の名前が選ばれた。


 では、なぜこの紙だけが底に貼り付いていたのか。


 誰かが、意図的に。


 凛は震える指で紙を握りしめた。



「お、おい凛。どうしたんだよ、そんな顔して」


 背後から聞き慣れた声がした。


 振り向くと、真壁朔也が給食室の入り口に立っていた。

 普段より少しだけ顔色が悪い。

 それでも無理に笑おうとしているのが見えた。


「朔也……」


 凛は言葉を選べなかった。


「さっき、戻ってきたらさ。みんな、すげえ空気で。俺、何かやらかしたかなって不安で、つい……。ここなら凛がいるかなって思って」


 その笑いは、いつもの軽さとは違う。

 どこか怯えが混ざっている。


 手の中の紙が汗で湿っていく。

 この名前を見せてしまえば、何かが決定的に変わってしまう。


「朔也」


 凛は、意を決して口を開いた。


「抽選の前に、箱を持って歩いたの、誰だっけ」


「え?」


 一瞬、朔也の表情が固まる。


「いや、俺じゃなくて……ああ、箱をホールまで運んだのは鷹野だよ。俺はそのあと、椅子並べてただけ」


 凛の胸に、冷たいものが落ちた。


 箱を手にしていたのは、鷹野。

 皆の目から少し外れたタイミングで、箱と一対一になれた人物。


 そこに何かをした可能性を、否定できない。


「朔也は……何もしてないの?」


「何もって、何を」


「抽選に、手を加えたり……自分の名前を抜いたり、とか」


 言いながら、凛は自分の声が震えているのを感じた。


 朔也は目を見開き、慌てて両手を振った。


「してない! してないって。そんな度胸ねえよ、俺。そもそも、もしそんなことしたとして、なんで俺が三浦の代わりに狙われなきゃなんねえんだよ」


 言い終わって、自分でハッと口を押えた。


 凛の頭の中で、嫌な繋がりが走る。


 三浦。

 缶詰。

 事故。

 そして、抽選。


 誰かは、確実に「自分ではない誰か」を外に送り出したいと思っている。

 その「誰か」が、どこにいるのか。


「凛、本当にどうしたんだよ」


 朔也が心配そうに覗き込んでくる。


「なんか……あったのか?」


 問いかけに、凛は答えられなかった。


 この紙を見せた瞬間、何が起きるかが見えてしまったからだ。


 公平だと信じていた抽選が、実はそうではなかったかもしれない。

 その事実が皆に知られたとき、ただでさえギリギリの均衡は一気に崩れる。


 海斗が選ばれたことを「運」で納得できなくなれば、次に標的になるのは誰か。

 抽選を提案した者か。

 箱を運んだ者か。

 それとも、紙の名前の持ち主か。


 血の匂いが、想像の中で濃くなる。


「……何でもない」


 凛はようやくそれだけを絞り出した。


「ちょっと、確認したいことがあっただけ。ごめん、変なこと聞いて」


「そ、そっか。ならいいけど……」


 朔也はまだ不安そうだったが、それ以上は追及しなかった。


「何かあったらさ。ちゃんと言えよ。俺、こう見えても頼りにはならないかもしれないけど、話くらいは聞くからさ」


 その言葉に、凛の胸がチクリと痛んだ。


「……うん。ありがとう」


 朔也が去った後、凛はゆっくりと紙を折りたたんだ。

 小さく、小さく、誰にも見つからないように。


 それをポケットの奥に押し込みながら、自分に言い聞かせる。


 ――今、これを公表しても、誰も救われない。


 約束を信じたいと思ったのは、自分だ。

 くじ引きは公平で、結果には従うと決めたのも、自分だ。


 だったらせめて、その“形”だけでも守らなければ。


 そうしなければ、本当に何もかもが壊れてしまう。



 その頃、中央端末は静かに起動音を鳴らしていた。


 ホールの天井に埋め込まれたマイクが、先ほどの会議の音声を取り込んでいる。

 約束の言葉。

 抽選の説明。

 結果に不満を残さないと誓った一人ひとりの声。


 それらは圧縮され、システムの奥深くに格納される。


 新しく生成されたファイル名が、冷たいフォントで表示された。


 PROMISE_DRAW_01


 システムは知っている。

 約束は、破られるために存在することを。


 人間たちが、この夜交わした誓いを、いつ、どのような形で踏みにじるのか。

 それを観測することこそが、自身の役割であるかのように。


 端末の画面は、何事もなかったかのように暗転した。

 ただ、ログの奥底で、新しいファイルだけがひっそりと息を潜めている。


 抽選の夜は、静かに終わりを告げた。


 だがその静けさは、嵐の前のそれに限りなく近いことを、凛はまだ知らない。

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