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第3話「盗まれた缶詰」

 朝霧凛が給食室へ向かったとき、すでに嫌な胸騒ぎがあった。

 照明は昨夜よりさらに弱まっており、廊下の天井に埋め込まれたライトはまるで息切れした生き物のように明滅している。

 湿った空気は重く、床の金属板には薄い結露が滲んでいた。


 給食室の扉を開いた瞬間、その胸騒ぎが的中した。


「あれ……?」


 備蓄棚の一角。

 缶詰が整理されて並んでいるはずの列に、ぽっかりと空白ができていた。

 まるで一個だけ、乱暴に引き抜かれたように。


「……嘘だよね?」


 凛の呟きに、背後でため息が落ちた。


「やっぱり、気づくよな」


 東雲海斗だった。

 彼は手に持ったタブレットを凛に向ける。


「物資管理ログでは、まだ在庫は減っていないことになってる。でも現物は……これだ」


「誰かが……夜中に?」


 言いかけたとき、給食室に三浦がふらりと入ってきた。


「おい、どうした。そんな怖い顔して」


「缶詰が一個、なくなってるの」


 凛が言うと、三浦はすぐさま両手を上げた。


「ちょっと待て、俺じゃない。マジで」


 あまりの早さに凛は驚いた。

 否定は自然なことなのに、なぜこんなに早口なのだろう。

 彼の額に浮かんだ汗が、照明の薄光ににじんでいた。


「落ち着けよ三浦。誰もお前を疑ってるわけじゃない」


 黒瀬獅子雄が低い声で言ったが、その目は明らかに警戒の色を帯びていた。


「いや、なんか疑われてるみたいで……」


 三浦が口ごもると、空気が急に硬くなる。


 海斗が監視カメラの映像を呼び出そうとした。


「じゃあ、この時間帯のログを確認すれば……」


 だがその瞬間、モニターがざざっと乱れ、

 次いで、真っ黒な画面が映し出される。


「機器エラー?」


 海斗の眉が跳ね上がった。


「待って、昨日の深夜一時から三時までの映像が、全部これ……?」


 凛が画面を見て息を呑む。


 深夜――

 みんなが寝ているはずの時間帯。

 その間の監視映像だけが、“なかった”。


「誰かがカメラを切ったってこと?」


 三浦が言う。


 海斗は首を振る。


「いや、外部からの操作はできない。できるのは……」


「内部のシステムだけ、ってこと?」


 凛が続けると、海斗はゆっくりうなずいた。


 このシェルターは“自律制御”を掲げていた。

 だがその実態が、今になって凶器のように迫ってくる。


 ◆


 午前のミーティングは最悪の雰囲気で始まった。


 鷹野隼人が前に立ち、できるだけ穏やかな声を出す。


「犯人探しはやめよう。缶詰はただの一個だ。誰かの勘違いの可能性もあるし……」


「いや、勘違いじゃない」


 蓮司が言い切った。

 彼の手には在庫チェック表が握られている。


「昨日確かに数えた。間違いはない」


「こう見えて蓮司くん、数字には厳しいんだから」


 千景が苦笑気味に言うが、その表情は硬いままだ。


 黒瀬が椅子に座ったまま、重々しく言い放つ。


「腹が減ると、判断が狂う。今のうちに白黒つけておかないと、後でもっと酷くなる」


「待ってよ、それって……疑ってる、ってこと?」


 コハルが不安げに黒瀬を見る。


「疑ってるわけじゃない。ただ、“疑われる状況ができた”って話だ」


 黒瀬の言葉の刃は鋭い。

 その場の空気をさらに裂いた。


 葛城詩織はノートを開いて、皆の様子をじっと観察していた。

 誰がどう反応しているか、言葉のタイミング、視線の動き。

 その眼差しは記者のようで、どこか冷静だ。


「誰が何を言うかじゃなくて、“言いよどむ瞬間”を見てるんだよ」


 凛はその視線が怖いと思った。


 ◆


 やがて「全員の所持品検査」が議題に上がった。


「そんな大げさなことしなくても……」


 凛が言いかけたが、鷹野が首を横に振った。


「全員が“平等”だってことを示すためだよ。誰も特別扱いしない」


 泉が手を挙げる。


「でも、コハルまで調べる必要ある? この子が盗むわけ……」


「全員同じ条件で、って話だろ」


 黒瀬の言葉に、泉は言葉を詰まらせた。


 凛は、コハルがポケットを調べられているのを見て胸が痛んだ。


 ――なんでこんなことになってるんだろう。


 缶詰は結局どこからも見つからなかった。


 疑いだけが、濁った空気のように残った。


 ◆


 その夜。

 給食室の片隅で、事件が起きた。


「うわっ!」


 油の飛び散るような音と共に、鈍い衝突音が響いた。


 凛が駆けつけると、三浦が仰向けに倒れていた。

 頭部から血がにじみ、目は虚ろに揺れている。


「三浦! しっかりして!」


 叫びながら凛が抱き起こすと、彼の手が弱く震えた。

 床には薄く油がこぼれており、その中央に三浦の足跡が滑ったように残っている。


 ――こんな場所に、油なんてあった?


 千景と真琴が駆けつけ、応急処置を始めたが、三浦の呼吸は弱まるばかりだった。


 千景が唇を噛む。


「頭を強く打ってる……設備が足りない……こんなの……」


 凛は声が出なかった。


 やがて、三浦の身体から力が抜けた。


「いやだ……ちょっと待って、三浦……!」


 凛の呼びかけは、もう届かなかった。


 ◆


 全員が給食室に集まった。


 黒瀬は腕を組み、言い切るように言った。


「これは事故だ。油がこぼれていた。三浦は足を滑らせた」


 泉が震える声で返す。


「でも……こんな偶然、ありえない。誰かが……」


 凛は昼のミーティングを思い出していた。

 三浦はあのとき、


「本当に盗んだやつ、出てこいよ!」


 そう怒鳴っていた。


 もしそれが“誰か”の逆鱗に触れたのだとしたら?


 頭の中で嫌な想像が形を成す。


 ――口封じ。


 だがその言葉を凛は口にできなかった。


 代わりに、中央端末が冷たい電子音を鳴らす。


 画面に新しいメッセージが現れる。


「人数:12/13

 シェルター維持条件の一部切り捨てを実行します。

 空調出力を10%低下。」


 空気の流れが、肌にわかるほど弱まる。


「……人数が減ると、“維持条件が切り捨てられる”?」


 誰かが小さく呟いた。


「それってさ……」


 凛の横でコハルが震える。


「もし、選ばれなくても……ひとりずつ死んでいけば……最後に残った人が、そのまま“地上行き”になるってこと?」


 空気が凍りついた。


 その考えは残酷すぎる。

 だが、否定できなかった。


 凛は背筋が冷えるのを感じた。


 二日前に交わした約束――

「暴力は使わない」


 その約束を誰も思い出そうとしない。

 けれどもう誰も、口にはしない。


 破られたという認識すら、持とうとしない。


 ただ一つだけ、暗闇の中にはっきりと浮かんだ。


 ――システムは、“人数が減ること”を前進だと考えている。


 その夜、凛は自室の薄暗い壁にもたれ、震える唇を噛んだ。


 生き残るための戦いが、もう始まってしまっているのだと。


 誰もが、まだ認めていないだけで。

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