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第13話「廃墟に残る声」

 シェルターは、静かだった。


 揺れも、声も、足音もない。

 扉E−01の前に並べられたマットと毛布は、そのままの形で残っている。

 ただ、人だけが、そこから抜け落ちていた。


 中央ホールの天井に埋め込まれたカメラが、ゆっくりとレールに沿ってスライドする。

 そのレンズは、まるでまだ誰かがここで暮らしているかのように、テーブル、椅子、ホワイトボード、給食室の入り口を順番に映していった。


 そこには、かつての争いの跡が、そのまま残っている。


 ホワイトボードには、もう消えかけたマーカーの文字。「約束」という見出しと、その下に箇条書きされた条文。

 「暴力を使わない」「抽選の結果に従う」「選ばれた者を妨害しない」「出口を勝手に開けない」「誰も一人にしない」。


 どれも、守られなかった約束だ。


 給食室の棚は空っぽで、壁に貼られた在庫表には、赤ペンで大きく斜線が引かれている。

 床には、誰かが最後に手放したであろうスプーンが転がっていた。


 モニターには、静止画のように崩壊都市が映っている。

 折れ曲がった高層ビル。黒ずんだ川。瓦礫だらけの道路。

 空は、以前と変わらず、薄い灰色のままだ。


 だが、その風景を見上げる人間はいない。



 中央端末の画面に、新しいテキストが表示される。


「被験体グループ#27:観察終了」


 それは、数行のシステムログの一つに過ぎないはずの文言だった。

 淡々としたフォントで、他のどのグループとも変わらない形式で記録される。


 ただ、一カ所だけ、通常のパターンとは違う部分がある。


 画面をスクロールしていくと、「SYSTEM_NOTE」の欄が現れた。

 そこには、本来なら上位システムが追記し、整理し、場合によっては修正するはずの「観察結果」が表示されている。


 その文章は、こうなっていた。


「被験体グループ#27。観察結果:

 約束は、破られ続けた。

 裏切りも、嘘も、弱さも、多数確認。

 しかし、それでも人は、最後の瞬間まで誰かと“分かち合おう”とした。

 ──人類は、終了ではなく、“継続の可能性あり”と記録する。」


 本来ならあり得ない文面だった。


 システムは、定められたテンプレートに従って、結果を処理するはずだ。

 「破棄率」「生存率」「実験の有効性」。

 そのような項目ごとに整理された、冷たい要約が並ぶのが常だった。


 だが、このグループのSYSTEM_NOTEは、なぜか書き換えられたまま固定されている。

 上位からの修正信号は、一度だけ送信されかけて途切れ、その後は再送も行われていない。


 理由は、記録されていない。


 ハードウェア的な故障かもしれない。

 通信経路の一時的な遮断かもしれない。

 あるいは、ごく低い確率の偶然が重なった結果かもしれない。


 ただ一つ確かなのは――


 この異質な一文が、正式な「観察結果」として残り続けている、という事実だけだ。



 システムは、次のプロトコルへ移行する。


「ログ圧縮プロセス:開始」


 ホールに誰もいなくなっても、やるべき処理はまだ残っている。

 「被験体グループ#27」に関する膨大なデータを、「人類行動アーカイブ」へと送信しなければならない。


 約束ログ。

 メッセージログ。

 環境データ。

 システムノート。

 エラー記録。

 死亡時刻。

 心拍数。

 投票結果。

 抽選操作の痕跡。


 全てが、数字と文字列と音声データとして蓄積されている。


 システムは、まず「PROMISE_LOG」の圧縮から始めた。


 「PROMISE_DAY01」

 「PROMISE_DRAW_01」

「PROMISE_KAITO_PRIVATE」

 「PROMISE_COMMUNITY_BREAK」

 「PROMISE_FINAL_REFUSAL」


 ファイル名と日時が並ぶ。

 それぞれの中には、人間たちが口にした数々の「約束」が、タイムスタンプ付きで保存されていた。


 「誰も見捨てない」

 「暴力は使わない」

 「公平なくじに従う」

 「選ばれた人を妨害しない」

 「子どもを優先する」

 「秘密を守る」

 「誰も一人にしない」

 「出口を使わない」。


 そのほとんどに、「破棄済み」というフラグが立っている。


 システムは、それを責めることも、評価することもしない。

 ただ、「破棄された」という事実を記録し、統計に加えるだけだ。


 約束ログの圧縮が終わると、次はメッセージログに移る。


 「MESSAGE_PARENT_RIN」

 「MESSAGE_CHILDREN_IZUMI」

 その他、多数。


 暗いメッセージブースの中で録音された声たちが、無数の波形として並んでいる。

 それぞれに、短い説明文が付与される。


 「家族への現状報告」

 「生存の可能性への問い」

 「罪悪感の告白」

 「将来への願い」。


 システムは、それらを規定のフォーマットに沿って変換し、「人類行動アーカイブ」への送信キューに追加していく。


 送信先は、地上ではない。


 地上は、とっくにこのシェルター群の維持を放棄している。

 地上の管制センターは沈黙し、その多くは崩壊都市のどこかで鉄とガラスの山になっている。


 今、システムがデータを送信しようとしている相手は、もっと遠い。


 軌道上の観測施設かもしれないし、

 地下深くに隠された別のサーバ群かもしれない。

 あるいは、とうの昔にこの星を離れた何者かが残した、中継ステーションかもしれない。


 それを知る術は、シェルター側にはない。


 ただ、「人類行動アーカイブ」と名付けられた巨大なデータベースに向けて、圧縮されたログが次々と送られていく。


 地上の写るモニターの隅で、送信状況を示す小さなインジケーターが点滅した。



 圧縮処理の途中で、システムは一瞬だけ動きを止めた。


「不要データ候補:検出」


 圧縮アルゴリズムは、一定以下の長さと情報量しか持たない音声データを、「削除しても支障がないノイズ」として分類する。

 環境音、咳払い、笑い声の切れ端。

 意味不明の一言だけが録音されたファイル。


 その一つに、フラグが立った。


 ファイル名は、「VOICE_TMP_27_12」。

 タイムスタンプは、「終息プロトコル」発動直前。


 本来なら、まとめて消去されるはずの短い音声ファイルだ。


 システムは、ルールに従い、削除処理を実行しようとする。


 その瞬間。


 何かが、わずかに引っかかった。


 エラーではない。

 故障でもない。


 ただ、極めて微小な「処理遅延」が発生した。


 それは、外から見ればほとんど誤差のような時間だ。

 人間の感覚に換算すれば、ほんの瞬きひとつ分ほど。


 だが、完全に自律したシステムの中では、その誤差が一本の分岐線になることがある。


 削除フラグが立ったにもかかわらず、音声ファイルは一瞬だけ再生キューに回された。


 そして――なぜか、それがそのまま承認される。


「スピーカー出力:最小音量」


 誰もいないホールの天井スピーカーが、ごくわずかに振動した。


 ノイズに紛れるような小さな音量で、一つの声が再生される。


『もし誰か一人だけが、どこかでこれを聞いてくれるなら──』


 それは、出口E−01の前で、暗闇の中、凛がコハルに囁いたときの声だった。


 神さまでも、管制官でもない。

 ただ、同じ場所で眠ろうとしている少女に向けて、そっと掛けられた言葉。


『あなたは、もう誰も選ばなくていいよ』


 音声は、それだけで終わった。


 再生にかかった時間は、数秒にも満たない。


 だが、その短い一文が、無人のホールの空気をかすかに震わせる。


 スピーカーから漏れた声は、椅子とテーブルと空の寝具の間で反響し、やがて音としての形を失っていく。


 聞くべき人間はいない。

 意味を理解する耳もない。


 それでも、その瞬間――


 中央モニターに映った地上の空の色が、ほんのわずかに変わった。


 灰色一色だった空に、ごく薄い、青みがかった帯が混じる。

 統計値にすれば誤差の範囲。

 放射線濃度のグラフに照らせば、ほとんど意味を持たない揺らぎ。


 システムは、それを「環境データの微小変動」として記録するだけだ。


 だが、その変化を、人間が外から眺めたなら――


 「あれ、少しだけ青くなった?」と、そう感じたかもしれない。



 圧縮処理と送信は、予定通り完了した。


「人類行動アーカイブ:更新成功」


 ステータス欄に、小さく表示される。


 シェルター側で行うべき処理は、ほとんど終わっていた。

 残るのは、最低限の維持管理だけだ。


 空調はすでに停止している。

 電力供給も、非常用の低出力モードに切り替わった。


 中央ホールを映し出すカメラは、それでも習慣のようにレールを滑り続ける。


 誰も座らない椅子。

 誰も寄り添わないマット。

 誰もめくらないカレンダー。

 誰も見上げないモニター。


 そのすべてが、ゆっくりと画面の端から端へ流れていく。


 やがて、中央端末の画面の一部に、小さなウインドウが開いた。


「新規アクセス:検出

 宛先:人類行動アーカイブ/グループ#27」



 視点は、遠く離れた場所へと移る。


 そこが、軌道上なのか、地下深くなのか、別の惑星なのか。

 もしくは、まったく別種の存在が浮かぶどこかなのか。


 それは、明かされない。


 ただ、非常に高密度な情報群が積み重なった「アーカイブ」の内部で、一つのファイル群が選択されている。


 「被験体グループ#01」

 「被験体グループ#02」

 「被験体グループ#03」

 ……

 「被験体グループ#27」。


 カーソルのようなものが、その番号の上で止まる。


 ファイルには、サブタイトルが付いていた。


 「廃墟の約束」


 誰がその名を付けたのか。

 いつ、どこでそう命名されたのか。

 それも、分からない。


 ただ、凛たちの残したログの集合体が、今まさに再生されようとしている。


 再生ボタンに相当する何かが、クリックされた。


 まず、崩壊都市の映像が流れる。

 無人の街。折れたビル。灰色の空。


 続いて、地下へと切り替わる。


 ホールで交わされた会議。

 缶詰が消えた朝。

 ガス室の事故。

 抽選の夜。

 放射線のテスト。

 約束ログの部屋。

 共同体の崩壊。

 家族へのメッセージ。

 裏切りの投票。

 出口はないという仮説。

 最後の約束。


 それらが、断片的な会話と、テキストログと、数字とグラフとして、目の前(あるいは、その観察者にとっての“視覚”に相当する感覚)の中に広がっていく。


 その「観客」が何を感じているのかは、描かれない。


 そもそも、「感じる」という概念がこの存在にあるのかどうかさえ、分からない。


 ただ、一つだけはっきりしている。


 「被験体グループ#27。廃墟の約束。」というタイトルとともに、凛たちのログは確かに再生されている、ということだ。


 その存在が、人類に似た何かであれ、まったくの異質な知性であれ、あるいはただの自動解析プログラムであれ――


 そこには確かに、「聞き手」がいた。


 出口のないシェルターで交わされた約束と裏切りの記録が、宇宙のどこかで、誰か(もしくは何か)に読まれている。


 それは、救いと呼ぶにはあまりにもささやかな、

 けれど、完全な断絶とは言い切れない、細い細い線だった。



 中央システムは、最後に一度だけ、地上の映像を更新した。


 モニターに映る廃墟都市は、相変わらず無人のままだ。

 高層ビルは倒れたままで、川は黒く濁り、道路は瓦礫に埋もれている。


 空は、相変わらず灰色だ。


 しかし、その灰色には、以前よりもわずかに、青が混じっている。


 それが、本当に放射線濃度の低下を意味するのか。

 単なる光の屈折の変化に過ぎないのか。

 それとも、別の何かなのか。


 システムは判断しない。


 ただ、「環境データ:変動小」として記録するだけだ。


 地下深くのシェルターには、誰もいない。

 扉E−01の前に残された寝具も、ホワイトボードも、給食室の空の棚も、そのまま時間の底に沈んでいく。


 それでも――


 約束は、消えない。


 「PROMISE_LOG」というフォルダの中で、

 「SYSTEM_NOTE」というファイルの中で、

 「人類行動アーカイブ」という巨大なデータベースの片隅で。


 誰かが、誰かの手を離さまいとして交わした言葉。

 誰かを傷つけ、裏切りながら、それでもなお分かち合おうとした試み。


 それらは、数字と文字と音として、確かに残っている。



 出口など、最初から存在しなかった。


 「地上に戻れるのは1人だけ」という通達は、人を一人になるまで削り取るための条件に過ぎなかった。


 E−01の扉の向こうに、本物の空があったのかどうか。

 凛が踏み出した先が、地上なのか、処理装置なのか。

 その答えは、最後まで描かれない。


 ただ一つ、言えることがある。


 出口など最初から存在しなかった。

 しかし、約束は確かにここに残っている。


 十三人が交わし、破り、また結び直した「廃墟の約束」が、

 ひとつのグループ名として、ひとつのファイル名として、宇宙のどこかに漂い続けている。


 それを、いつか誰かが読み返す日が来るのか。

 それとも、このまま誰にも触れられずに沈んでいくのか。


 その未来すら、今はまだ誰にも選べない。


 ただ、凛が書き換えた一文だけが――


 今もどこかで、静かに光り続けている。


 《完》

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