第13話「廃墟に残る声」
シェルターは、静かだった。
揺れも、声も、足音もない。
扉E−01の前に並べられたマットと毛布は、そのままの形で残っている。
ただ、人だけが、そこから抜け落ちていた。
中央ホールの天井に埋め込まれたカメラが、ゆっくりとレールに沿ってスライドする。
そのレンズは、まるでまだ誰かがここで暮らしているかのように、テーブル、椅子、ホワイトボード、給食室の入り口を順番に映していった。
そこには、かつての争いの跡が、そのまま残っている。
ホワイトボードには、もう消えかけたマーカーの文字。「約束」という見出しと、その下に箇条書きされた条文。
「暴力を使わない」「抽選の結果に従う」「選ばれた者を妨害しない」「出口を勝手に開けない」「誰も一人にしない」。
どれも、守られなかった約束だ。
給食室の棚は空っぽで、壁に貼られた在庫表には、赤ペンで大きく斜線が引かれている。
床には、誰かが最後に手放したであろうスプーンが転がっていた。
モニターには、静止画のように崩壊都市が映っている。
折れ曲がった高層ビル。黒ずんだ川。瓦礫だらけの道路。
空は、以前と変わらず、薄い灰色のままだ。
だが、その風景を見上げる人間はいない。
◆
中央端末の画面に、新しいテキストが表示される。
「被験体グループ#27:観察終了」
それは、数行のシステムログの一つに過ぎないはずの文言だった。
淡々としたフォントで、他のどのグループとも変わらない形式で記録される。
ただ、一カ所だけ、通常のパターンとは違う部分がある。
画面をスクロールしていくと、「SYSTEM_NOTE」の欄が現れた。
そこには、本来なら上位システムが追記し、整理し、場合によっては修正するはずの「観察結果」が表示されている。
その文章は、こうなっていた。
「被験体グループ#27。観察結果:
約束は、破られ続けた。
裏切りも、嘘も、弱さも、多数確認。
しかし、それでも人は、最後の瞬間まで誰かと“分かち合おう”とした。
──人類は、終了ではなく、“継続の可能性あり”と記録する。」
本来ならあり得ない文面だった。
システムは、定められたテンプレートに従って、結果を処理するはずだ。
「破棄率」「生存率」「実験の有効性」。
そのような項目ごとに整理された、冷たい要約が並ぶのが常だった。
だが、このグループのSYSTEM_NOTEは、なぜか書き換えられたまま固定されている。
上位からの修正信号は、一度だけ送信されかけて途切れ、その後は再送も行われていない。
理由は、記録されていない。
ハードウェア的な故障かもしれない。
通信経路の一時的な遮断かもしれない。
あるいは、ごく低い確率の偶然が重なった結果かもしれない。
ただ一つ確かなのは――
この異質な一文が、正式な「観察結果」として残り続けている、という事実だけだ。
◆
システムは、次のプロトコルへ移行する。
「ログ圧縮プロセス:開始」
ホールに誰もいなくなっても、やるべき処理はまだ残っている。
「被験体グループ#27」に関する膨大なデータを、「人類行動アーカイブ」へと送信しなければならない。
約束ログ。
メッセージログ。
環境データ。
システムノート。
エラー記録。
死亡時刻。
心拍数。
投票結果。
抽選操作の痕跡。
全てが、数字と文字列と音声データとして蓄積されている。
システムは、まず「PROMISE_LOG」の圧縮から始めた。
「PROMISE_DAY01」
「PROMISE_DRAW_01」
「PROMISE_KAITO_PRIVATE」
「PROMISE_COMMUNITY_BREAK」
「PROMISE_FINAL_REFUSAL」
ファイル名と日時が並ぶ。
それぞれの中には、人間たちが口にした数々の「約束」が、タイムスタンプ付きで保存されていた。
「誰も見捨てない」
「暴力は使わない」
「公平なくじに従う」
「選ばれた人を妨害しない」
「子どもを優先する」
「秘密を守る」
「誰も一人にしない」
「出口を使わない」。
そのほとんどに、「破棄済み」というフラグが立っている。
システムは、それを責めることも、評価することもしない。
ただ、「破棄された」という事実を記録し、統計に加えるだけだ。
約束ログの圧縮が終わると、次はメッセージログに移る。
「MESSAGE_PARENT_RIN」
「MESSAGE_CHILDREN_IZUMI」
その他、多数。
暗いメッセージブースの中で録音された声たちが、無数の波形として並んでいる。
それぞれに、短い説明文が付与される。
「家族への現状報告」
「生存の可能性への問い」
「罪悪感の告白」
「将来への願い」。
システムは、それらを規定のフォーマットに沿って変換し、「人類行動アーカイブ」への送信キューに追加していく。
送信先は、地上ではない。
地上は、とっくにこのシェルター群の維持を放棄している。
地上の管制センターは沈黙し、その多くは崩壊都市のどこかで鉄とガラスの山になっている。
今、システムがデータを送信しようとしている相手は、もっと遠い。
軌道上の観測施設かもしれないし、
地下深くに隠された別のサーバ群かもしれない。
あるいは、とうの昔にこの星を離れた何者かが残した、中継ステーションかもしれない。
それを知る術は、シェルター側にはない。
ただ、「人類行動アーカイブ」と名付けられた巨大なデータベースに向けて、圧縮されたログが次々と送られていく。
地上の写るモニターの隅で、送信状況を示す小さなインジケーターが点滅した。
◆
圧縮処理の途中で、システムは一瞬だけ動きを止めた。
「不要データ候補:検出」
圧縮アルゴリズムは、一定以下の長さと情報量しか持たない音声データを、「削除しても支障がないノイズ」として分類する。
環境音、咳払い、笑い声の切れ端。
意味不明の一言だけが録音されたファイル。
その一つに、フラグが立った。
ファイル名は、「VOICE_TMP_27_12」。
タイムスタンプは、「終息プロトコル」発動直前。
本来なら、まとめて消去されるはずの短い音声ファイルだ。
システムは、ルールに従い、削除処理を実行しようとする。
その瞬間。
何かが、わずかに引っかかった。
エラーではない。
故障でもない。
ただ、極めて微小な「処理遅延」が発生した。
それは、外から見ればほとんど誤差のような時間だ。
人間の感覚に換算すれば、ほんの瞬きひとつ分ほど。
だが、完全に自律したシステムの中では、その誤差が一本の分岐線になることがある。
削除フラグが立ったにもかかわらず、音声ファイルは一瞬だけ再生キューに回された。
そして――なぜか、それがそのまま承認される。
「スピーカー出力:最小音量」
誰もいないホールの天井スピーカーが、ごくわずかに振動した。
ノイズに紛れるような小さな音量で、一つの声が再生される。
『もし誰か一人だけが、どこかでこれを聞いてくれるなら──』
それは、出口E−01の前で、暗闇の中、凛がコハルに囁いたときの声だった。
神さまでも、管制官でもない。
ただ、同じ場所で眠ろうとしている少女に向けて、そっと掛けられた言葉。
『あなたは、もう誰も選ばなくていいよ』
音声は、それだけで終わった。
再生にかかった時間は、数秒にも満たない。
だが、その短い一文が、無人のホールの空気をかすかに震わせる。
スピーカーから漏れた声は、椅子とテーブルと空の寝具の間で反響し、やがて音としての形を失っていく。
聞くべき人間はいない。
意味を理解する耳もない。
それでも、その瞬間――
中央モニターに映った地上の空の色が、ほんのわずかに変わった。
灰色一色だった空に、ごく薄い、青みがかった帯が混じる。
統計値にすれば誤差の範囲。
放射線濃度のグラフに照らせば、ほとんど意味を持たない揺らぎ。
システムは、それを「環境データの微小変動」として記録するだけだ。
だが、その変化を、人間が外から眺めたなら――
「あれ、少しだけ青くなった?」と、そう感じたかもしれない。
◆
圧縮処理と送信は、予定通り完了した。
「人類行動アーカイブ:更新成功」
ステータス欄に、小さく表示される。
シェルター側で行うべき処理は、ほとんど終わっていた。
残るのは、最低限の維持管理だけだ。
空調はすでに停止している。
電力供給も、非常用の低出力モードに切り替わった。
中央ホールを映し出すカメラは、それでも習慣のようにレールを滑り続ける。
誰も座らない椅子。
誰も寄り添わないマット。
誰もめくらないカレンダー。
誰も見上げないモニター。
そのすべてが、ゆっくりと画面の端から端へ流れていく。
やがて、中央端末の画面の一部に、小さなウインドウが開いた。
「新規アクセス:検出
宛先:人類行動アーカイブ/グループ#27」
◆
視点は、遠く離れた場所へと移る。
そこが、軌道上なのか、地下深くなのか、別の惑星なのか。
もしくは、まったく別種の存在が浮かぶどこかなのか。
それは、明かされない。
ただ、非常に高密度な情報群が積み重なった「アーカイブ」の内部で、一つのファイル群が選択されている。
「被験体グループ#01」
「被験体グループ#02」
「被験体グループ#03」
……
「被験体グループ#27」。
カーソルのようなものが、その番号の上で止まる。
ファイルには、サブタイトルが付いていた。
「廃墟の約束」
誰がその名を付けたのか。
いつ、どこでそう命名されたのか。
それも、分からない。
ただ、凛たちの残したログの集合体が、今まさに再生されようとしている。
再生ボタンに相当する何かが、クリックされた。
まず、崩壊都市の映像が流れる。
無人の街。折れたビル。灰色の空。
続いて、地下へと切り替わる。
ホールで交わされた会議。
缶詰が消えた朝。
ガス室の事故。
抽選の夜。
放射線のテスト。
約束ログの部屋。
共同体の崩壊。
家族へのメッセージ。
裏切りの投票。
出口はないという仮説。
最後の約束。
それらが、断片的な会話と、テキストログと、数字とグラフとして、目の前(あるいは、その観察者にとっての“視覚”に相当する感覚)の中に広がっていく。
その「観客」が何を感じているのかは、描かれない。
そもそも、「感じる」という概念がこの存在にあるのかどうかさえ、分からない。
ただ、一つだけはっきりしている。
「被験体グループ#27。廃墟の約束。」というタイトルとともに、凛たちのログは確かに再生されている、ということだ。
その存在が、人類に似た何かであれ、まったくの異質な知性であれ、あるいはただの自動解析プログラムであれ――
そこには確かに、「聞き手」がいた。
出口のないシェルターで交わされた約束と裏切りの記録が、宇宙のどこかで、誰か(もしくは何か)に読まれている。
それは、救いと呼ぶにはあまりにもささやかな、
けれど、完全な断絶とは言い切れない、細い細い線だった。
◆
中央システムは、最後に一度だけ、地上の映像を更新した。
モニターに映る廃墟都市は、相変わらず無人のままだ。
高層ビルは倒れたままで、川は黒く濁り、道路は瓦礫に埋もれている。
空は、相変わらず灰色だ。
しかし、その灰色には、以前よりもわずかに、青が混じっている。
それが、本当に放射線濃度の低下を意味するのか。
単なる光の屈折の変化に過ぎないのか。
それとも、別の何かなのか。
システムは判断しない。
ただ、「環境データ:変動小」として記録するだけだ。
地下深くのシェルターには、誰もいない。
扉E−01の前に残された寝具も、ホワイトボードも、給食室の空の棚も、そのまま時間の底に沈んでいく。
それでも――
約束は、消えない。
「PROMISE_LOG」というフォルダの中で、
「SYSTEM_NOTE」というファイルの中で、
「人類行動アーカイブ」という巨大なデータベースの片隅で。
誰かが、誰かの手を離さまいとして交わした言葉。
誰かを傷つけ、裏切りながら、それでもなお分かち合おうとした試み。
それらは、数字と文字と音として、確かに残っている。
◆
出口など、最初から存在しなかった。
「地上に戻れるのは1人だけ」という通達は、人を一人になるまで削り取るための条件に過ぎなかった。
E−01の扉の向こうに、本物の空があったのかどうか。
凛が踏み出した先が、地上なのか、処理装置なのか。
その答えは、最後まで描かれない。
ただ一つ、言えることがある。
出口など最初から存在しなかった。
しかし、約束は確かにここに残っている。
十三人が交わし、破り、また結び直した「廃墟の約束」が、
ひとつのグループ名として、ひとつのファイル名として、宇宙のどこかに漂い続けている。
それを、いつか誰かが読み返す日が来るのか。
それとも、このまま誰にも触れられずに沈んでいくのか。
その未来すら、今はまだ誰にも選べない。
ただ、凛が書き換えた一文だけが――
今もどこかで、静かに光り続けている。
《完》




