第11話「理性の崩壊点」
空調が止まってから、何日が経ったのか。
誰も正確な日数を数えていなかった。
端末の時計はまだ動いているはずなのに、赤い非常灯の下では、時間という概念そのものが薄くなっていく。
照明がつくのは、一日のうち数時間だけ。
それ以外の時間、廊下もホールも、沈んだ赤か、完全な闇かのどちらかだった。
残っているのは、七人。
朝霧凛。真壁朔也。片倉泉。氷川千景。黒瀬獅子雄。鷹野隼人。雨宮コハル。
かつて騒がしかった食堂も、今はガラガラの椅子が目立つだけだ。
真琴も、詩織も、蓮司も、もうそこにはいない。
名前を挙げ始めればきりがない空白が、テーブルの周囲にぽっかりと口を開けていた。
凛は、その中央にうずくまるように座っていた。
目の下には、はっきりとしたクマが浮かんでいる。
眠れない。眠るのが怖くて、横になることすらできない。
目を閉じれば、死んでいった仲間たちの顔が浮かぶ。
酸素の薄い空気の中で、目だけが鮮やかな蓮司の顔が、「出口なんてない」と笑ったときの声が、耳の奥でこだまする。
出口は処理だ。
一人になるまで削るための装置だ。
その言葉が、頭の中で何度も再生される。
「……凛さん」
小さな声がして、袖が引かれた。
顔を上げると、コハルが立っていた。頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。それでも、瞳だけは不思議とまっすぐだ。
「どうしたの、コハル」
「ごはん、まだ?」
その一言に、凛の胃がきゅうっと縮んだ。
「ごはん」。
その言葉を、このシェルターで聞いたのは、いったいどれくらいぶりだろう。
食料は、とっくに尽きていた。
缶詰も、乾パンも、スープの素も。
最後は、小麦粉と水を練って焼いた、ほとんど味のない塊を、みんなで分け合って食べた。
それも、昨日で終わった。
倉庫の棚は空っぽだ。
粉ひとつ、残っていない。
それでも、誰もそのことを口にしようとしなかった。
「……今、千景さんが、何かないか探してくれてる」
凛は、苦しい嘘を口にした。
「だから、もうちょっとだけ待ってて」
「うん……」
コハルは、素直に頷いて椅子に座る。
細い腕を膝に回し、じっとホールの天井を見上げていた。
赤い光が、彼女の横顔に陰を落とす。
胃が、ぐう、と鳴る音が聞こえたのは、凛自身のものか、それともコハルのものか分からなかった。
誰も、「もう何もない」と口にしようとしない。
それを認めてしまった瞬間、自分たちがいよいよ“終わり”に近づくのだと、全員が本能的に理解しているからだ。
◆
その夜。
凛は、また眠ることができなかった。
ホールの照明は完全に落ちている。
非常灯も消え、かすかな非常用誘導灯だけが、廊下の端をぼんやりと照らしている。
シェルター全体が、巨大な肺みたいにきしんでいた。
誰かの咳。浅い呼吸。床をきしませる小さな足音。
凛は、水も入っていないマグカップを握りしめたまま、給食室の隅で膝を抱えていた。
眠ったら、二度と目を覚まさない気がする。
そんな予感が、体の芯にまとわりついて離れない。
廊下から、低い声が聞こえてきた。
「……もう限界だ」
黒瀬の声だ。
「このまま全滅するのを、じっと待ってるつもりか」
「他にどうしろって言うんだ」
応じる声は、鷹野のものだった。
「酸素も食料も尽きかけてる。出口だって、蓮司の話が本当ならただの罠かもしれない。そんな中で、“全員助かれ”なんて言えるほうがどうかしてる」
凛は息を潜め、そっと給食室の扉の隙間から廊下を覗き込んだ。
消灯中のため、二人の姿はほとんど見えない。
それでも、闇に溶けたシルエットが向かい合っている気配だけは伝わってくる。
「だからこそ、“誰か一人”に賭けるしかない」
黒瀬の声には、砂を噛むような固さがあった。
「このまま全員で腹を空かせて、眠るように死ぬなら、まだ“何かを試したほうがマシ”だ。出口が処理だろうが罠だろうが、“外”に触れた人間が、一人でもいるのといないのとでは違う」
「分かってる」
鷹野も、短く言う。
「俺だって、できるなら誰も犠牲にしたくない。でも、その“できるなら”って条件を、いつまで握りしめていられる?」
沈黙。
少ししてから、黒瀬が低く問いかけた。
「……具体的に、どうするつもりなんだ」
鷹野は、わずかに息を吸い込んだ音を立てた。
「このまま全滅するくらいなら、せめて誰か一人だけでもちゃんと食わせて、出口まで持たせる」
「“ちゃんと食わせて”、ね」
黒瀬の声色が変わる。
「何を食わせる。どこにそんな余裕が残ってる」
「言わせるなよ」
鷹野の声には、はっきりとした苛立ちと、自嘲が混じっていた。
「俺だって、口に出したくない。けど……この状況で“栄養源”って単語が何を指すかなんて、言わなくても分かるだろ」
凛の背筋が凍りついた。
栄養源。
言葉が意味を持つ前に、脳が拒絶反応を起こす。
吐き気が込み上げてきて、思わずマグカップを握る手に力が入った。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」
黒瀬の声が、低く唸る。
「そんなことをしてまで生かしたい“一人”ってのは、誰だ」
「決めてない」
鷹野は、即答しなかった。
少しの沈黙のあとで、苦しげに続ける。
「まだ、決めたくない。でも、誰にするかは、合理的に考えればある程度絞られる」
「合理的、ね」
「知識を持ってる人間。体力が残ってる人間。外に出てからも動ける人間。……そうやって条件を重ねていけば、“候補”は見えてくる」
凛の頭に、誰かの顔が浮かびかけて、全力で振り払った。
聞きたくない。
知りたくない。
でも、耳は勝手に、二人の会話にしがみついてしまう。
「“栄養源”は、どうやって決める」
黒瀬の声は氷のようだった。
「くじか? 投票か? それとも、お前の独断か?」
「……そこまで考えてない」
「考えろよ」
黒瀬が、珍しく怒鳴り声を上げた。
「“そこまで考えてない”まま口に出すな。そんな案を出すってことは、自分の中でどこかで折り合いをつけたってことなんだぞ」
「折り合いなんか、つけられるか!」
鷹野の叫びが、廊下に響いた。
「俺だってまともな人間でいたかった! “そんなことはしない”って、胸張って言えるままでいたかった! でも、もうそんなこと言ってられる状況じゃないだろ!」
言い合いはそこで途切れた。
長い沈黙が続いたあと、黒瀬が低く言う。
「……誰にも、言うな」
「分かってる」
鷹野は、かすれた声で答えた。
「これは、まだ“口に出してない案”だ。ここで止められるなら、それが一番いい。けど……どっちにしろ、時間はない」
「その時間を、これからどう使うかは……」
「分かってるよ」
足音が遠ざかっていく。
凛は、ようやく自分が息を止めていたことに気づいて、肺に酸素を流し込んだ。
薄い空気が喉を焼くように通り過ぎる。
「……最悪だ」
自分でも驚くほど小さな声で、凛は呟いた。
かつて全員が、「そんなことはしない」と断言していたライン。
人を殺さない。
裏切らない。
“そういうの”にはならない。
その線が、今、音を立てて擦り切れていく。
◆
凛は、泉と千景に全てを話した。
赤い照明の下、医療室の隅で三人は寄り合い、かすかな息を吐きながら、消えかけた声で会話を重ねる。
「……そう」
泉は、全て聞き終えると、短く息を吐いた。
「そこまで追い詰められてるってことだね」
「“追い詰められてる”って言葉で済ませていい問題じゃない」
千景は、強く言った。
「医者として、そんなことは絶対に認められない。いくら状況がどうであろうと、人を“栄養源”って呼ぶ瞬間に、私たちは完全に“人間じゃない何か”になる」
その声にも、疲労と無力感が滲んでいる。
「でも、同時に分かるの」
千景は、膝に指を食い込ませるようにして掴んだ。
「私にはもう、誰かを“生かす”手段が残ってない。薬もない。酸素もない。点滴もできない。私ができることは、“今ある命を静かに見送ること”だけ」
「千景さん……」
「医者なんて名乗る資格、もうないかもしれない」
自嘲気味な笑いがこぼれた。
「そんな中で、“生き延びるためならなんでもする”って言葉がどれだけ魅力的か、分かってしまう自分が、正直一番怖い」
泉は、ゆっくりと首を振った。
「千景さんが“怖い”って言えるうちは、大丈夫だよ」
柔らかい声だった。
「本当に戻れなくなる人は、自分のことを怖いと思わなくなる。誰かの命を、“ただの数字”としてしか見なくなる。私も昔、そうなりかけたから」
凛は、泉の横顔を見つめた。
その顔には、かつて子どもたちを守れなかった保育士としての傷と、ここでまた守れなかった者としての傷が、重なって刻まれている。
「……どうすればいいの」
凛は絞り出すように言った。
「このまま黙ってたら、本当に誰かが“栄養源”にされるかもしれない。かといって、黒瀬さんと鷹野さんを真正面から責めても、きっと……」
「きっと、『じゃあ代わりに案を出せ』って言われる」
千景が、苦く笑った。
「“綺麗事を言うな。現実を見ろ”って。実際、そう言われても仕方ない状況だと思う」
「だからと言って、“現実”の名前で何でも許されるわけじゃない」
泉の声は不思議と静かだった。
「今ここで、“人の死体をどう利用するか”って発想に進んでしまったら、それはもう“出口があるかないか”とは別の種類の崩壊だと思う。たとえ全員が死ぬとしても、そこだけは……」
「守りたい?」
凛が問うと、泉は少し笑った。
「守りたいというより、“自分が死んだあとに残るもの”がそれだったら嫌だなって感じかな」
「残るもの?」
「うん」
泉は天井を見上げる。
「もし、本当にこのシェルターがどこかで誰かに観察されてるとして。『被験体#27は最後、空腹に負けて互いを食い合いながら終わりました』ってレポートだけが残るの、すごく嫌じゃない?」
蓮司が見たログの一覧が、凛の頭に浮かんだ。
全滅。
暴動。
資源枯渇。
そのどれもに、「約束」と「破棄」の数字だけが淡々と並ぶ世界。
「……嫌だ」
凛は、はっきりと言った。
「そんなふうに終わりたくない。少なくとも、“自分たちで決めた終わり方”を選びたい」
◆
コハルは、みんなの様子がおかしいことを敏感に感じ取っていた。
その日も、凛がホールの隅でぼんやりと座っていると、彼女はそっと隣にやってきて腰を下ろした。
「ねえ、凛さん」
「なに?」
「みんな、どうして笑わなくなっちゃったの?」
凛は、言葉を失った。
かつて、このホールには拙い冗談や、くだらない言い争いの笑い声があった。
今は、誰かが咳き込む音と、空腹を紛らわせるためのため息しかない。
「……疲れてるんだと思う」
ようやく絞り出した言葉は、あまりにも薄かった。
「ずっと、怖い思いして、眠れなくて。それで、笑う力が残ってないのかも」
「凛さんも?」
「うん」
凛は、正直に頷いた。
「ごめんね。ちゃんと笑ってあげたいんだけど」
「ううん」
コハルは首を振った。
「凛さん、わたしの前で無理して笑わなくていいよ」
その言葉が、逆に胸に刺さる。
「ねえ、凛さん」
コハルは、少し間を置いてから続けた。
「地上って、本当にあるの?」
凛は、息が止まるのを感じた。
かつてなら、即答していた。
あるよ。
あるに決まってる。
私たちは、いつか絶対にそこに戻るんだ。
今、その言葉が喉まで来て、出て行く前に引き戻される。
蓮司の声が、耳の奥で響く。
出口なんてない。
一人になるための処理だ。
「……どうなんだろうね」
凛は、視線を落としたまま答えた。
「このモニターに映ってる廃墟が本当に“今の地上”なのかも分からないし。空がまだあるのか、海が残ってるのかも、誰も確かめられてない」
「あるって、言ってほしかったな」
コハルは、笑いながら言った。
「でも、嘘つかれるよりいいか」
凛は、堪えきれずに声を殺して泣いた。
コハルに見られないように、顔を背けて、喉の奥で震える音を抑え込む。
“あるよ”と言えない自分が、たまらなく情けなかった。
◆
限界は、突然ではなく、じわじわと近づいていた。
空気は薄く、頭はぼんやりとし、体は重い。
立ち上がるだけでめまいがする。
そんな中で、凛はひとつの極端な考えに行き着く。
出口を拒否する。
誰か一人のために、他の全員を切り捨てるくらいなら、いっそ――
全員で扉の前で眠ろう。
誰も送り出さない。
この実験そのものを、ここで終わらせてやる。
それは、死を選ぶ提案だった。
けれど同時に、「誰かを犠牲にして生き延びようとする未来」を、拒否する提案でもあった。
「正気じゃないって言われるだろうな」
凛は、自嘲気味に笑った。
それでも言わなければならない。
誰かが、“ここで線を引く”と言わなければ、本当に取り返しのつかないところまで転がっていく気がした。
◆
ホールに、七人が集まった。
赤い照明の下で円になり、互いの顔を見合う。
頬はこけ、唇は乾き、目だけがどこかぎらついている。
凛は、一度深く息を吸った。
「提案がある」
声が、少し震えていた。
「出口を、拒否しよう」
沈黙。
誰の表情も、すぐには変わらなかった。
「どういう意味だ」
最初に口を開いたのは、黒瀬だった。
「出口を拒否するって、具体的に何をするつもりだ」
「扉の前で、全員で眠る」
凛は、はっきりと言った。
「誰も送り出さない。誰か一人のために他の全員を切り捨てるくらいなら、全員一緒に終わる。それを“最後の約束”にする」
「自殺だな」
黒瀬は即座に断じた。
「それはもはや選択じゃない。投げ出すことだ」
「そうかもしれない」
凛は否定しない。
「でも、今提案されてる別の“選択肢”は何? “誰か一人をちゃんと食わせて、出口に送り出す”こと? そのために誰かを、栄養源って呼ぶこと?」
鷹野の肩が、わずかに震えた。
「聞いてたのか」
「たまたま」
凛は、鷹野を真っ直ぐ見た。
「たまたま聞いちゃった。でも、それを聞いて、もう黙っていられないと思った。そんな未来のために誰かを犠牲にするくらいなら、出口そのものを拒否したほうがいい」
「凛」
千景が、そっと凛の肩に手を置いた。
「それは、確かに一つの“答え”だと思う。医者としても、人としても、正直そっちのほうがまだ受け入れられる」
「私も」
泉が続いた。
「子どもたちのために、自分を空っぽにしてもいいって思うことはある。でも、“子どもたちを生かすために誰かを食べる”って発想だけは、どうしても受け入れられない」
コハルも、小さく手を挙げた。
「わたしも、凛さんのほうがいい。誰かひとりが“生き延びました、おめでとうございます”ってなっても、そんなの全然うれしくない」
「そんな“全然”なんて軽い言葉で――」
黒瀬が言いかけて、口を閉じる。
コハルの顔は真剣だった。
朔也は、ずっと俯いたままだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「俺も、凛の側に立つ」
ホールの視線が、一斉に彼に集まる。
「本当は、あの抽選のとき、俺が選ばれるはずだった」
朔也は、遠くを見るような目で言った。
「箱の底に張り付いてた紙片、覚えてる? “真壁朔也”って書いてあったやつ。誰かが入れ替えたか、抜き取ったかしたんだろうけど……本来あそこで“当たり”を引くべきだったのは、俺だった」
凛は、胸が締めつけられるのを感じた。
「本当は、あのとき俺が行くべきだったのかもしれない。でも、行かなかった。行けなかった。怖かった。だから、ずっとどこかで“代わりに誰かを行かせる”ことで、自分を誤魔化してきた」
朔也は、ゆっくりと凛を見る。
「最後くらい、ちゃんと約束を守りたい。“自分だけ逃げない”って約束を。凛が扉の前で寝るって言うなら、俺も一緒に寝る」
「……馬鹿だな」
黒瀬が、低く呟いた。
「お前も凛も、揃いも揃って救いようがない」
「そうかもね」
凛は、苦笑いを浮かべた。
「でも、ここまで来て“誰かを食べてまで生き延びました”って物語の中に自分の名前を残したくない。蓮司だってきっと、それを見たら“笑うに笑えない”って顔すると思う」
鷹野は、頭を抱えるようにしてうずくまった。
「お前たち、分かってるのか……それを選ぶってことは、“外がどうなってるか確かめる機会”を完全に捨てるってことだぞ? 蓮司の言葉が全部正しいとは限らない。出口が本物の“地上”に繋がってる可能性だって、ゼロじゃないんだぞ!」
「ゼロじゃない可能性のために、“誰かを食う覚悟”を迫られてる時点で、何かがおかしいんだよ」
千景の声が、珍しく荒くなった。
「その“可能性”は、あまりにも高くつきすぎる」
黒瀬は、しばらく目を閉じていた。
やがて、深く息を吐く。
「……俺は、出口に賭けたい派だ」
静かな宣言だった。
「ここまで来て“何もしないで終わる”のは、俺にとっては一番耐えられない選択だ。最後の最後まで足掻いて、誰か一人でも外に触れさせたい。たとえそれが罠でも、偽物でも、“触れようとした”という事実だけは残る」
「じゃあ……」
凛の喉が、乾いた音を立てる。
「黒瀬さんは、“栄養源”の案を本当に受け入れるつもり?」
「いいや」
黒瀬は首を振った。
「あれは最後の最期、それこそ意識が朦朧として選択も何もできなくなったときに自然発生する“狂気”だ。冷静な頭で“やろう”と決めることじゃない」
「だったら、一緒に扉の前で――」
「そこまでも飲めない」
黒瀬は、きっぱりと言った。
「俺は、俺の理性をここで終わらせたくない。“出口に賭け続けたバカ”として終わる。お前らみたいに、“みんなで終わる約束”に逃げ込むつもりはない」
その言い方に、凛は一瞬、怒りか何かに似た感情を覚えたが、飲み込んだ。
逃げ込む。
そう見えるのかもしれない。
実際、自分でもその一面があると分かっている。
「……分かった」
凛は、静かに頷いた。
「黒瀬さんと鷹野さんは、出口に賭け続ければいい。私たちは、“出口を拒否する”側に立つ。それぞれが、自分の理性の終わらせ方を選ぶ」
「分かれてどうする」
鷹野が、顔も上げないまま問う。
「ここまできて、また“二つの派閥”に分かれて、何か変わるのか」
「変わるよ」
凛は、はっきりと言った。
「私は、もう“誰かを栄養源と呼ぶ案”を飲まないって宣言した。それに賛同する人もいる。黒瀬さんたちは“出口に賭け続ける”って宣言した。それぞれが、自分の選択をログに残す。それは、少なくとも“あいまいなまま流されて終わる”よりはマシだと思う」
◆
結局、残存メンバーはこう別れた。
「出口拒否派」──凛、朔也、泉、千景、コハル。
「出口継続派」──黒瀬、鷹野。
しかし、物理的に別々に暮らせるほどのスペースも、残された体力もない。
彼らは同じホールで眠り、同じ廊下を歩きながら、ただ「どちらの終わり方を選ぶか」という心の位置だけが違っていた。
やがて、凛はホール中央のモニターの前に立った。
端末のマイクは、まだ生きている。
「システム」
凛は、天井に向かって声を上げた。
「聞こえる?」
返事はない。
それでも構わず、続ける。
「聞こえてなくてもいい。ログにさえ残れば」
かすかなノイズだけが返ってくる。
「宣言します」
凛は、乾いた唇を舐めて、はっきりと言った。
「私たちは、出口を使わない。誰か一人を生かすために、他の全員を切り捨てる実験に、これ以上協力しない。扉の前で、全員で眠る。それを、最後の約束にする」
言葉が、赤いホールに静かに広がっていく。
泉も、千景も、コハルも、朔也も、それぞれの位置から小さく頷いた。
「同意します」
泉が言う。
「医者として、被験体としてじゃなく、ここで生きてきた一人の人間として」
「私も」
千景が続ける。
「“治療する手段がないなら、せめて死に方くらい選びたい”」
「わたしも」
コハルが、小さな声で。
「だれか一人だけ助かる話より、みんなでいっしょに眠る話のほうが、まだ少しだけいいです」
「俺も」
朔也が、頭をかきながら笑う。
「最後くらい、ちゃんと約束を守りたいから」
黒瀬と鷹野は、口を閉ざしたままだった。
それでも、その沈黙すら、端末のマイクは拾ったはずだ。
ホールの空気が、かすかに振動する。
中央端末は、凛たちの声を淡々と録音し、ファイルとして保存する。
ファイル名:PROMISE_FINAL_REFUSAL
タグ:
「被験体による出口プロトコル拒否宣言」
「実験条件からの逸脱試行」
「集団的自死の選好傾向」
画面には何も表示されない。
ただ、システムの内部で、今まで一度も使用されたことのない別のプロトコルが、静かに起動準備を始めていた。
EXIT_PROTOCOL:待機中
OVERRIDE_PROTOCOL:準備中
“出口”を拒否した被験体に対して、システムがどのような“代替処理”を行うのか。
それは、まだ誰にも知られていない。
凛たちは、そのことを知らないまま、ホールの奥に見えるE−01の重い扉を見つめていた。
その向こうに何があるのか。
本当に“地上”があるのか。
それとも、蓮司が言ったとおりの“処理”だけが待っているのか。
答えは分からない。
ただ一つだけはっきりしているのは――
彼らが今ここで交わした「誰も出口を使わない」という約束もまた、約束ログの一つとして、冷たいファイル名と共に積み重なっていくということだった。
理性が崩壊していく中で、それでも最後に選び取った一筋の線。
その線が、祝福か呪いかすら分からないまま、廃墟シェルターの夜は静かに更けていく。




