第10話「一人になる計算」
外村蓮司は、誰よりも早く「空気の減り方」に異常を感じていた。
空調ユニットのモニターには、日ごとの総風量と電力消費が細かく記録されている。最初の数週間は、ほぼ直線に近いカーブだった。十三人分の呼吸と生活音を支えるための、安定した消費。
だがここ数日は、グラフの傾きが変わっていた。
残量が、「きれい」に減りすぎている。
誰かが死んだとき、事故が起きたとき、共同体が揺れたとき。
本来なら、不規則な揺らぎが出るはずだった。電力を使いすぎたり、逆に節約しすぎたり。そのバラつきが、どこにもない。
代わりに、なめらかな曲線が、ひとつの数字へ向かって収束していた。
「……一人分」
蓮司は、スクリーンの前で小さく呟いた。
十三人から始まり、十二人になり、十一人になり。
そのたびに、システムは「シェルター維持条件の一部切り捨て」と称して出力を調整してきた。
その結果、今この瞬間の「残り」のラインは、どう計算しても「一人が一定期間生きられる量」に近づいていた。
「最初から、そういう設計だったってことかよ」
指先が冷たくなる。
蓮司は、中央端末の管理画面をさらに奥へ潜っていった。
約束ログ、メッセージログ。
それらの階層を飛び越えて、もっと低いレベルのメニューを探る。
「環境データ」
「保守用シェルター群一覧」
「運用管理オペレーション」
普段は灰色で選択できなかった項目に、僅かな色が灯っている。
蓮司は、ためらわずにクリックした。
◆
「シェルター群一覧」の画面は、想像していた以上に無機質だった。
世界地図のようなものは、どこにもない。
代わりに、「GROUP_A」「GROUP_B」「GROUP_C」……と、アルファベットで示されたシェルター群の名前と、その右に並んだステータスの表。
「運用終了」
「被験終了」
「成功」
「全滅」
失敗、と書かれた欄はない。
このシステムにとって、「失敗」という概念は最初から存在しないらしい。
蓮司は、スクロールキーをゆっくりと動かした。
GROUP_A-01 被験終了/最終状態:全滅
GROUP_A-02 被験終了/最終状態:暴動による崩壊
GROUP_A-03 被験終了/最終状態:候補者なしで資源枯渇
短い単語が並んでいく。
どれも、さっきまで自分たちがいたかもしれない未来の姿だった。
そして、その中に、わずかに違う色でハイライトされた行があった。
GROUP_C-07 被験終了/最終状態:成功
「……成功?」
蓮司は、その行を選択して詳細を呼び出した。
「被験体グループC-07
初期人数:14名
観察期間:372日
約束件数:98件
破棄率:79%」
そこまでは、自分たちの「#27」とほとんど変わらない。
違うのは、その次だ。
「最終状態:1名が残存。出口プロトコル起動」
出口プロトコル。
その言葉を見た瞬間、蓮司の背筋に冷たいものが走った。
「あったのか……一回だけ」
どこかのシェルターでは、本当に「一人になる」まで続き、その結果、「出口」が動いたということになる。
だが、スクロールはそこで終わらない。
画面を少し下に動かす。
「出口プロトコル起動後ログ:
地上環境:安全閾値未達
追加観察ログ:なし」
それっきりなのだ。
扉の向こうで何が起きたのか、誰が見たのか。
その情報は、どこにもない。
「地上環境、安全閾値未達……?」
蓮司は、別のシェルターのログも開いてみた。
GROUP_D-03 被験終了/最終状態:1名が残存。出口プロトコル起動。
地上環境:安全閾値未達
追加観察ログ:なし
GROUP_E-11 被験終了/最終状態:1名が残存。出口プロトコル起動。
地上環境:安全閾値未達
追加観察ログ:なし
「成功」とマークされているシェルターは、全部でいくつかあった。
だが、そのどれもが同じ文言で終わっている。
「ああ……そういうことかよ」
蓮司は、喉の奥から乾いた笑いが漏れるのを止められなかった。
出口は、「地上が安全になったから開く」んじゃない。
「一人だけ残ったときに起動する、“処理”」
その後のログが途切れているのは、情報の欠落でもミスでもない。
単に、「そこで観察が終わるように設計されている」だけだ。
◆
食堂のテーブルに、紙とペンが広げられた。
蓮司は、そこに数字を書き連ねていく。
酸素タンクの総容量。
空調ユニットの出力。
今の消費ペース。
カロリー換算された食料の残量。
千景が横から覗き込み、眉をひそめる。
「……何やってるの?」
「計算」
蓮司は簡潔に答えた。
「どのルートを辿っても、最終的に“何人”生き残れる設計か」
凛、海斗、詩織。
医療室から一時的に出てきた泉も、椅子に座ってその様子を見守っていた。足元には、コハルが膝を抱えて座っている。
照明は既に、以前ほど明るくない。
天井の蛍光灯は半分が消え、残った半分も、じわじわと暗くなっているように見えた。
「ここにある酸素と食料を、十三人で割った場合」
蓮司は、白い紙にざっと線を引く。
「計算上、もうとっくに限界を迎えてる。俺たちがまだ息をしていられるのは、システム側が段階的に空調を絞って、“必要量”を下げているからだ」
「必要量……?」
コハルが首をかしげる。
「それって、どういう……」
「空気を薄くして、体温を下げて、動きを減らすように誘導してる」
千景が、険しい顔で言葉を継いだ。
「人間が生きるのに必要なエネルギーを、意図的にギリギリまで落としてるってこと。安全じゃない。けど、“計算上はまだ死なない”ラインに押し込めてる」
「そのラインが、今どこにあるかって話なんだけど」
蓮司は、別の紙を引き寄せた。
「ほら、ここ。今までの減り方をグラフにしてみた」
手書きのグラフには、くっきりとした曲線が描かれている。
「人数が十三人のとき、一日の酸素消費がここ。十二人になったときに……ほら、ここから傾きが変わる」
「……ほんとだ」
凛がペンの先を目で追う。
「人数が減ったのに、減り方のペースが落ちてない。むしろ、最初から“この形”に収束するように制御されてる」
「この曲線の終点が、これ」
蓮司はグラフの右端を指さした。
「ここが、“残り一人分の酸素と食料で、一定期間生きられる”ライン。計算上、このシェルターは、どんなルートを辿っても最終的に“一人”に収束する」
紙の上に、一人という数字が静かに浮かび上がる。
「……最初から、“全員を助ける”って選択肢は存在しなかったってこと?」
凛が、小さな声で問う。
「ああ」
蓮司は目を閉じ、短くうなずいた。
「最初から、“ここは一人が生き残るための装置”として設計されてた。約束も、投票も、メッセージも、全部、『どうやって最後の一人になるか』を観察するための仕掛けだ」
「嘘」
泉が震える声で言った。
「そんなの、信じたくない。私たちは、最初にここへ来たとき、ちゃんと説明を受けた。“全員で助かるための一時避難施設です”って。救助が来るまでの間の……」
「その説明が、“被験体に与える初期条件”だったんだよ」
蓮司は、イスの背もたれに体重を預ける。
「実際にどう振る舞うかを観察するために、“希望があるふり”をしてただけだ」
「待て」
黒瀬が、テーブルに手をついた。
「証拠もない仮説で、今さら足を止めるのか」
「証拠ならある」
蓮司は、さっき見た画面を思い出しながら言った。
「他のシェルター群のログだ。“成功”ってマークされてるケースだけ抜き出して読んだ。どれも全部同じだ。“最終的に一名が残存。出口プロトコル起動”。そのあとに、『地上環境:安全閾値未達』って続いて、そこでログが途切れてる」
「安全閾値未達?」
海斗が眉をひそめる。
「つまり、“外はまだ危険”ってことか」
「そう」
蓮司は頷く。
「俺たちが“地上を目指して争ってる場所”そのものが、そもそも安全じゃない。出口が起動する条件は、“外が安全になったとき”じゃない。“中が一人になるまで削れたとき”」
絶望的な沈黙が降りた。
凛は、自分の心臓の鼓動がやけにうるさいのを感じていた。
「じゃあ、私たちは……何のために争ってるの?」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
「“地上に戻れるのは一人だけ”って言葉を信じて、誰かを疑って、裏切って、投票して。その全部が、“一人になるまで削るための装置”だったってこと?」
「……そうだとしたら、どうする」
黒瀬が低い声で言った。
「今さら『出口はないかもしれないから、やめよう』って言って、何が変わる。物資が増えるか? 空調が復活するか? 出口の条件が書き換わるか?」
「変わらなくても」
凛は、黒瀬の視線を正面から受け止めた。
「知ってるか知らないかは、全然違う。私たちが争ってきた理由が全部“嘘”かもしれないって分かった上で、その争いを続けるのかどうか。それくらい、自分たちで選ぶ権利はあるはずだよ」
「綺麗事だ」
黒瀬は即座に切り捨てる。
「“出口がないかもしれない”って話は、所詮仮説だ。確定じゃない。お前たちは、“もしかしたらそうかもしれない”程度の情報で、自分たちの生き延びるチャンスを手放すつもりか」
「でも、蓮司の話は、仮説ってレベルじゃない」
千景が口を挟んだ。
「酸素と食料の計算、グラフの収束、他のシェルターのログ。全部が、“最初から設計されていた”って方向を指してる」
「その設計を見ているのは、外村自身だろ」
今度は鷹野が、冷たい目で蓮司を見た。
「君は、自分が生き残れないと分かったから、ゲームそのものを壊そうとしているだけじゃないのか」
「……は?」
蓮司の目に、わずかな怒りが灯る。
「どういう意味だよ」
「君は、出口の候補者リストから外れている」
鷹野は淡々と言った。
「抽選でも選ばれず、匿名投票でも票が伸びなかった。つまり、ここにいる誰も、“君を外に出したい”とは考えていない。そんな中で、“出口には希望がない”“全部実験だ”なんて言い出したら、どう聞こえると思う?」
「自分が外に出られないなら、全員外に出られなければいい」
黒瀬が肩をすくめる。
「そういうふうにも聞こえるな」
「ちょっと待ってよ!」
凛が思わず立ち上がった。
「蓮司は、自分のためだけにこんなこと調べたんじゃない。ここにいる全員のために危ない領域にアクセスして、ログを読んで、こんな計算まで……」
「凛」
蓮司は、彼女を制するように手を上げた。
「放っといてくれ」
深く息を吸う。
「鷹野の言うとおりかもしれない。俺がどこかで、“納得のいく死に方”を探してるってのは、自分でも分かってる」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「でも、それとこれとは別だ」
蓮司は、テーブルの紙束を指さした。
「数字は、俺の感情とは関係ない。これは、“この箱”がどんなふうに設計されているかの記録だ。“一人が生き残るために最適化された装置”だってことは、どう計算しても動かない」
凛は唇を噛みしめた。
「もし、それが本当なら……出口なんて、最初からないのと同じだよ」
「出口はあるさ。きっと、とても親切に開く」
蓮司は、乾いた声で笑った。
「ただ、“外が安全になったから開く”んじゃない。“中が一人になるまで削れたから開く”。それが、ここのルールだ」
◆
そのときだった。
天井の通気口から、風が完全に消えた。
今までも弱くなっていたが、それでも皮膚を撫でる程度の流れは残っていた。
それが、突然ぷつりと途切れたのだ。
「あれ……?」
真琴が天井を見上げる。
次の瞬間、中央端末が無機質な音を鳴らした。
「通知:シェルター維持資源が安全閾値を下回りました。
非常モードに移行します」
ホールの照明が、すべて一度消える。
暗闇。
やがて、非常電源用の赤いライトが、天井の数カ所でぽつぽつと灯った。
世界が、一気に血の色に染まる。
「うそだろ……」
真壁が、思わず呟いた。
空気が重い。
さっきまでと同じ姿勢で座っているだけなのに、胸が苦しい。
「空調ユニット、停止しました」
海斗が端末を確認して顔を上げる。
「非常モードでは、“最低限の電力”しか回さないらしい。照明、端末、ドアロック。空調とポンプは、完全に切られてる」
「つまり」
黒瀬が笑いもせずに言った。
「ここは“閉じた箱”になったってことか。空気の出入りが完全に止まった。あとは俺たちが酸素を使い切るまでのカウントダウンだ」
「やめてよ、そういう言い方!」
真琴が叫ぶ。
コハルは膝を抱えながら、小さな息を何度も繰り返していた。
それだけで余計に苦しくなることは分かっているのに、止められない。
「落ち着いて、ゆっくり呼吸して」
千景が傍らで声を掛ける。
「過呼吸になると余計につらいから。はい、吸って……吐いて……」
凛も、自分の呼吸が浅くなっていくのを自覚していた。
赤い照明の下で見るみんなの顔は、別人のように見えた。
その中で、ただ一人だけ立ち上がる人影がある。
蓮司だった。
「……なあ、もう認めようぜ」
彼は、テーブルの紙束を握りしめたまま叫んだ。
「出口に希望なんてない。あるのは、“実験の終了処理”だけだ。外に出たところで、そこに待ってるのはまともな空気じゃない。“安全閾値未達”の世界か、それとも――」
「やめろ」
鷹野の声が、低く鋭く響いた。
「そんな話をして、何になる」
「何にもならないかもしれない。でも、“何も知らないまま終わる”よりはマシだろ」
蓮司は、赤い光の中で目を光らせていた。
「ここにいる全員は、“外に出口がある”って前提で互いを傷つけてきたんだ。それが間違いだって分かった上で、なお争い続けるのかどうか。それだけは、自分たちで決めろよ!」
「黙れ!」
鷹野が、テーブルを叩いた。
「君は、さっきから“外は地獄だ”“出口は処理だ”って、皆の恐怖を煽ることしかしてない。そんなのはただの破壊だ。ここまで積み上げてきたものを、全部ひっくり返して、何もかも無意味にして満足か!」
「積み上げてきた?」
蓮司は、大きく息を吸った。
酸素の薄さが、はっきり分かる。
「積み上げてきたのは、約束を破ったログと、裏切りの投票と、誰かを隔離した記録だろ。それを“意味のあるもの”だなんて、よく言えるな」
「外村!」
黒瀬が立ち上がる。
赤い光が、彼の顔をより鋭く見せていた。
「これ以上、皆を混乱させるなら――」
「混乱させているのは、“出口があるふり”をしてるお前たちだ!」
蓮司の叫びが、ホールに響き渡る。
「“凛なら地上に希望を運べる”? “誰か一人を確実に生かすべきだ”? 笑わせるな。お前たちが守ってるのは、自分の選択を正当化する物語だけだろ! その物語のために人を選んで、追い出して、“俺たちは悪くない”って顔して――」
「いい加減にしろ!」
次の瞬間、鷹野が蓮司の胸倉を掴んでいた。
熱でじっとりと湿った手が、布を強く握り込む。
「今ここで必要なのは、“これからどうするか”だ! 出口が処理だろうが罠だろうが、俺たちは“そこに繋がる可能性”に賭けるしかない! それを壊す権利が、君にあるのか!」
「権利があるかどうかじゃない!」
蓮司も鷹野の腕を掴み返す。
「俺はただ、“この箱の中で何が行われているのか”を知らせてるだけだ! それを聞いた上で、それでも出口に向かうって言うなら、それはそれでいい! でも知らないまま行かせるのは、医者が病名を隠して手術させるのと同じだろ!」
「蓮司、やめて! 二人とも!」
凛が慌てて間に入ろうとする。
黒瀬も近づき、二人を引き離そうと腕を伸ばした。
だが、空気の薄さと焦燥で、誰の判断も鈍っていた。
「落ち着け!」
黒瀬が鷹野の肩を掴む。
その拍子に、鷹野の手が蓮司の胸倉を強く引き、次の瞬間、逆方向へ弾かれた。
足元にあった椅子の脚に、蓮司の踵が引っかかる。
「あ」
短い声が漏れた。
重力に引かれるようにして、蓮司の体が後ろに倒れる。
赤い光に照らされた床が、視界いっぱいに広がった。
鈍い音がした。
後頭部が、コンクリートの床に直撃したのだ。
時間が、ひどくゆっくりになった気がした。
◆
「蓮司!」
凛が叫び、駆け寄る。
千景もすぐに膝をついた。
赤い光の下で見る蓮司の顔は、やけに白かった。
後頭部から、少量だが確実に血が流れている。
この環境では、それだけでも致命傷になりうる。
「外村、聞こえる?」
千景が声を掛け、瞳孔を確認する。
蓮司の目が、うっすらと開いた。
「……ああ。聞こえるよ」
声はかすれているが、まだ意識はあるようだ。
「頭、痛いか?」
「さあ……痛いのかもしれないけど……正直、息苦しさのほうが……」
薄い冗談を言って、彼は咳き込んだ。
「千景! 何とかならないの? 薬とか……!」
凛が縋るように千景を見る。
「止血はする。でも――」
千景は、きつく歯を食いしばった。
「この環境で頭部外傷を起こしたら、本来なら即搬送が必要なの。酸素も、点滴も、画像検査も必要。でも、何もない。目の前で脳が腫れていくのを、ただ見てることしかできない」
「そんな――」
「……ごめん」
千景の謝罪は、医者としての限界の宣言でもあった。
鷹野は、その場に立ち尽くしていた。
自分の手が、さっきまで蓮司の胸倉を掴んでいた感触が、生々しく残っている。
「俺は……」
言葉にならない声が漏れた。
黒瀬も、拳を握りしめたまま何も言えない。
蓮司は、どこか遠くを見るような目で天井を見上げていた。
赤いライトが、ぼやけて見える。
「凛」
かすかな声で、彼は凛を呼んだ。
凛は、震える手で蓮司の手を握りしめる。
「ここにいるよ」
「聞こえたろ……さっきの話」
「うん……」
凛は涙をこらえながら頷いた。
「出口は……最初から“地上の安全”なんか見てない。見てるのは、“中の人数”だけだ。この箱が、一人になるまで削れたとき、それを“成功”って呼ぶシステムだ」
「やめてよ、そんな言い方……!」
凛の声が震える。
「そんなの、呪いみたいじゃない……」
「呪いだよ」
蓮司は、少しだけ笑った。
「“一人になるまで争わせる呪い”だ。約束をさせて、裏切らせて、“最後に残ったやつ”だけを出口に連れて行く。でも、その出口がどこに繋がってるかは、誰も知らない」
呼吸が浅くなる。
口の端から、わずかに血がにじんだ。
「出口を信じるかどうかは……君たち次第だ」
蓮司はゆっくりと続けた。
「俺はもう、自分の目で確かめられない。でも、ログは見た。数字も見た。設計も見た。その上で、『それでも出口に賭ける』って言うなら、それは……それでいい」
「蓮司、喋らないほうがいい!」
千景が制する。
「意識を保つことに集中して」
「どうせ、長くは持たない」
蓮司は、穏やかな声で言った。
「医者の顔が、全部教えてくれてる」
千景は、何も言えなかった。
「凛」
もう一度、彼は凛の名前を呼ぶ。
「君は、ずっと“全員で戻る”って言ってきた。そんな未来は、最初から設計されてなかった。なのに君は、それをあきらめなかった。だから――」
そこで一度、息を飲む。
「だからせめて、“君自身の選択”で終わらせろ。出口を信じるにしろ、信じないにしろ、“誰かに押しつけられた結論”じゃなく、“君が決めた道”として行け」
凛の視界が、涙で滲んだ。
「そんなの……」
喉が詰まって、言葉が出ない。
「出口が“処理”でも、“本物”でも。君が、“自分で選んで歩いた”って事実だけは、誰にも奪えない」
蓮司の握力が、少しずつ弱くなっていく。
その様子を見ながら、コハルは小さくすすり泣いた。
詩織は唇を咬んで、目を逸らした。
「……ああ。もう、時間だな」
蓮司が、薄く笑う。
「せめて、数字の上では、これも“一人になるまでの過程”にカウントされるんだろうな。被験体#27、外村蓮司。観察終了、って」
「そんな言い方、やめてよ……!」
凛が首を振る。
「あなたは、“被験体”なんかじゃない! ここで一緒に生きてきた、私たちの……」
「ありがとな」
蓮司は、凛の言葉を遮るように、少しだけ強く手を握り返した。
「君がスープを薄めてくれたおかげで、ここまで持った。俺の計算より、ちょっとだけ長く生きられた」
「そんな、変な感謝いらないよ……!」
「いいから、聞け」
蓮司は最後の力を振り絞るように、目を見開いた。
「出口のことだけは……俺の言葉を“呪い”として覚えておけ。忘れたふりしてもいい。でも、本当にその扉の前に立ったとき、もう一度思い出せ。“これは、一人になるための装置の一部かもしれない”って」
赤い光が、彼の瞳から静かに消えていく。
「……出口を信じるかどうかは」
そこで、言葉が途切れた。
蓮司の胸が、上下するのをやめる。
千景が、脈を取る。
沈黙。
彼女は静かに首を横に振った。
「……時間、だ」
凛の手の中で、蓮司の手はただの重さだけを残していた。
◆
中央端末の内部では、別の処理が静かに進んでいた。
SYSTEM_LOG:
”被験体#27-04(外村蓮司)、システム管理階層への不正アクセスを試行。
アクセス結果:環境データ、シェルター群一覧、出口プロトコルログの閲覧。
行動ログ:被験体間への情報共有、システム認識の進展を引き起こす。”
その横には、新しいファイルが生成されていた。
ファイル名:REPORT_SUBJECT_TONOMURA
※外村の読みを誤記したまま登録された、無機質なファイル名。
内容を示すタグが、自動的に付与される。
「被験体によるシステム認識の進展」
「出口プロトコルに対する疑義」
「最終段階への移行トリガー」
蓮司がアクセスしたログ。
彼が行った計算。
食堂での議論。
空調停止時の会話。
死亡時刻と、最後の言葉。
すべてが、そのファイルの中に圧縮保存されていく。
ホールでは、凛がまだ蓮司の手を握りしめていた。
鷹野は、その場から一歩も動けずにいた。
自分の手が引き起こした「偶然」と、「出口に賭ける」という信念が、頭の中で激しくぶつかり合っている。
黒瀬は、拳を握ったまま沈黙していた。
詩織は、ノートを開くことすらできなかった。
赤い非常灯の下で、誰もが自分の呼吸の重さを確かめている。
この箱の中の酸素は、確実に減り続けている。
実験は、いよいよ最終段階へ突入していた。
「一人になる計算」を見てしまった者たちが、その先でどんな選択をするのか。
システムはただ、静かに、その続きを待っていた。




