素直になれない2人
昼下がり。
今日も篠原は出社していた。
在宅勤務が定着した今、最近はだれもが出社の頻度が減っていたが、「作業の都合で出社するしか無いんですよね…」と本人は言う。
けれど、俺には、ほんの少し違和感があった。
何か理由があってここに来ているのでは――そんな勘が働くのは、彼女の表情の変化をよく見てきたからかもしれない。
「真壁さんって……ほんとに、なんでもちゃんと気づくんですね」
その日の午後。
パワポの資料を修正していた俺の隣で、篠原からチャットが送られてきた。
「ん?」
「この前、私がちょっと沈んでた時も……さりげなく声をかけてくれたので」
モニターを見つめたまま、彼女は手を止めずにチャットを続ける。
「そりゃ、分かるよ。篠原さんって、気持ちが顔に出るから」
「……うそ。そう見せてるだけかもしれませんよ…」
キーボードの音が止まる。
チャットが途切れて、微かな沈黙が広がった感じがした。
どこまで踏み込んでいいのか。
どこからは、ただの“職場の距離感”を守るべきなのか。
分かっているのに、またその境界線で立ち止まってしまう自分に、内心、苛立っていた。
きっと、もう互いにうすうす分かっているのだろう。
芽のような想いが、心の中に顔を出していることを。
でも、それを「好き」という言葉にするには――
お互いの背負っているものが、あまりにも多すぎる。
彼女には彼女の生活がある。
俺にも、今の暮らしがある。
それを崩してまで向き合うには、まだ何かが足りなかった。
週末、部署の親睦会があった。
20人ほどの賑やかな宴席のなか、俺はしばらく端の席にいたが、ふとした拍子に席を移動した。
乾杯のタイミングを逃した誰かと席を替わる形で、結果的に篠原の隣に座ることになった。
「お疲れさまです」
彼女はグラスを少し掲げ、柔らかく微笑んだ。
お酒は苦手と言う割にはビールを飲んでいて、頬がほんのり赤い。
「あまり、こういうの慣れてなくて」
そう言って少し照れたように笑った。
俺もそうだと返して、あとは仕事の話を少し。
ただ、互いに本音を言わない沈黙のような空気が、どこか心地よくもあった。
一次会が終わると、若い連中は次々と二次会へと流れていった。
「あれ?真壁さんは行かないんですか?」
篠原が聞いた。
「うん。ちょっと疲れてるから早めに帰ろうと思って」
「……じゃあ、私もやめときます」
自然な流れで、俺たちは2人きりになった。
駅までの道を、少し離れて歩く。
酔いがまわっているせいか、それとも夜風のせいか、足元が頼りない。
「……こういう時、どうしていいか分からないんですよね」
篠原がぽつりとつぶやいた。
「何が?」
「誰かに優しくされるのが、ちょっと怖いんです」
その言葉に、俺は言葉を失った。
「期待しちゃいけないって、ちゃんと分かってるのに……。でも、してしまう。自分がイヤになるんです」
彼女の声には、かすかに揺れる音があった。
優しさが、誰かを縛ることもある。
そのことを知っているのに、目の前の人に何かしてやりたいと思ってしまう――その矛盾が、俺の胸に突き刺さった。
「……無理しなくていいよ。俺も、たぶん、不器用だからさ」
静かにそう言うと、彼女はふと立ち止まり、空を見上げた。
しばらく沈黙が続いたあと、駅の改札前で立ち止まる。
「……ありがとう。今日、ちょっと助かりました」
「俺は何もしてないよ」
「でも、いてくれたから」
その一言に、言葉以上の何かが詰まっていた気がした。
たぶん、俺たちは似ているのだろう。
誰かに頼ることが下手で、
それでも心のどこかで、人を求めてしまう。
壊れるのが怖くて、踏み出せない。
それでも歩み寄ろうとする――
そんな、“素直になれない2人”の、いびつで、けれど少しあたたかい夜だった。
次回は「2度目の小さなチャンスと偶然」
休日、真壁が外出先で、なぜか篠原と偶然に出会うところから始まる。
そして篠原の息子との始めての対面。