小さなチャンス
人と人の距離というのは、不思議なものだ。
近づいたと思えば、するりとすり抜けていく。
縮まったように見えても、心はまだ遠い。
篠原との関係は、まさにそんなもどかしさの上に成り立っていた。
オフィスでは、ごく自然に言葉を交わす。
雑談も増えたし、時には彼女の方から仕事以外の話題を振ってくることもある。
でも、それ以上には決して踏み込んでこない。
俺もまた、どこかで距離を測っている。
これ以上近づけば、壊れてしまうのではないかという不安。
それでも、もう一歩寄ってみたいという衝動。
そのあいだで、揺れている。
「……最近、あの人、少し元気そうですよね」
同僚がふとつぶやいた。
"あの人"。それは篠原のことだった。
ふとしたタイミングで耳にしたその言葉が、胸の奥をかすめる。
元気そう——確かに、笑うことが増えた気がする。
けれどその笑顔は、誰かに見せるためのものではないかという気もした。
無理に平気なふりをしているような、そんなふうに映る瞬間がある。
本当の彼女は、まだどこかで心を閉じている。
その扉の前で、俺は静かに立ち尽くしているだけだ。
とある出社日の帰り道、会社を出て駅のコンコースに入ったところで、ふと視界の端に見覚えのある姿を見つけた。
コンコースにある長いベンチの端に、優衣が座っていた。
足元は白のスニーカー。
ジャケットの下に、少しラフな素材のワンピース。
全体としてはオフィスカジュアルなのに、どこか肩の力が抜けていて、普段より少しだけ柔らかく見える。
思わず足を止めた。
どうして、こんな時間にここに?
いつもなら真っすぐ帰るはずの優衣が、何かを待つでもなく、ひとりでベンチに腰かけている。
声をかけようかと迷ったそのとき、
彼女がこちらに気づき、少し驚いたように目を見開いた。
「……真壁さん?」
「あれ?篠原さん?」
できるだけ自然に声をかけると、彼女は小さく笑って、隣にわずかなスペースをつくってくれた。
「待ち合わせ?」
「いえ……ちょっと一人になりたくて。空いてる場所、探してたんです」
「ここ、座っても?」
「もちろん」
並んで座ったベンチ。
西日が、駅構内の天窓から斜めに差し込んでいた。
行き交う人々の足音やアナウンスが、どこか遠くに感じられた。
まるで、駅のざわめきから切り取られた小さな静寂だった。
しばらくの沈黙のあと、優衣がぽつりとつぶやく。
「真壁さんって……」
「はい?」
「前からそんなに、優しかったですか?」
不意を突かれて、思わず顔を向けると、彼女は目を伏せたまま、
袋の中のペットボトルに視線を落としていた。
「どうかな。優しいって言われると、ちょっと困るな」
「困る、って……どうしてですか?」
「……自分が本当に優しいのかどうか、自信ないから。
それに、優しくしてる理由が……もし、誰かのためじゃなくて、自分のためだったらって思うと、なんか、ね」
「……ふふ。ちょっと、わかるかもしれません」
彼女がかすかに笑った。
その笑顔には、これまでよりも少しだけ、柔らかさがあった。
「……これから、少しだけ歩きませんか?」
彼女からそう言われたのは、その日が初めてだった。
短い時間だった。
駅の出口からすぐにつながる遊歩道を、並んで歩いた。
夕暮れ時の風が頬をなで、街路樹の影が道に長く伸びていた。
話したのは、仕事のこと、子どもの話、好きな季節のこと。
何気ない会話ばかりだったけれど、それがなぜか、温かく感じられた。
帰り際、改札の前で別れるとき、
彼女がふと立ち止まって言った。
「こういうの、なんか……いいですね。たまには」
その言葉が、その夜ずっと頭の中を離れなかった。
きっかけなんて、きっと大したことじゃない。
ただの偶然。ただのすれ違い。
けれど、あの日の駅のベンチと、あの遊歩道は——
俺たちにとって、確かに“チャンス”だった。
そしてそのチャンスを、失わずに済んだことが、
小さな奇跡のようにも思えた。
次回は「素直になれない2人」
真壁と篠原のもどかしさが続く。
そんな中、真壁は2人のやり取りを通して篠原が抱える複雑な思いに気づく。