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やわらかな光のなかで  作者: 冬木真人
静かな渇き ―境界線の向こうにあるもの―
7/9

もし、あと一歩踏み出せたなら

それは、実際には起こらなかった出来事だ。

けれど──もし、あの夜、あと一歩だけ、勇気を出せていたら。

そんな仮定が、時折、胸の奥を静かに締めつけてくる。


仕事帰り、雨が降り出す直前の、どこか気怠い空気が街を包んでいた。

その夜も、たまたま出社が重なっていた。定時を過ぎてもフロアに残っていたのは、俺と篠原だけだった。


「真壁さん。私、傘持ってないんです」


そう言って、彼女が少し照れたように笑ったのを、今でもはっきりと覚えている。


「俺のに入って一緒に帰る?」


差し出した傘。

そのとき、ほんの一瞬の沈黙があった。

彼女の視線が、俺の手元から、ゆっくりと目の奥へと移ってきた──。


——そのとき、もし。

「少しだけ歩きませんか」と、声をかけていたら。


きっと、彼女は断らなかった。

それは、なぜか確信めいていた。


雨音を聞きながら並んで歩く夜の歩道。

互いの肩が、時おりそっと触れるような距離。

ビルの灯りが水たまりに滲んで、現実と夢の境界が曖昧になっていく。


「こうやって並んで歩くの、久しぶりですね」


ふと、彼女がつぶやいた。


「……仕事の帰りに誰かと歩くこと、あんまりないんです」


ぽつり、ぽつりとこぼれる言葉。

その声は、どこか子どものように素直で、どこか脆さを含んでいた。


「俺も……こうやって歩ける相手、なかなかいないです」


「そうですか?」


「うん」


言葉が多くなくても、通じ合うような時間。

そんな何気ないひとときが、なぜかとても愛おしかった。


──もし、あのとき。

彼女の手に、自分の手をそっと重ねていたら。

彼女の瞳の奥にある寂しさや不安に、もう少しだけ近づけていたら。


……でも、それは実際には起こらなかった。


彼女は、「お疲れさまでした」と笑って、傘も借りずに小走りで駅へと向かった。

俺は、差し出したままの傘を持ったまま、その場に取り残されたように立ち尽くしていた。


もし、あの一歩を踏み出していたら、何かが変わっていたのかもしれない。

でも、同時に何かを失っていたかもしれない。


そう思うことで、自分を納得させていた。

本当は、ただ、怖かっただけなのに。


だからこれは、あり得たかもしれない“もうひとつの夜”。

篠原が知らない、そして俺自身さえ手放した、小さな「もしも」の物語。


「……真壁さん?」


現実の声が、胸の奥をよぎった幻想を静かに断ち切った。


この日も、2人とも出社していた。

そして今は、昼休みのカフェテリア。

テーブル越し、篠原がコーヒーを片手にこちらを見ていた。


「ぼーっとしてましたね。疲れてるんですか?」


「……いや、大丈夫」


そう言いながら、心のどこかではまだ、あの雨の夜をさまよっていた。

あのときの沈黙と視線。

たった一歩の勇気が、今もなお、自分の中で響き続けている。

次回は「小さなチャンス」

真壁と篠原、もどかしさを抱えながらも少しずつ距離を縮めていく2人

そして篠原ももっと接近する機会を伺ってた。

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