もし、あと一歩踏み出せたなら
それは、実際には起こらなかった出来事だ。
けれど──もし、あの夜、あと一歩だけ、勇気を出せていたら。
そんな仮定が、時折、胸の奥を静かに締めつけてくる。
仕事帰り、雨が降り出す直前の、どこか気怠い空気が街を包んでいた。
その夜も、たまたま出社が重なっていた。定時を過ぎてもフロアに残っていたのは、俺と篠原だけだった。
「真壁さん。私、傘持ってないんです」
そう言って、彼女が少し照れたように笑ったのを、今でもはっきりと覚えている。
「俺のに入って一緒に帰る?」
差し出した傘。
そのとき、ほんの一瞬の沈黙があった。
彼女の視線が、俺の手元から、ゆっくりと目の奥へと移ってきた──。
——そのとき、もし。
「少しだけ歩きませんか」と、声をかけていたら。
きっと、彼女は断らなかった。
それは、なぜか確信めいていた。
雨音を聞きながら並んで歩く夜の歩道。
互いの肩が、時おりそっと触れるような距離。
ビルの灯りが水たまりに滲んで、現実と夢の境界が曖昧になっていく。
「こうやって並んで歩くの、久しぶりですね」
ふと、彼女がつぶやいた。
「……仕事の帰りに誰かと歩くこと、あんまりないんです」
ぽつり、ぽつりとこぼれる言葉。
その声は、どこか子どものように素直で、どこか脆さを含んでいた。
「俺も……こうやって歩ける相手、なかなかいないです」
「そうですか?」
「うん」
言葉が多くなくても、通じ合うような時間。
そんな何気ないひとときが、なぜかとても愛おしかった。
──もし、あのとき。
彼女の手に、自分の手をそっと重ねていたら。
彼女の瞳の奥にある寂しさや不安に、もう少しだけ近づけていたら。
……でも、それは実際には起こらなかった。
彼女は、「お疲れさまでした」と笑って、傘も借りずに小走りで駅へと向かった。
俺は、差し出したままの傘を持ったまま、その場に取り残されたように立ち尽くしていた。
もし、あの一歩を踏み出していたら、何かが変わっていたのかもしれない。
でも、同時に何かを失っていたかもしれない。
そう思うことで、自分を納得させていた。
本当は、ただ、怖かっただけなのに。
だからこれは、あり得たかもしれない“もうひとつの夜”。
篠原が知らない、そして俺自身さえ手放した、小さな「もしも」の物語。
「……真壁さん?」
現実の声が、胸の奥をよぎった幻想を静かに断ち切った。
この日も、2人とも出社していた。
そして今は、昼休みのカフェテリア。
テーブル越し、篠原がコーヒーを片手にこちらを見ていた。
「ぼーっとしてましたね。疲れてるんですか?」
「……いや、大丈夫」
そう言いながら、心のどこかではまだ、あの雨の夜をさまよっていた。
あのときの沈黙と視線。
たった一歩の勇気が、今もなお、自分の中で響き続けている。
次回は「小さなチャンス」
真壁と篠原、もどかしさを抱えながらも少しずつ距離を縮めていく2人
そして篠原ももっと接近する機会を伺ってた。