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やわらかな光のなかで  作者: 冬木真人
静かな渇き ―境界線の向こうにあるもの―
6/12

変わらない日々、変わってしまった心

異動からすでに1年過ぎたころ。

昼下がりの陽射しはやわらかく、窓の外の光がオフィスの床に淡く伸びていた。

冬を忘れたようなあたたかな風が、どこか軽く感じられる。


オフィスには、空調の低い音と、あちこちから漏れ聞こえるオンライン会議の声。

それぞれのデスクで誰かが話し、相槌を打ち、ミュートを忘れて苦笑する。

変わらないように見える昼下がりの日常。

けれど、その穏やかさのなかに、自分だけが少し浮いているような感覚があった。


「真壁さん、明日の午後の打ち合わせ、同席されます?」


隣の席からかけられた声。篠原だった。

そういえば、最近に限らずずっと、篠原と出社が重なる日は妙に多い。

気づけばもう一年。今では、それが当たり前のように思える。

早めに出勤して、静かにデスクに座っている姿も、見慣れた光景のひとつになっていた。


「ああ、うん。俺も出るよ」


「わかりました。資料、あとで共有しますね」


「ありがとう」


いつものやり取り。

同僚として、なんの違和感もない自然な会話。

でも、自分の心だけがどこかざわついていた。


彼女の声のトーン、ほんの一瞬の間、何気ない目線の動き。

それら全部に無意識のうちに反応してしまう。

自分の中で何かが確かに変わってしまったのだと、改めて思う。


きっかけは、あの夜だったのかもしれない。

でも、本当はもっと前からだったのだ。

気づかないふりをしていた。

職場の人間として、大人として、節度ある自分を保つために。


だけど、一度気づいてしまったら、もう元には戻れなかった。


昼休憩の時間。

社内のカフェテリアで、彼女の姿を見かけた。


カウンターに寄りかかるように立ち、マグを両手で包むように持っていた。

窓から差し込む光が、髪の一部をほんのり照らしている。


「篠原さん」


「あ、真壁さん……本当に真壁さんとはよく会いますね」


彼女が先に口を開いた。

声のトーンは軽やかだったが、その横顔にはどこか遠くを見るような影もあった。


「うん。たまたま、かな」


「たまたま、ですかね」


その言葉に、ふたりの間に小さな笑いが生まれる。

でも、その笑いの余韻の中に、ふとした沈黙が差し込んだ。


「真壁さん、最近、ちょっと疲れてません?」


「そう見える?」


「……ちょっとだけ」


「そっか。ありがとう、気をつけるよ」


「……無理しないでくださいね。真壁さん、いろいろ、抱え込みそうだから」


彼女がマグを差し出すようにこちらに向けながら、

ほんの少しだけ身体を寄せたその瞬間、距離の近さに一瞬、息を呑んだ。

気のせいかもしれない。けれど——

同僚としては、近すぎる距離じゃないかと、そんな考えが一瞬、頭をよぎる。


誰かが見ていたら、どう思うだろう。

でも、そう思いながらも、離れられなかった。

その距離に、心の奥のどこかが安堵していた。


彼女の瞳には、気遣いと、どこかで自分自身への問いかけのようなものが混じっていた。

彼女も、何かに迷っているのかもしれない。

自分だけじゃなく。


ふっと笑った彼女の表情は、穏やかでいて、どこか張りつめていた。


その優しさが自分にだけ向けられたものかどうか、確かめるすべはなかった。

でも、なぜか、それを壊してはいけないような気がした。


午後、仕事に戻っても、ふとした拍子に彼女の言葉が脳裏をよぎった。

すぐ隣にいるのに、不思議とその存在が遠く感じたり、逆に妙に近く感じたりすることがある。

何気ない一言が、思いのほか深く心に残っていた。


会議、報告、資料の確認。

外側は何も変わらないように見える日々。

でも、内側は確実に変わっていた。


彼女を意識してしまう自分。

彼女の仕草に心を乱される自分。

それを気づかれたくなくて、余計に不自然になる自分。


「……変わったよな、俺」


誰にも聞こえない声で、机に向かってつぶやいた。

その言葉は静かに空気の中に溶けていき、

胸の奥で、じんわりと響いた。

次回は「もし、あと一歩踏み出せたなら」

雨の日の真壁と篠原にもしかしたら…という真壁の妄想。


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