信頼という名前の距離
その日も出社していた。
フロアの照明はまばらに落とされ、時計の針はすでに定時を過ぎていた。
キーボードを叩く音と空調の低い唸り声だけが、静かに空間を埋めていた。
「真壁さん、ちょっと……いいですか?」
隣の席から残業をしていた彼女が、ちょっと遠慮した感じで声をかけてきた。
「もちろん。どうかした?」
彼女は自分のノートPCをくるりとこちらへ向け、少しためらいながら画面を示した。
「この件、……私、判断ができなくて。自分の考えが甘いのか、自信がなくて」
彼女の声はかすかに揺れていた。
きっと、簡単に“わからない”とは言わない人なのだろう。
いつも静かに、自分で抱え込む癖がある。だからこそ、頼られたことが少しだけ嬉しかった。
「甘いんじゃない。丁寧なんだよ、篠原さんは」
そう言うと、彼女の目がわずかに見開かれた。
「そう……ですか?」
「うん。俺はそう思う。こういう細かい配慮ができるの、俺はすごく信頼してるよ」
沈黙が落ちた。
でもそれは気まずさではなく、静かにあたたまるような間だった。
やがて彼女が、小さく、けれど確かに口を開いた。
「……私、真壁さんにだけは、変に思われたくなくて」
「どうして?」
「……どうして、でしょうね」
彼女は目をそらしながら、少しだけ笑った。
でもその言葉の奥には、何か深くて古いものが隠れている気がした。
そういえば、彼女が誰かと親しげに話すのを、あまり見たことがない。
無愛想というわけではない。けれど、必要以上に近づかない。
少し線を引いているように見えるときがある。
半月ほど前、偶然タイミングが重なって、昼休みに2人で外へ出たことがあった。
会社のすぐそばにある、こぢんまりとしたカフェ。窓際のテーブルに腰を下ろし、サラダとパスタのランチセットを前に向き合った。
「ここのドレッシング、ちょっと酸味強いですね」
フォークを動かしながら、彼女が苦笑まじりに言った。
「たしかに。でも、何か身体に良さそうって思って食べてるよ、いつも」
「……わかります、それ」
そんな他愛もないやりとりから、自然に話題は広がっていった。
最近読んだ本の話、子どものころ苦手だった給食の話、週末のスーパーの混み具合――
話しているうちに、彼女の表情が少しずつほどけていくのがわかった。
「……私、こういうの、久しぶりかも」
ふいにそう言って、彼女はフォークを置いた。
「どんなの?」
「同僚と、ランチして笑って。普通の時間を過ごすの。何年ぶりだろうって」
そう言って、彼女は窓の外を見ながら、ひとつ深く息をついた。
「……たぶん、真壁さんが、ちゃんと聞いてくれるから。気づいたら、いっぱいしゃべってましたね、私」
「それは……光栄です」
冗談のように返したけれど、その言葉の裏にある重さは、ちゃんと受け止めていた。
彼女は、誰にでも話せるタイプではない。
言葉を選びながら、それでも心を開こうとしてくれているのがわかった。
「あんまり、人に話すの得意じゃないから。そう思われるの、少しこわくて」
「俺は、話してくれて嬉しいけどな」
その一言に、彼女はゆっくりこちらを見て、
そして目を細めるように笑った。
「……変な人ですね、真壁さんって」
「よく言われる」
小さな冗談に、ふたりで笑った。
ほんの少しずつ。
誰にも見えないくらいのスピードで。
でも確かに、距離は縮まっていた。
たとえば、それが“信頼”と呼べるものであるのなら――
それは、互いにとって、とても大きな第一歩だったのかもしれない。
次回は「決して踏み込まないと決めた夜」
繁忙期で出社を余儀なくされた真壁。
出社していた篠原と2人きりになったオフィスで、揺れる2人の心。