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やわらかな光のなかで  作者: 冬木真人
静かな渇き ―境界線の向こうにあるもの―
3/12

ふとした瞬間に

「……あれ? 真壁さん、まだいらっしゃったんですね」


時計の針が定時を大きく過ぎた夜。

オフィスフロアはすっかり静まり返っていて、空調の音がかすかに耳に残るだけだった。

残っていたのは、俺と――彼女だけ。

最近、彼女と出社が重なることが多い。


「うん。資料の調整にちょっと手間取ってて。篠原さんも?」


「はい。思ったより上のチェックが細かくて……コメントの履歴追ってるだけで、半分くらい消耗しました」


そう言って苦笑する彼女に、「大変だな」としか言えなかった。

慰めになるような言葉は浮かばなかったけれど、彼女は「まあ、慣れましたけどね」と、いつものように肩をすくめて見せた。


こうして残業の時間帯に顔を合わせるのは、たまたまだったのか。

あるいは、どこかで意識していたのか。

どちらにせよ、彼女と交わす会話には、他の誰とも違う“余白”があった。


「……あの」


ノートPCを閉じかけた彼女が、ふと俺のほうを向いた。


「真壁さんって、土日って何してるんですか?」


「ん? たいしたことはしてないよ。本屋に行ったり、気が向いたらドライブしたり」


「へえ、ドライブ……いいですね」


「最近は全然行けてないけどね」


そう言って笑った俺に、彼女は少し間を置いて、ぽつりとこぼした。


「……私、運転するの、ちょっと苦手なんです」


「そうなの?」


「はい。普段は生活のために仕方なくって感じですけど……特に、幹線道路とか合流とか、すごく怖くて」


彼女の声が、ほんの少しだけ沈んだ。


「助手席も、あまり好きじゃないんです。……昔、ちょっと嫌な記憶があって」


抑えているつもりでも、言葉の端にかすかな震えが滲んでいた。

聞いていいことなのか迷った。でも俺は、ごく自然に言葉を返していた。


「それでも運転してるんだね。苦手なままにせずに続けるって、すごいことだと思う」


「……そんなふうに言われたの、初めてです」


彼女はそう言って笑った。けれど、その目の奥には、静かな影のようなものがあった。


俺たちはその夜、ほんの五分だけ、同じ歩幅でビルを出た。

駅までの短い道のり。夜風はまだ、春の名残をまとっていた。


「じゃあ、また明日」


そう言って手を軽く振る彼女の横顔が、不思議と頭から離れなかった。


気づけば、職場での視線の先に、いつも彼女を探していた。

誰かと話している声。すれ違うときのやわらかな香り。マグカップから立ちのぼる湯気。


どれもが、ほんの些細なことなのに――

その“些細な瞬間”が、こんなにも胸を締めつけるなんて。


そんな感覚、もうとっくに忘れていたと思っていたのに。


「……まずいな」


誰にも聞こえないように、そっとため息を吐いた。

心のどこかが、確かに揺れはじめていた。


次回は「信頼という名前の距離」

週に数日の出社日だが、何故か2人はタイミングが重なる。

オフィスでのやりとりを交わしながら、少しずつ信頼関係を築いていく、真壁と篠原。

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