ふとした瞬間に
「……あれ? 真壁さん、まだいらっしゃったんですね」
時計の針が定時を大きく過ぎた夜。
オフィスフロアはすっかり静まり返っていて、空調の音がかすかに耳に残るだけだった。
残っていたのは、俺と――彼女だけ。
最近、彼女と出社が重なることが多い。
「うん。資料の調整にちょっと手間取ってて。篠原さんも?」
「はい。思ったより上のチェックが細かくて……コメントの履歴追ってるだけで、半分くらい消耗しました」
そう言って苦笑する彼女に、「大変だな」としか言えなかった。
慰めになるような言葉は浮かばなかったけれど、彼女は「まあ、慣れましたけどね」と、いつものように肩をすくめて見せた。
こうして残業の時間帯に顔を合わせるのは、たまたまだったのか。
あるいは、どこかで意識していたのか。
どちらにせよ、彼女と交わす会話には、他の誰とも違う“余白”があった。
「……あの」
ノートPCを閉じかけた彼女が、ふと俺のほうを向いた。
「真壁さんって、土日って何してるんですか?」
「ん? たいしたことはしてないよ。本屋に行ったり、気が向いたらドライブしたり」
「へえ、ドライブ……いいですね」
「最近は全然行けてないけどね」
そう言って笑った俺に、彼女は少し間を置いて、ぽつりとこぼした。
「……私、運転するの、ちょっと苦手なんです」
「そうなの?」
「はい。普段は生活のために仕方なくって感じですけど……特に、幹線道路とか合流とか、すごく怖くて」
彼女の声が、ほんの少しだけ沈んだ。
「助手席も、あまり好きじゃないんです。……昔、ちょっと嫌な記憶があって」
抑えているつもりでも、言葉の端にかすかな震えが滲んでいた。
聞いていいことなのか迷った。でも俺は、ごく自然に言葉を返していた。
「それでも運転してるんだね。苦手なままにせずに続けるって、すごいことだと思う」
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
彼女はそう言って笑った。けれど、その目の奥には、静かな影のようなものがあった。
俺たちはその夜、ほんの五分だけ、同じ歩幅でビルを出た。
駅までの短い道のり。夜風はまだ、春の名残をまとっていた。
「じゃあ、また明日」
そう言って手を軽く振る彼女の横顔が、不思議と頭から離れなかった。
気づけば、職場での視線の先に、いつも彼女を探していた。
誰かと話している声。すれ違うときのやわらかな香り。マグカップから立ちのぼる湯気。
どれもが、ほんの些細なことなのに――
その“些細な瞬間”が、こんなにも胸を締めつけるなんて。
そんな感覚、もうとっくに忘れていたと思っていたのに。
「……まずいな」
誰にも聞こえないように、そっとため息を吐いた。
心のどこかが、確かに揺れはじめていた。
次回は「信頼という名前の距離」
週に数日の出社日だが、何故か2人はタイミングが重なる。
オフィスでのやりとりを交わしながら、少しずつ信頼関係を築いていく、真壁と篠原。