メッセージする自信がない
退院の日、病院の玄関を出た瞬間、冷たい空気が肌をかすめた。
冬の午後の淡い陽ざしが、灰色の雲の合間からわずかに差し込んでいる。
顔に触れた風にふとまぶたを伏せた。
瞳の奥がじんわりと熱を帯びるのは、冷たい空気のせいだけではない気がした。
家に戻ってからも、生活はすぐには元通りにはならなかった。
けれど、入院中、親族が代わる代わる足を運んでくれたおかげで、息子の生活はどうにか保たれていた。
洗濯物は片づけられ、冷蔵庫には簡単に食べられる惣菜が詰められていて、リビングのテーブルには小さなメモが残されていた。
「おかえり。無理しすぎないでね」
その文字を見つめたまま、優衣はソファにそっと腰を下ろした。
しばらくして、スマートフォンを手に取り、親族に短くお礼の電話をかけた。
労わる声に何度も「ありがとう」と繰り返しながら、どこか現実感のないまま通話を終える。
電話を切ったあと、ふと昌宏の名前を連絡先から探しかけて──
画面を開いたまま、指先を止めた。
胸の奥にある言葉は、まだうまく整っていなかった。
「……やっぱり、今はやめておこう」
そう小さく呟いて、スマートフォンを伏せた。
リビングの静けさのなかで、加湿器のかすかな音だけが、淡く響いていた。
少しずつ、日常に身体を慣らしながら、優衣は何度もスマートフォンを手に取っては置いた。
昌宏からのメッセージは、最後の一通を最後に、静かに止まっていた。
気遣う文面。無理をせず、元気になったらでいい、というやさしい言葉。
読んだときは、涙が出そうになるほど嬉しかった。
でも、それにどう応えればいいのかが、どうしても分からなかった。
画面を開いては、閉じた。
「ありがとう」と打ちかけて、全て消した。
深夜、誰も見ていないことを確かめるように、リビングの隅でそっと入力してみたが…
その文章は、どれもどこか嘘くさく感じられて、結局「…やっぱりやめよう」とため息とともに指を離す。
メッセージの入力欄だけが、何度も虚しく明るくなっては、また暗くなった。
「会いたい」なんて、言えない。
「ありがとう」すら、怖かった。
返信をすれば、また、彼との距離が近づいてしまう。
そして、もし彼がその距離を望んでいなかったらと思うと、怖くて仕方がなかった。
——あの夜のことも、彼はもう忘れようとしているのかもしれない。
そんな考えがよぎるたびに、指先が冷たくなった。
それでも日々は流れ、身体は少しずつ回復していく。
息子は相変わらず部活と勉強に忙しく、弁当作りも、洗濯も、当たり前のように戻ってきた。
ある夜、何の気なしに開いたスマートフォンの写真フォルダに、以前の職場での懇親会で撮った集合写真が残っていた。
その中に、昌宏の姿があった。
他の誰よりも目立たない位置で、でも静かに微笑んでいたその表情に、不意に胸が締め付けられた。
写真の中の彼は、静かに立っていた。私と少し距離を置いて。
今見れば、その距離すら、優しさだったのだとわかる。
でも、今の私は、その距離に怯えている。
近づくことも、離れることも、自分の足で決めなければいけないのだと思うと、怖かった。
「私なんかが…」
ふとこぼれた言葉に、自分でも驚いた。
まだそんなふうに思っている自分がいる。
彼の前では、少しでもまっすぐに、対等でいたかった。
でも、病気で倒れて、取り残されて、不安ばかり膨らんで、気づけばまた、自己否定の殻の中に戻っていた。
——ちゃんと、話さなきゃ。
——ちゃんと、自分の言葉で。
それでも、そう思えたのは、彼の笑顔がそこにあったからだった。
写真の中でさえ、彼は変わらず、私を否定しなかった。
もう夜も遅かった。メッセージを書くには時間がかかりそうだった。
それでも優衣はスマートフォンをテーブルに置き、深く息を吸い込んだ。
返信は、明日。
ほんの少しの勇気が、必要なだけ。
それが、今の彼女の精一杯だった。
次回は「メッセージのやり取りは苦手だったが」
元々、誰かに思いを伝えることに慎重な優衣。
スマートフォンの画面を前に、何度も文章を打っては消し、送信ボタンに指をかけては躊躇して──
それでも、ようやくの思いで、昌宏に一通のメッセージを送った。
その小さな勇気が、ふたりの時間をまた少しだけ動かしていく。