出会い
仕事というものに、それなりの時間を費やしてきた頃だった。
積み重ねた年数が、いつの間にか「中堅」という言葉を背負わせていた。
部署異動の内示が出たのは、まだ年が明けて間もない頃――2023年1月。
冷え込む朝、会議室で伝えられたその知らせに、正直、気は進まなかった。
「真壁さん、来月からあの新設部署に異動なんですって?」
昼休み、社内カフェスペースで同僚にそう言われ、「ああ、らしいね」と曖昧に返したのを覚えている。
会社の方針だとか、キャリアパスだとか、もっともらしい理由はあったが、
本音は「若手を前面に出すためのバランス取り」だと勘ぐっていた。
そして、4月の初日。
俺はノートPCと私物の入ったバッグを持って、新しいフロアの自動ドアをくぐった。
「本日からこちらに配属になりました、真壁昌宏と申します。よろしくお願いします」
無難に挨拶を終え、フリーアドレスの一角に案内される。
新しいプロジェクトのSlackチャンネルが次々に招待され、慌ただしく一日が始まった。
そこには、慣れない空気と、初対面の人たち。そして彼女がいた。
「篠原優衣です。オンラインの方が多いですけど、分からないことがあればいつでも声かけてくださいね」
そう言って微笑んだ彼女の第一印象は、「真面目そうでしっかりとした女性だな」だった。
小柄で、肩につかないくらいの髪。目元が少し眠たげな印象。
声の調子も落ち着いていて、あまり自分を強く押し出すタイプではない。
ただ、切れ長の瞳からは、どこか控えめな柔らかさの中に、強い意志を感じさせていた。
その日から、自分は篠原のすぐ隣の席で仕事をすることになった。
最初はそれだけだった。
ただの同僚。チャット上や打ち合わせの合間に必要な会話を交わす程度の関係。
別にそれ以上でもそれ以下でもなかった。
けれど、不思議と彼女の言葉は、耳に残った。
「真壁さんって、なんか静かだけど…優しそうですよね」
ある日、篠原はオンライン会議が終わって疲れた様子で椅子に体を預けて、ふっと肩の力を抜いたように見えた。
その瞬間、ふいに目が合った。
不意打ちのような視線に、こちらも言葉を失ったが ―― 彼女の方が、静かに口を開いた。
俺は戸惑いながらも、「あ〜よく言われるよ」と曖昧に笑ってごまかした。
他愛もない会話だった。けれどそれが、少しだけ俺の中の空気を変えた。
彼女はときどき、必要以上に人に気を遣っているように見えた。
グループチャットでの丁寧すぎるレスポンス、誰かに頼まれたタスクを断りきれず抱え込んでいる様子。
そういうところが、どこか自分に似ている気がしていた。
あるとき、自分と篠原がちょうど出社している際に、社内のカフェテリアに2人だけになった。
「異動、大変じゃないですか? 前のチームのほうが良かったですか?」
「いや……まあ、慣れないだけだよ」
本音を言えば、戻りたい気持ちもあった。でも、そう口にするのは違う気がした。
「私も、前の部署から異動になったとき、最初は慣れなくて…。毎朝オンライン立ち上げる前にため息ついてました」
彼女は冗談めかして笑った。でもそこにはほんの少しだけ、疲れた色が混じっていた。
その日からだった。
俺は彼女の姿を、無意識のうちに目で追うようになった。
「ただの同僚」――そう思っていたはずなのに。
彼女の仕草や表情、ふとした瞬間の声が、俺のなかで意味を持ちはじめていた。
春の終わり。
季節は、少しずつ夏へと向かっていた。
次回は「ふとした瞬間に」
オフィスでの交流を通じ、互いに異性として意識し始めた真壁と篠原。
そのことに真壁が戸惑い始める。