痩せた理由
彼女とふたたび言葉を交わしたのは、あの日の研修のあと、定時を過ぎた夕暮れだった。
駅近くのカフェで、俺たちは向かい合って座っていた。
互いに忙しさのなかで言葉を交わす機会もほとんどなかったけれど
――なぜだろう、自然とこうして向き合えていることに、少しだけ救われる思いがした。
夏が近づいているが、日が落ちるとわずかに冷たい風を感じる。
窓際のオープンテラスのテーブル席。
彼女はベージュの薄手のコートを羽織っていた。
この時期にしては珍しく、しっかりと前を留めている。
その下には、グレーのスーツと白いブラウス。
仕事帰りらしい装いだが、コートの重なりにどこか防御的な気配があった。
「……寒くない?」
そう尋ねかけようとして、昌宏はふと口をつぐんだ。
気温のせいなのか、それとも別の何かか──
彼女がほんの少しだけ肩をすぼめていたのが、妙に気にかかったからだ。
けれど優衣はそんな素振しさを見せず、穏やかな表情のまま小さく微笑んだ。
まるで、自分の内側にあるものを、そっと包み隠すように。
昌宏は一拍、迷ってから口を開いた。
「……寒くないか?」
彼女はほんのわずかに目を見開き、それから首をすくめるようにして笑った。
「少しだけ。でも、大丈夫。……この場所、好きなんです」
言葉は自然だったが、その声の端に、どこか曖昧な間があった。
それが体のことなのか、心のことなのか──昌宏には、まだ掴みきれなかった。
しばらく会っていなかった間に、彼女はやはり見るからに痩せていた。
運ばれてきたカフェラテにそっと手を伸ばす彼女。
その指先も、以前よりも細くなっていることが気になって、思わず声が出た。
「……なんか…痩せた…よね?」
カップを持った手が、わずかに止まった。彼女は視線を落とし、少し笑ってから答えた。
「やっぱり、わかっちゃうよね……」
その声には、観念したような、どこか諦めの響きがあった。
俺が何か言うより先に、彼女のほうからぽつりと言葉が落ちてくる。
「実はね……最近ちょっと体調を崩してて」
「えっ?」
「うん……病気っていうわけじゃないの。ただ、ずっと張り詰めてたみたいで……
ある日、急に動けなくなっちゃって。病院では『過労とストレスによる自律神経の乱れ』って言われた」
目元に影が落ちている。言葉にどことなく力がない。
カップに口をつけながら、彼女は静かに続けた。
「朝、起きられない日があって……それでも無理して出勤してたら、ある日、会社で倒れちゃった。
検査しても異常はないのに、体が言うことを聞かないの。……ちょっと怖かった」
「……そんなこと、誰かに相談した?」
「してない。できなかった。……子どもがいるから、弱音なんて吐けないって思い込んでた」
そう言って笑った彼女の目が、ほんの少し潤んでいた。
「……優衣」
名前を呼ぶと、ハッとして彼女はゆっくり顔を上げた。
「まか……昌宏さんには、見透かされる気がして……でも、会いたかった」
沈黙がひととき、二人のあいだに落ちた。
カフェの奥では、若いカップルが笑い合っている。その何気ない日常の光景が、なぜか遠い世界のものに感じられた。
「ごめんなさい、こんな話。……本当は、もう少しちゃんとした顔して会いたかったのに」
「いや……ありがとう。話してくれて」
返す言葉がそれしか見つからなかった。彼女は小さくうなずくと、残りのカフェラテを飲み干した。
店を出る頃には、外はすっかり薄暗くなっていた。駅までの短い道を、俺たちは静かに並んで歩いた。
改札の前で立ち止まり、彼女はコートの襟を直し、俺の顔を見た。
「今日はありがとうございました。……話せて、少し楽になった気がする」
「無理しないで」
「……はい、気をつけます」
彼女が笑う。その笑顔にはまだ疲れがにじんでいたけれど、どこか救われたような光もあった。
改札機に手を伸ばしかけてから、彼女はもう一度だけこちらを振り返った。
「また……そのうち……」
そう言って、微笑みを浮かべながら、優衣は人混みに紛れていった。
その後ろ姿を、俺はしばらく立ち尽くしたまま、見送っていた。
ほんの少しでも、あの心の荷物を軽くできたのなら。
そう思いながら、駅の冷たい空気を吸い込んだ。
次回は「すれ違いの優しさ」
会えない寂しさが募りつつも、お互いに気遣う2人。
そして、お互いへのやさしさのあまりすれ違う2人。