再会に似た想い
あの暑かった夏が終わり、秋を迎え、季節は再び風の冷たさを取り戻しはじめていた。
あの昼の短いやりとりを最後に、俺たちは、自然と距離を置くようになっていった。
結局、異動の日、彼女の姿を見ることはできなかった。
同僚から「あちこちに挨拶回りとかで大変そうでしたよ」と聞いたとき、何かがすっと胸から抜け落ちた気がした。
その日を境に、社内チャットでも彼女の名前を目にすることはほとんどなくなり、個人的なやりとりも自然と途絶えた。
そして俺からもメッセージはなんとなく送れなかった。
彼女が苦手にしているのは知っていたし、既読になっても返ってこなかったあの数回の沈黙が、胸に刺さっていた。
電話も、メールも…こちらからの手段は色々とあっても、彼女の中ではきっとそれが“負担”になる。
そう思うたびに、指は止まった。
時間が経てば、心も落ち着く。
そう言い聞かせていた。
仕事に集中すれば、思い出す回数も減っていく。そう信じていた。
けれど、不意に聞こえる誰かの笑い声や、社内で女性とすれ違ったときに思わず見てしまった後ろ姿。
モニター越しに一瞬映る彼女に似た横顔をした女性。
そんな何気ない瞬間が、彼女の存在を思い出させた。
「もう、前みたいには……話せないんだよな……」
独り言のように呟いた言葉は、自分に言い聞かせるようでもあり、言い訳のようでもあった。
それでも、日々は流れた。
変わらない風景の中に、彼女の気配だけがぽっかりと抜け落ちている。
それが、いちばん辛かった。
彼女は元気にやっているだろうか。
新しい職場で、笑っているのだろうか。
あのとき、ちゃんと話していれば、何か違ったのだろうか――
答えのない問いだけが、いつまでも胸の中で息をしていた。
そして年があけ、春が過ぎ、季節は再び夏の暑さを取り戻そうとしていた。
日々の仕事に追われるうちに、彼女のことを考える時間も少しずつ減っていった。
新しい案件、新しい顔ぶれ、終わりのないタスクの波に飲まれながら、
気づけば、朝起きてすぐに彼女の名前を思い浮かべることもなくなっていた。
──もう、忘れたのかもしれない。
そう思う瞬間も、たしかにあった。
けれど、ふとした拍子に記憶の隙間から立ち上る声や仕草、笑い方。
駅のホームで見かけた似た後ろ姿に、足を止めてしまう自分がまだいた。
完全に消えることはなかった。
優衣という存在は、記憶の底に静かに沈みながらも、
ときおり何の前触れもなく浮かび上がってくる。
それは、かつて確かにそこにあった温もりの名残のように──。
5月、大会議室の空気は、どこかよそよそしいざわめきに満ちていた。
全社合同研修。部署も拠点も違う人間が一堂に会するこの場は、
新入社員も含めた、交流のために設けられたものだと、誰もが思っている。
俺も例外ではなかった。
テーブルに並ぶ知らない顔と、どこか他人行儀な資料のスライド。
ただ時間が過ぎるのを待つだけの午後になる――はずだった。
そして、ふと優衣のことを思い出した。元気でやっているだろうか…。
この場には…来てないよな…
休憩時間、人の流れに身をまかせて廊下に出た俺の視界に、小さな影が飛び込んできた。
「あれ?」
気のせいか――と、一度は思った。
でも、その後ろ姿は、俺の記憶の中に幾度となく現れては消えた誰かの輪郭と、あまりにも重なっていた。
「……篠原さん?」
その名を口にした瞬間、彼女が立ち止まった。
肩越しに、こちらを振り返る。
やや驚いたような、でもそれ以上に――戸惑いの混じった目だった。
「……あ、真壁さん……」
柔らかな声。その響きが、胸に染みる。
変わらない。でも、どこか距離を置こうとする響きがあった。
「え…。久しぶり……ですね。お元気そうで」
「うん……そっちこそ、元気そうでよかった」
ぎこちない笑顔が、互いの間に浮かぶ。
ほんの数メートルの距離が、やけに遠く感じられた。
「この研修、うちの部も全員参加なんです……。でもまさか、真壁さんに会えるなんて思ってなかった」
「俺も。篠原さんが来てるなんて、知らなくて」
彼女は少し視線を落としながら、小さく頷いた。
「……あれから、全然ちゃんと話せてなかったですね」
「うん……そうだね」
ふたりの間に沈黙が落ちた。
廊下の奥から聞こえてくる雑談や、近くの自販機の音だけが、時間を刻んでいく。
「……異動のとき、バタバタしてて。結局ちゃんとお礼も言えなくて。…ごめんなさい」
「いや、俺のほうこそ……何もできなかった」
「そんなこと、ないです」
彼女の目が、ふっと揺れた。
その奥に、一瞬だけ見えた感情。
懐かしさと、ほんの少しの寂しさ――
「……いろいろあって、少し気持ちの整理が必要だったんです。
自分のことも、子どものことも、全部……」
「うん」
「今も、全部が整理できたわけじゃないけど……少しずつ、前に進めたらって、思ってます」
彼女は笑った。
それは以前よりも、少しだけ影のない笑顔だった。
でもその分、心の奥で抱えていたものの重さを感じさせた。
「……でもまた、こうして話せてよかったです。ちょっと緊張するけど」
「俺も。……話したいこと、たくさんあった」
「……そう、ですか」
彼女の目が、わずかに揺れた。
けれど、そこにあったのは拒絶ではなく、静かな受け入れの気配だった。
「あの……仕事終わったあと、少し時間ある?」
そう尋ねると、彼女は少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
「はい。真壁さんが大丈夫なら」
「もちろん。駅近くのカフェにでも行こうか」
彼女は笑みを返した。それは、ほんの少し懐かしい光を帯びていた。
「……じゃあ、お願いします。少しだけ、話がしたい…」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが音を立てて動いた。
凍りついていた何かが、溶けはじめるような――そんな感覚だった。
次回は「痩せた理由」
ようやく優衣と2人で話せた昌宏
しかし、優衣が痩せていることに気づく。
そのことについて、優衣は少しずつ昌宏に話し始める…