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やわらかな光のなかで  作者: 冬木真人
それでもお互いを信じて
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しばしの別れ

それは久々に優衣と話した数日後のこと。


彼女の異動を知ったのは、オンライン会議中に何気なく社内ポータルを開いたときだった。


「えっ?」


まだ夏の余韻が残る空気のなか、脇に置いた冷たいコーヒーがやけに味気なく感じられたのを覚えている。


──XXXX年10月1日付 人事発令

 :

 篠原 優衣

 異動先:西関東支社 営業部 営業企画1課

:


その行だけが、一覧の中で妙に浮かび上がって見えた。


なぜ今なのか。なぜこのタイミングで、彼女が異動しなければならないのか。

誰が決めたのか。彼女はそれを、心から納得しているのか──

思考よりも先に、胸の奥でざわめきが立ち上がった。


理由がないわけじゃない。彼女の立場や環境を思えば、異動に一定の意味はある。

でも、それでも──なぜ俺に、何も言ってくれなかった?


ほんの一言でも。迷ってる、とか、決まりそうだとか。

あの日、外でふたり並んで話したばかりだったのに。

そのときにはもう、何か決まっていたんじゃないか。

いや、言えなかったのか。言わなかったのか……。


そんなことを問い詰めたいわけじゃないのに、

気づけば、自分のなかで言葉にならない怒りのような感情がうごめいていた。


静かな失望と、かすかな裏切りのような気持ち。

でもそのすべては、自分自身の弱さから来ていることもわかっていた。


伝えなかったのは、彼女なりの配慮かもしれない。

それでも──「どうして」と、心のどこかが叫んでいた。



その翌日。

俺は顧客との打ち合わせのため出社しており、そして優衣も出社していた。

午前・午後とも打ち合わせや会議が続き、彼女とゆっくり顔を合わせて話せる時間は、全く訪れなかった。


ようやく自席に戻れたのは、夕方近くだった。

席につき、隣席の彼女に話しかけようとした、そのとき──


「真壁さん、大変申し訳ありませんが、今ちょっとよろしいですか」


別部署の同僚が声をかけてきた。

社内トラブルの対応、報告書の再確認。どうしても急ぎで外せない内容だった。

仕方なく俺はその同僚の席に向かう。


離席するとき、隣からちらりと寂しい顔をしてこちらを見た優衣を感じた。

けれど、すぐに表情を引き戻して、静かにPCの画面に向き直った。


すれ違ったのは、声でも言葉でもなく、ほんの一瞬の気配だけ。

その微かな“すれ違い”が、心の奥に鈍く沈んでいった。



──本当は、今日、話すはずだった。


昼前、彼女からチャットが届いていた。


「あの、ちょっとお願いが」


「帰る前にどこかで少し話せませんか?」


いつもの短い文面。けれど何度か読み返すうちに、その行間から微かなためらいが伝わってくるようだった。

あれは偶然ではなく、彼女のほうから意識的にこの日を選んで出社してくれたのかもしれない──

今にして思えば、そう感じられてならなかった。


だがその“少し”の時間すら、何かに押し流されるようにして失われてしまった。

用件を終えて席に戻ったときには、彼女の姿はもうなかった。


異動は約1週間後。


──まだ時間はある。話せる機会は、きっともう一度来る。

そう自分に言い聞かせてみても、心だけが妙に焦っていた。

季節が、ひとつの節目を迎えようとしていた。



数日後、ようやく昼休みに彼女と短く言葉を交わせたのは、社内のカフェテリアだった。

少し遅めの時間帯だったためか、人の気配もほとんどなく、

窓から差し込む陽射しがやわらかくテーブルを照らしていた。


「……異動、ね。迷いもあったけど、色々と考えて決めました。

子どもももう高校生になったし、私自身も年齢や体力面を考えて、

時間に少し余裕を持って働けるほうがいいかなって、思ったんです」


窓の外を見つめながら、そう言った彼女の声は落ち着いていた。

けれど、その落ち着きの下には、触れれば崩れてしまいそうな揺らぎが潜んでいる気がした。


「それ……誰かに相談したの?」


「いえ……。相談したら、きっと揺れてしまうから。

だから、自分がちゃんと立っていられるうちに、決めたかったんです」


かすかに笑おうとしたその横顔に、秋の気配を含んだ光が差していた。

笑顔の奥に、少しだけ影が見えた。


「俺は……結局、何もできなかったな…」


「そんなことないです。……いろいろ、もらいました。

優しさも、ぬくもりも……全部色々ちゃんと、心の中に残ってます」


そう言って目を伏せた彼女のまつ毛が、ほんの一瞬揺れた。

その仕草が、やけに幼く見えて、胸の奥を締めつけられる。


沈黙が落ちた。けれど、それはかつてのような重く苦しい沈黙ではなかった。

ほんの少し、やさしい名残を含んだ空白。

それが、ふたりの間に静かに漂っていた。


「あ、このあと打ち合わせがあるので……失礼します」


優衣が立ち上がり、席を後にした。


「お疲れさま…」


カフェテリアの窓の外では、蝉の声が途切れ、金木犀の香りがわずかに漂い始めていた。

晩夏と初秋が混じりあう、境界の季節。


彼女の背中を、やわらかな光がそっと包んでいた。


──“さよなら”とは、まだ誰も言っていない。

それでも、たしかに何かが終わろうとしていることだけは、感じていた。


だけど、完全に終わったわけじゃない。


未完のまま残された想いが、まだどこかで脈を打っている。

それは、また彼女に会えるかもしれないという、淡い予感のようでもあった。


そして季節が、いくつも巡ろうとしていた──。


次回は「再会に似た想い」

異動の日、優衣に挨拶すらできなかった昌宏。

それから、しばらく疎遠になってしまう2人。

季節がいくつも巡り、過ぎゆく時間とともに、2人の想いも消えようとしていたそのとき…

思いもしない形で2人は再会した。


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