2人の間を切り裂く現実
あの日から、もう2ヶ月近くが過ぎていた。
夏休みが終わり、まだまだ日中の暑さが厳しい秋の初め。
家に帰れば、必要最低限の言葉しか交わさない日々。
妻との関係は、話をすることはあっても、もはや会話のキャッチボールになっていなかった。
言いたいことはあるのに、どちらも相手の言葉を真正面から受け止めようとはしない。
ただ伝えるべきことを告げるか
──あるいは、一方的にぶつけて終わるか。
そんなすれ違いが、何気ない沈黙の中に溶け込んでいた。
実態はただの同居人──
けれど、法的にはまだ“夫婦”だった。
その重さを、あの日以来ずっと背負い続けている。
優衣のことを思い出すたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。
“あの時間”がたしかに存在したことが、甘さと痛みをないまぜにして残っている。
ある朝、自席で午前中の会議資料を整理していると
「おはようございます」
優衣だ。ちょっと驚いた。
久しぶりに会った彼女は笑っていた。けれど、それは、よく知っている“表の顔”だった。
「おはようございます」
顔をちょっと背けてそう返す自分の声が、少しだけ硬く感じた。
何でもないふりをするしかなかった。
──人の目があるから。
それだけじゃない。
見つめすぎれば、心が揺れてしまうから。
久しぶりに会うことができたのは、半期に一度の全体部会が開催されるためだった。
もちろん、今日はオンラインでも問題なかった。だが俺は立場等色々、出社せざるを得ず──
「今日はどうしたの?」
昌宏がわざとらしく聞いてみる。
「オンラインでは何かと色々難しかったので…」
優衣のはっきりしない言葉の奥に、ほんのわずかな気配を感じた。
まるで、会いたい気持ちを、ぎりぎりのところで抑えているかのような──そんな気配。
結局彼女とはあの日以来、職場の外で一度も会っていなかった。
会いたいのに、会う理由が見つからない。
近況を聞いてみたくなり、何度かメッセージを送ろうとしたが、
言葉が見つからず、いやある意味勇気が出なくて送れなかった。
昼休み、カフェテリアで佇んでいると、優衣がそっと声をかけてきた。
「真壁さん……あの、少しだけお話できますか?」
思わず顔を上げると、彼女はうつむき加減に視線をそらしていた。
「……うん。ちょっと外に出ようか」
「はい…」
社屋の裏手、建物の影に並んで立つ。
アスファルトにはまだ熱が残り、湿気を含んだ風がゆっくりと吹き抜けていく。
遠くから車の音が、かすかに聞こえていた。
なかなか言葉が出てこなかった。
話すべきことは山ほどあるのに、声にすること自体がどこか怖い──
そんな沈黙が、互いを包んでいた。
やがて、優衣がぽつりと口を開いた。
「……この前のこと…。私は後悔してない。してないけど……ね……でも怖いの」
「怖い?」
「うん。自分の気持ちが、どうなってるのか、わからなくなってきて。ああいうの、ずっと避けてきたのに……。
それに、息子にもバレたらって思うと……ゾッとするの」
「……そうか。勘が鋭いんだね、息子さん」
「うん。最近ちょっと様子が変で。口には出さないけど、私の顔をじっと見るの。
まるで“何かを感じてる”みたいに」
優衣の声がわずかに震えていた。
その横顔には、疲れがにじんでいた。
けれど、どこか凛とした強さも感じられた。
「……俺も、正直、どうすればいいのかわからない。
妻とはもう……家族という感じじゃない。
でも、それを理由に、誰かを傷つけていいのかって、ずっと考えてる」
優衣に真壁家の家庭状況を、これまで細かく話したことはなかった。
けれど、その苦しみを察してくれていたのだろう。
話している間優衣は、ただ黙っていた。
その沈黙には、言葉以上の想いが詰まっていた。
優衣が俯きながら、少しだけ顔を上げて
「もっとちゃんと……昌宏さんとまっすぐ話せるようになりたい」
「……うん。俺も、優衣とまっすぐ向き合いたい」
その瞬間、ふたりの目がわずかに合った。
けれども、すぐに逸れる。
交わりかけた視線には、言いかけて飲み込んだ感情が滲んでいた。
優衣はほんの少し唇を噛み、視線を落とす。
俺もまた、息をひとつついて空を見上げた。
切なさだけが、確かにそこにあった。
言葉にならない“現実”が、じわじわと二人の距離を引き裂いていく。
それでも、完全に離れる勇気も、近づく強さも持てないまま──
不安定な日々が、ただ静かに、淡々と過ぎていった。
次回は「しばしの別れ」
支社への異動が決まった優衣。
それを知って衝撃を受けるも、何もできないもどかしさが募る昌宏。
2人はもうこのまま終わってしまうのか?