第1章 エピローグ ー無言の帰路ー
シティホテルを出たとき、ふたりはただ黙っていた。
無言のまま、足をそろえるようにして建物を後にする。
夜の気配はもう濃く、街のビルの輪郭が暗い群青に沈んでいる。
まだ湿り気を帯びた空気が、肌にまとわりつくようだった。
街灯に照らされた濡れたアスファルトが、ところどころ白く鈍く光っている。
駅までの道のりは短いはずなのに、いつもより長く感じられた。
ふたりは並んで歩いていた。
だが、どちらも顔を向けることができなかった。
ほんの少し手が触れそうな距離――それが、やけに遠く感じられる。
言葉を交わそうとしても、喉の奥に詰まったまま、何も出てこない。
それでも足を止めることはなかった。
止まってしまえば、何かが崩れてしまいそうで。
そして、改札の前で小さく立ち止まると、
彼女は視線を落としたまま、ほんの少し唇を動かした。
「……じゃあ、また会社で」
「……うん」
それだけを交わして、彼女はゆっくりと改札へと歩いていった。
振り返ることはなかった。
昌宏もその場に立ち尽くし、自分の足元に落ちる影を見つめていた。
手のひらに残るぬくもりだけが、現実の名残のように漂っていた。
週が明けた。
ふたりは、また職場で顔を合わせるはずだった。
何事もなかったように挨拶を交わし、いつもの仕事に戻る。
そのはずだった。
けれど──
翌日も、翌週も、そのまた翌週も。
優衣の姿を、オフィスで見ることはなかった。
体調を崩したのか、在宅勤務が増えたのか。
出社予定を見ても、曖昧なままだ。
もしかしたら、わざとずらしているのかもしれない――そんな考えが頭をよぎる。
ただ、理由はわからない。
言葉も、気配も、急に届かなくなっていた。
メッセージを送ろうとも思ったが、やめた。
どうしてる?なんて言うのも違うし。
隣の彼女の机が気になって仕方なくなった。
そこにあるのは、整えられたままの誰もいない席。
忘れ物ひとつない、静かな空白。
昌宏は、小さく息をついた。
思い出すのは、あのとき彼女が見せた、怯えるような眼差し。
そして、震える手で差し出された、あたたかな掌の感触。
それだけが、まだ、胸の奥に残っていた。
けれど、今やその距離は、目に見えない静けさのなかで、
少しずつ、確かに、ふたりのあいだを裂きはじめていた。
まるで、どこか戻れない場所へ、ゆっくりと引き離されていくように。
今回で第1章は完結です。
次回からは第2章「それでも、お互いを信じて」に続きます。
昌宏と優衣を、引き離そうとする様々な現実。
お互いへのやさしさのあまり、もどかしいやり取りをする2人。
そして困難を乗り越えて、苦しみながらも本当の愛をつかもうとする2人の物語。