表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やわらかな光のなかで  作者: 冬木真人
静かな渇き ―境界線の向こうにあるもの―
12/15

やわらかな光に溶けていく

長引く梅雨空のその日、午前中はいつもと変わりない在宅勤務だった。


社内チャットに返信し、定例ミーティングで少しだけ発言して、午後には資料の見直しに集中していた。

天気は冴えない曇り空。窓の向こうでは、湿った空気が忙しなく抜けていく。


もう夏だというのに、スッキリしないどこか冷え冷えとした空気がまとわりついていた。


──何も起きない、いつもの一日。


……そう思っていた。篠原からあのメッセージが届くまでは。


「突然ごめんなさい……少しだけ話がしたいです」


ちょうど急ぎの資料を作っていた俺は、取り急ぎ


「もう少しだけ待ってもらっていい?」


と返信したが、すぐに返信があり


「その…なんていうか2人きりで話がしたいです」


「絶対に誰にも会わないところがいいです」


「明日なんて急には絶対に無理ですよね…」


「無理なら気にしなくていいです」


短い文面だが、連続で切迫感のある文面。


え?明日?


けれどその文字の奥に、静かな揺れと、抑えきれない何かが滲んでいた。


慌てて明日の予定表を確認すると、篠原は珍しく終日有休を取得したことに気づき驚いた。

俺は、予め決まっていた予定を全て調整し、明日午後から急遽有休を取得することにして、篠原に伝えた。


「無理をいって本当に本当にごめんなさい…」


「いいよ、大丈夫だから」


彼女が指定してきたのは、会社でも駅前の喫茶店でもなく、市街地のシティホテルだった。

高級というほどではないが、落ち着いた佇まいのある中堅クラスのホテル。


ロビーは午後の中途半端な時間帯で、フロント前に人は少なかった。

観葉植物の影に、白いカーディガンを羽織った彼女の姿があった。

足元はヒールのない靴。

ベージュがかったタイトなニットロングワンピースが、細身の彼女にはよく似合っていた。


両手を前に重ねたまま、所在なげに佇んでいた彼女が、こちらに気づく。


「真壁さん…」


「本当にごめんなさい。無理をさせてしまって…」


「でも……来てくれて、ありがとうございます」


「どうしても話がしたいって君に言われたら…来ないわけなんてないよ」


ふたりの間に、笑顔はなかった。でも目だけは確かに合った。

そこには、揺らぎと、問いかけと、それでも向き合おうとする気配があった。


フロントで淡々としたチェックイン後、部屋のカードキーを手に、静かなエレベーターに乗った。

無言のまますっと上がっていくその時間が、異様に長く感じられた。



エレベータの先の廊下はしんと静まり返っていた。

先に部屋に入ったのは、篠原だった。


真壁がゆっくりと後を追い、そっと扉を閉め、鍵とドアロックをかけたとき──

最初にカチャと音がした瞬間、彼女の肩が一瞬だけ震えたのがわかった。


部屋の奥までは進まず、篠原は部屋の入り口近くに立ったまま、背を向けていた。

その細い背中のすぐ後ろに、昌宏は静かに立ち止まった。


重く、ゆっくりとした時間。窓際のカーテン越しに、くぐもった光が差し込んでいた。

湿気を帯びた曇天のせいか、部屋の照明はつけずとも薄暗く、その静けさが逆に、胸の内を強く照らしてくるようだった。


「ねえ、真壁さん」


「……なに?」


「わたし、ずっと……ずっと、自分の気持ちなんてないふりしてきたの」


その声は、ごくかすかだった。

でも、彼女がこの場所に来た理由がすべて詰まっていた。


「でもね、ふと気づいたら……そうやって…何年も何年も、自分の気持ちを置き去りにしてたって…」


昌宏は黙って、その言葉を胸に受け止めた。


「俺も同じだよ。……怖くて、踏み込めなかった。今だって……本当は、まだ怖い」


彼女の肩に、そっと手を伸ばす。

篠原は一瞬だけ小さく息を吸い目を閉じた。


「昌宏さんって呼んでいい?」


「…優衣」


触れて名字ではなく名前を呼ばれた瞬間、俺の中ですべてが静かにほどけていった。

俺も思わず、その名をこぼした。これまで2人きりのときでさえ、呼ぶことを躊躇していた名前を。



抱きしめたその体は、想像以上に細く、頼りなかった。

だが、体温と鼓動が確かにそこにあった。何よりも、そこに彼女が「いた」。


「……お願い、離さないで、昌宏さん」


その言葉が、心の奥を貫いた。

声は震えていた。でも、真っすぐだった。


抱き寄せた腕に、わずかに力がこもる。

そのあとは、もう何も言葉はいらなかった。

渇いた地面が水を吸うように、長い間閉ざしていた感情が、じわじわと染み渡っていった。



すべてが終わったあと、ふたりはしばらく、言葉を交わせずにいた。

それは、すべてを伝え終えたあとの沈黙だった。


優衣は、小さく肩を震わせ、目を腫らしながら泣いている。

けれど――そんな彼女の不器用な強がりを、昌宏は咎めるでもなく、ただ静かに頷いた。


「無理しないで。嫌だったなら……ちゃんと言って」


その言葉に、優衣はゆっくりと目を伏せる。


「ううん。嫌じゃない。……むしろ、なんだか、安心してる」


不思議だった。

2人が1つになって――心の奥に触れられたような、そんな感覚が胸に残っている。


「……あたし、ね。ずっと……どこかで諦めてたの。

誰かとちゃんと心で繋がれるなんて、もう人生ではないだろうなって。信じられなかった」


「……」


「でも、あなたといると、そういうのが少しずつ……崩れていくの。

怖いけど……でも、うれしい」


昌宏は何も言わず、ただ優衣の髪をそっと撫でた。

その手のひらの温もりが、全身に沁みわたっていく。


「俺も、だよ。……君と一緒にいると、自分が変わっていく気がする。

少しずつだけど、確かに」


やがて、優衣は彼の胸にそっと額を預ける。

鼓動の音が近くて、あたたかくて――涙が出そうだった。

だけどその涙は、きっと悲しみのものじゃない。


長い間、誰にも見せなかった心の奥。

そこに触れてくれた人がいた。

同じように、迷いながら、傷を抱えながらも……そばにいてくれる人が。


「……ありがとう」


優衣のかすれた声が、しんとした部屋に滲んだ。


唇を重ねることに、もう戸惑いはなかった。

ただ優しさだけがあって、それだけで十分だった。



「もう、いいんだよ」


優衣の心の中で、誰かがそう言った。たぶん、それは自分自身の声だった。


ぬくもりと呼吸と、名を呼ばれる声。

その全部に包まれて、優衣は、ただ静かに涙を流した。

そして、自分の心の底にあった声が、自然と浮かんできた。


──本当は、ずっと触れてほしかった。

──本当は、ずっとそばにいてほしかった。


そして、そのぬくもりを失うのが、すでに怖かった。


大人として、母として、同僚として。

ずっと守ってきた「正しさ」の殻が、いま、昌宏の熱に優しく溶かされていく。

身体が反応しているのではない。ただ、ようやく心が許したのだ。


「……来てくれて……私のことを愛してくれて… 本当にありがとう」


それは声にならない心のつぶやきだった。

言葉に出せば泣いてしまいそうで、唇を噛むことで精一杯だった。



昌宏はそっと額を重ね、何度も彼女の名を心のなかで呼んだ。

言葉にできなかった想いが、鼓動のひとつひとつに込められていく。



ふたりは再び沈黙した。けれど、それは重さではなく、確かさのある静けさだった。


昌宏はそっと、優衣の手を握った。

それだけで、また胸が熱くなる。


やがて、別れの時間が近づくのを感じながら──

それでも、まだ手を離せずにいた。


ーーやっぱりまだ離れたくない。


触れた手の温度に、しっかりと握られた手のようにふたりの心がしがみついていた。

季節の終わりのような曇天の下、

ほんのわずかな時間だけ、ふたりは確かに、同じ場所にいた。


次回は、第1章のエピローグ。

2人のその後。

そして物語は第2章へ続く。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ