2度目の小さなチャンスと偶然
春の風が、少しずつ冬の冷たさを溶かしていく、3月だった。
会社の外で誰かと偶然出会うなんて――そんなこと、滅多にあるはずもない…というか考えもしなかった。
週末の土曜日、郊外のショッピングモールの書店で文庫を一冊手に取り、レジを済ませた帰り道。
ふとモールの出口を出たところで、視界の端に見慣れた横顔があった。
「……篠原さん?」
彼女は驚いたように顔を上げた。
それは、久しぶりに見る“仕事モード”ではない彼女の表情だった。
「あ……え?真壁さん……どうしてここに?」
「ちょっと本を見たくて。そっちこそ?」
彼女は少し照れくさそうに視線をそらしたあと、
一緒にいた少年の背中を軽く叩いた。
「この子の進学先の説明会。4月から高校生になるんですけど、いろいろ準備が必要で」
「ああ……そっか。今、ちょうど春休みか」
「はい。あ、紹介します」
そう言って、彼女は少年の肩に手を置いた。
「この子、高校一年生になったばかり。名前は──まあ、それはいいか」
冗談めかして言いながら、彼女は少しだけ照れて笑った。
少年──彼女の息子は、俺に軽く会釈した。
どこか、彼女の面影を残す優しい目元と、口元のあどけなさが、不思議にまぶしく見えた。
「こんにちは。…えっと……いつもお世話になってます。って言えばいいのかな」
その一言に、思わず笑ってしまう。
「いや、俺こそ。お母さんにはいつも助けられてるよ」
「……お母さんって呼ばれるの、なんか全然慣れないんですよ。こんなに大きくなっても」
優衣がそう言って笑う姿に、ほんの一瞬だけ、いつもの職場の彼女とは違う顔があった。
少し肩の力が抜けて、でもどこか切なげな、母としての静かな表情。
「じゃあ、また……来週」
「はい、また会社で」
それだけの会話だった。
でも、胸の奥に、なぜかあたたかなものが残った。
数日後の昼休み。
気づけば、篠原と出会って、もうすぐ二年になろうとしていた。
昼休みに並んでランチを取り、食後にカフェテリアで向かい合って話すことも、
いつのまにか自然な流れになっていた。
それが偶然かどうかは、もはや考えることさえなくなっていた。
いつものカフェテリアで、2人だけの席に座っていたとき、彼女がぽつりと切り出した。
「この前の偶然、ちょっと驚きましたね」
「俺も。まさかあんな場所で」
「……あの子、帰り道にぽつりと言ったんです。“あの人、お母さんのこと、好きなんじゃないの?”って」
一瞬、手が止まり言葉が出なかった。
「……で、なんて答えたの?」
「“違うよ”って、即答しちゃった」
苦笑しながら言うその声が、どこか寂しげだった。
「でも、あの子、続けてこう言ったの。“なんだ…そうだったらよかったのに”って」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて彼女は、手元の紙ナプキンを指先で折りながらつぶやいた。
「……この年になると、誰かを“好きになる”って、少し怖いね」
「うん。期待もできないし、傷つく余裕もないし」
「でも、忘れたくない気持ちも、あるんだと思う」
そのとき、ようやく気づいた。
「小さなチャンス」って、たぶん、劇的な出来事じゃない。
何気ない偶然とか、ふとした一言とか。
そんな些細なことが、壊れそうな距離をつなぎとめてくれている。
あの日の、ショッピングモールでの偶然。
彼女の息子の何気ない一言。
そして、彼女が語ったためらいと少しの願い。
どれもが、俺の中で“想い”を再燃させていた。
気づけば、春の風がカフェテリアの窓の外を吹き抜けていた。
次に訪れるチャンスが、“偶然”じゃなくなることを、
どこかで願っている自分がいた。
次回は「抑えきれない思い」
ついに真壁の抑えていた想いがあふれてきて…。