プロローグ
この物語は、偶然のようでいて必然だった出会いから始まる、ふたりの大人の再生と成長の記録である。
キャリアの節目を迎え、自分の居場所や関係性に改めて向き合おうとする男性・真壁昌宏。
子育てや仕事に追われ、いつの間にか「自分自身」を置き去りにしてきた女性・篠原優衣。
彼らが出会ったのは、春先の何気ない朝だった。
新しい部署、新しい年度、新しい人間関係――。
日々の繰り返しの中に紛れる“偶然”の重なりが、やがてふたりに変化をもたらしていく。
特別ではない日常の中で、ふと誰かの存在が心に灯る瞬間。
それは、人生の軌道をほんの少し、けれど確かに変える力を持っている。
この物語は、そんなふたりの静かな邂逅と、その先に続く心の旅路を描く。
まだ、少し冬の名残が残る三月の朝だった。
真壁昌宏はコートの襟を立て、歩道橋の上で立ち止まった。
風が通り抜け、前を留めず羽織ったままのコートの裾をふわりと持ち上げる。
見上げれば、雲の切れ間から一瞬だけ陽が射した。
部署異動の内示を受けてから、眠りが浅い日が続いていた。
もう驚くような年齢ではない。それでも、環境が変わるということは、
気づかぬうちに積もった自分のルーティンの地層を剥がす作業だった。
リモートワークが定着した今でも、週に数日の出社は避けられない。
ましてや今日は、異動先での顔合わせがある。
足取りは自然と重くなる。
人間関係は、最初が肝心。
それは若い頃より、ずっと身に沁みていることだった。
ほんの一言やちょっとした間合いが、のちの関係に長く尾を引く。
だからこそ、言葉の選び方にも、空気の読み方にも慎重になる。
無理をしないように見せながら、相手に合わせる呼吸を探っていく──
いつの間にか、それが“大人の距離感”になっていた。
それは、自信の裏返しではなく、経験が教えてくれた“余白”のようなものだった。
一方その頃、篠原優衣はすでに朝の仕事を終えていた。
早朝の台所で息子の弁当と朝食を用意し、見送るのがいつもの習慣。
思春期の息子とは、言葉少なに交わす挨拶だけ。
けれど、たとえ短くても、その一言があるかないかで
一日の輪郭が少し違ってくる気がした。
「行ってきます!」と声だけ残して、息子が玄関を飛び出していった。
食べかけの朝食、空いたコップ、椅子が少し斜めに引かれたままの食卓。
戻ってきた静けさが、耳の奥で少し遅れて広がる。
彼女は立ったまま、ふとその光景を見つめた。
急ぎ足で過ぎていった朝の気配だけが、部屋に取り残されている。
誰かに頼るでもなく、自分の手で整えてきた毎日の風景。
それはもう、生活というより“習慣”に近かった。
洗面所の鏡に向かう時間も、決まった手順の繰り返し。
その合間にも、仕事の段取りが頭の隅で静かに動いている。
でも時折、その中に紛れる“自分の顔”に、ふと戸惑うことがある。
今の私は、誰として今日を始めるのだろう――と。
そんなふたりが出会ったのは――
新しい年度が静かに始まった、ある朝のこと。
偶然、だった。
それはただの異動であり、ただの配属であり、
ただの新年度の始まりのひと幕だった。
でもきっと、人生が大きく動き出すときというのは、
そんな「ただの」の積み重ねから始まるのだ。
名前を知り、表情を知り、
それぞれの歩いてきた時間の重みを知っていくなかで、
ふたりの心は、少しずつ、静かにほどけていく。
これは、偶然の出会いから始まった物語ではない。
ふたりが出会うために、それまでの日々があった――そう思えるような物語だ。
心の奥に、ひとつの灯のようにともっていた想い。
名前も形もなかったそれが、やがて愛となり、人生となり、
静かに、けれど確かに、ふたりの世界をかたちづくっていった。
気づけば、その人のいる時間が、日々を照らす光になっていた。
そしていつしか、その人のいない未来が、想像できなくなっていた。
これは、ふたりで歩いた長い旅の記録。
出会いが、人生のすべてへと育っていった、その証。
本作は、ひとつの静かな始まりを描くところから幕を開ける。
春先の空気のように、少し肌寒く、それでいてどこかやわらかい。
そんな雰囲気の中で、ふたりの人物が交差する場面から、物語はそっと歩き出す。
劇的な運命や偶然の衝突ではないかもしれない。
けれど、日々の生活のなかに潜む「ささやかな転機」こそが、
人の心を揺らし、これまでの風景をほんの少し違って見せることがある。
この物語は、そうした変化の兆しに耳を澄ませながら進んでいく。
大人として日々を生きるなかで、他者との関係をどう結びなおし、
どのようにしてもう一度「誰かを想う心」を取り戻していくのか。
それは決して特別な物語ではない。
だからこそ、どこかにいる誰かの気持ちに、そっと寄り添えるのかもしれない。
これから始まる物語の旅路に、どうか静かに心を預けていただきたい。