09 元カノ
昼休みが終わってすぐの午後一の時間、アリスはその書類を持って、足早に竜騎士団が使う大部屋へと向かっていた。
今日は珍しく午前中に出勤しているはずのゴトフリーが一度も窓口に来なくて、そのことが気になってしまって、全然仕事に身が入らなかったのだ。そして、竜騎士団関係の書類をひっくり返し、まだ期日まで間に合うが、団長印が抜けているものを探し出して仕事場から飛び出して来た。
しばらくその目的の部屋の前で往生際悪くうろうろとしていたけれど、大きな扉の前でよしと決心してノックをしようとしたその時、いきなりそれが開いた。アリスは目の前に現れた大きな体に驚いた。
「……おわっ、ごめん。あれ? アリスちゃん? どうしたの?」
飲み屋でも会っているエディ・ベイトマンだ。不思議そうな顔をして自分を見下ろしている背の高い彼にアリスは、慌てて持っていた書類を差し出した。
「あのっ、あの、この書類、団長印抜けてて」
エディはその書類を受け取ると、アリスの指さす箇所を確認してから頷く。
「あ、ほんとだな。あの人、毎日大量の書類を処理しているから、たまに印を忘れるんだよな。ちゃんと渡しとくよ、わざわざ届けてくれてありがとう」
にこにこと笑ってくれたエディの後ろに見える大部屋の中にゴトフリーの姿を必死で探した。「ではよろしくお願いします」と去る場面であることはアリス自身が一番良く分かっていた。
彼を一目見たら帰るんだから、そうちょっとした仕事のついでに。
(もうっ……どこにいるのよ。早く見つけなきゃ、変に思われちゃう)
エディはそんなアリスの視線を辿ると、にやっと笑ってから確認するように部屋を見回すと、首を傾げてから部屋の中に声をかけた。
「おい、誰かゴトフリーが、どこ行ったか知らないか?」
その声にすぐ傍を歩いていた黒髪のナイジェルが立ち止まり、エディに意図を悟られて何も言えなくなり顔が真っ赤になっているアリスの姿を認めた。にこっと明るく笑いかけながら扉の前で立っている二人の元へと近づいて来た。
「アリスちゃーん、久しぶりだね。ゴトフリーなら午前中の鍛錬で心ここに在らずだったから、団長に怒鳴られてさっきまで一人で訓練場に居残りしてたんだよね。今は遅い昼飯を食べに行ってるんじゃないかな」
アリスはその話を聞いてしゅんと俯いた。そこまで彼を落ち込ませたのは、紛れもなく昨日の自分の発言だし、大事な仕事にまで影響させてしまうなんて本当になんてことをしてしまったんだろう。
そんな様子を見て、エディとナイジェルは顔を見合わせた。
「あいつ、昼飯何処で食ってるんだっけ」
「多分中庭だろ。いつも弁当持ってきてるし」
「アリスちゃん、せっかくこんな所まで来てくれたんだし、ゴトフリーに会ってやってよ。なんか朝から暗かったんだけど君の顔みたら元気になるだろうしさ」
「そうだよ、あいつ、いつも同じ場所で食べてるから。俺達が案内するよ。それにすぐそこだから」
優しい言葉をくれた二人が大きな手で背中を押してくれるから、アリスはこくんと素直に頷いた。
それを見てほっと息をついて顔を見合わせると、エディとナイジェルは、軽口を叩き始めた。
「アリスちゃん、ほんとに久しぶりだよね。あいつ嫉妬深いから大変だろ?」
「そうそう、アリスちゃんのところに行く理由が欲しいから書類を代理で持って行ってるしな、まぁ俺はあいつに急かされて期日に間に合うから助かってるけど」
いかにも様子のおかしい自分に気を使ってくれているのが良くわかる二人の言葉に当たり障りなく答えながら、アリスは、彼に会ったら何を言おうか悩んで頭の中が渦を巻いていた。
(そうよ、まず最初は挨拶して、それと昨日のお礼言って……)
すぐそこだというその言葉の通り、ゴトフリーが膝に弁当を乗せて座っていた場所にはすぐに辿り着いた。
ただ彼は一人ではなかった。女官の制服を着た美しい女性が、ゴトフリーの隣に座って、彼の話を聞いて楽しそうに肩を震わせていたのだ。
アリスはその光景を見た途端に足を止め、左右の二人もつられるように立ち止まった。
「……げ、あれ、ゴトフリーの元カノじゃん……」
「おい、エディ」
気まずい沈黙の中、ぽろりと思わずこぼしてしまった様子のエディの言葉をナイジェルが窘めた。
思わずくるりと振り返ってアリスは元きた道を黙って戻りはじめた。それを慌ててエディとナイジェルが追いかける。
「アリスちゃん、大丈夫だよ。あいつあの彼女には二股かけられて別れてるから、復縁とかは絶対有り得ないと思うし…」
「おい、エディ! お前本当に、それ以上何も言うな!」
フォローになっていないフォローを聞いてから、何も言わないままに廊下をぱたぱたと音をさせて走りはじめたアリスを、二人はそれ以上追わなかった。
◇◆◇
いきなり血相を変えて自分の持ち場に現れたアリスに動じることなく、偶然その場に居た自分の上司である女官長に冷静に早目の休憩を申し出たリリアは、アリスを連れてガランとした食堂の隅に座り、また黙ったまま、とりとめのないアリスの言い分を聞いてくれた。
「別れた元カノって言っても、会ったら普通に話すことくらいあるんじゃないの」
「でもっ……でも、隣に座ってすごく楽しそうにしてたんだよ」
言い募るアリスを見てリリアは片眉を上げた。
「アリスがそう望んだんでしょ。自分とお付き合いしたいっていう男性を袖にし続けているのはアリスよ。今アリスは元カノともう親しく話さないでっていう権利もないんだから、不満に思っても何も言うことは出来ないわね」
そんなことはアリス自身、一番良くわかっていた。あの光景を見てすごく嫌な気持ちだったけれど、それを何の約束も交わしていないゴトフリーにぶつける権利はないとわかるくらいには分別はついていた。
「……ゴトフリーがあの子とまた付き合ったらどうしよう」
「あのね、悪い方向に考えていると、だんだんとそうなるわよ、逆に良いように考えてみたら? アリスの世界を作っているのはアリス自身だもの」
「でも……でも」
明らかに悪い方向に考えすぎて言葉を失ってしまったアリスが落ち着くまで待ってから、リリアは言った。
「アリス、私ね。人間、結局納まるべきところに納まると思うの」
急に話を変えたリリアにアリスは何が言いたいかわからなくて首を傾げた。
「めんどくさい女のアリスと、めんどくさい人をお世話するのが嫌いじゃない私がこうやって友達になっているのは偶然じゃないってこと。どうせ結局いずれはそういうめんどくさいアリスでも良いって言ってくれているゴトフリーさんと付き合うんだから、意地張らないでさっさとくっつきなさいよ」
もちろん自分でもわかってはいたけどめんどくさいってやっぱり思われたことを知って、アリスは口を尖らせた。
「……絶対から回ってる私の事面白がってるでしょ」
ふふっとリリアは優しく笑う。
「そうじゃないとは言えない。だってどういう思考回路だったら、アリスが言うとんでもな結論にたどり着くのか、本当に謎だもの。自分と考え方が全然違う人って本当に面白いわよね」
肩を竦めたリリアは時計を見て立ち上がった。
「そろそろ仕事に戻らなきゃ。また続きは仕事終わりにご飯食べながら聞いてあげるから、定時に迎えに行くわ。アリスも室長が甘いって言っても限界あるんだから、ちゃんと仕事しなさいよ」
てきぱきと指示をしたリリアに頷いて彼女の後に続いて立ち上がって歩き出すと、アリスはさっきからちょっと気になっていたことを聞いた。
「ねぇ、ダニエルってめんどくさいの?」
「アリスが可愛く思えるくらい、ものすごくめんどくさいわよ。まぁそこが良いんだけどね」
優しく笑いながら肩をすくめたリリアを見て、いつかあのゴトフリーもめんどくさい自分のことをこんな風に言ってくれる日が来るように、なるべく良いように考える努力をしようと心に決めた。