06 憧れ
アリスは窓口業務が落ち着いた午後、月末の締め日に向けて書類をまとめていた。今期は年度末の数字合わせもあるから、そろそろ泊まり込み作業も多くなる。
もちろんそれでお金をもらって生活している訳だから、仕方ないと割り切ってはいるけれどまた家でゆっくり出来ない程の多忙な日々が続くと思うと憂鬱な気持ちもあった。
とんとんと室長に提出する書類を揃えると、次の束へと取り掛かった。その時一枚の紙がはらりと机から落ちて慌ててそれを追いかけた。
(あ、ゴトフリーのこの前の遠征費用を精算する書類だ)
その名前を見ただけでときめく気持ちのことは、もう無視しないことにした。そう、アリスはあの飲み屋で五人の竜騎士と会うもっともっと前からゴトフリーのことを知っていて、時折書類を持って来てくれる彼の笑顔に癒されていた。
でも、彼は竜騎士の肩書を持ちあの整った容姿だ。自分など相手にされることはないと最初から諦めていたのだ。
最初に彼を意識し出したその時を、アリスははっきりと今でも覚えていた。
偏見なのかもしれないし、もちろん例外が居ることは知っているが、主に肉体労働を仕事とする騎士の文字は読みづらくとりあえず必要なことを書けば良いという、自分勝手な性格が透けて見えるような書類が多かった。
(なんなのよ、こっちは古代文字の解読担当じゃないのよ。せめて誰かが読める字で書きなさいよ)
虫が這ったような文字と添付されている領収書や請求書を照らし合わせて、アリスはなんとか仕事を進めていた。個人の遠征費用などを精算する際は個人の口座に入金するだけで済むが、商会などにいわゆるツケで購入しているものなどは小切手などを手配して支払わなければならない。
どんなに汚い文字だろうがきちんと上長の判が押された必要書類を提出している以上、支払いが滞ればこの仕事をしているアリスの責任になる。どうしても読めない場合は部署まで送り返したり本人を呼び出し話を聞き取りしつつの作業になるが、振り込みには期日もありその手間が惜しかった。
そして、かなりの時間をかけてある難読書類に打ち勝った後で大きく息をつきながら、それをめくって次の書類に取り掛かろうとした、その時だ。
(え、何。今まで見たこともないくらい、めちゃくちゃ綺麗な文字)
その書類はまるで文字を書くことが仕事である代筆屋で頼んだような流麗な文字で書かれ、しかもきちんと枠内に全て収まるように文字の大きさまで計算し尽くされていた。言葉もなくじっとその書類の文字に見入っていたが、こんな文字を書くのは誰なのだろうという軽い気持ちでその名前を目にした。
「ゴトフリー・マーシュ。竜騎士かぁ」
思わずこぼれてしまったちいさなその呟きは、月末が近く戦争のような様相を繰り広げている同僚たちのがやがやとした喧騒にのまれて誰の耳にも届かなかった。
その美しい文字を書く名前の人は誰なのだろうか。そんな気持ちはアリスの心に、ぽつんと突然落ちて波紋を広げた。
そしてその機会は皮肉にも、隣国と戦っていた時にあった。長い戦いの中、戦闘能力が高く前線に配置される竜騎士は基本出ずっぱりだ。だが、戦場からすぐに移動出来る手段を持つ竜騎士は、交代で帰って来る時ももちろんある。
「はい、これよろしくお願いします」
黒い竜騎士服を身に纏い、にこっと大きな体に似合わない可愛い笑顔を見せてくれるその人の書類の中にある名前を見た時、この人こそが、あの美しい文字を書くゴトフリー・マーシュだとそう思って、まるで自分だけの特別な宝物を見つけたような気がしてアリスは嬉しくなった。
「確かに受け取りました。お疲れ様です」
日付の受領印を押しながらいつものお決まりの言葉を言っているはずなのに、その人にだけ、特別な笑顔になっているのを知っているのは、きっとアリス本人だけだ。
こんな勉強をするしか能がない自分には手の届かない、憧れの人だと、ずっとずっとそう思っていたのだ。
◇◆◇
アリスは泣きそうになっていた。
銀行に渡す書類を持って午後の配達便を頼もうと通信室のところまで行こうとしたら、体の大きな浅黒い肌の男性にいきなり肩を掴まれて、訳の分からない外国語で強い調子でまくし立てられはじめたのだ。
(訛りも強くて、なんて言ってるか本当に分からない。何処の言葉なんだろう)
その外見から察するに間違いなく、異国の人だ。今大陸から来ているというアイザスの使節団の一人だろうか。
「ちょ、ちょっと、あのごめんなさい。言葉わからないです」
アリスが習得している近くの国の言葉を話してはみたが、知っているかぎり片言で言っても全然通じない。どうしようどうしようと周囲に視線をさまよわせるけど、こんな時に限って誰も通らない。そして廊下には必ず一人は衛兵が配置されているはずなのに何かの用事を片付けているのか、いない。何もかもタイミングが悪すぎた。
どんどんその人の言葉の調子はきつくなるばかりで、持っていた書類を抱きしめて溜まっていた涙をこぼしそうになった。その時に大きな黒い背中がアリスを守るように立ちはだかった。その見覚えのある蜂蜜色の髪を見てアリスはほっと息をつく。
ゴトフリーだ。
彼の独特な優しい低い声で、異国の言葉が紡ぎ出されるのを不思議な気持ちで聞き入った。そして浅黒い肌を持つ異国の人は、彼の言葉に頭を下げると慌てて走って行ってしまった。
「アリス、また泣きそうになってる」
振り返ってくすっと笑ったゴトフリーの言葉に、彼にお礼の言葉を言おうとしていた口はすんでのところでむっとした言葉を言った。
「なってないから」
「俺以外の男の前で泣いちゃ駄目だよ」
その言葉になぜかあの時だけ意地悪になる優しいはずの彼の見事な肉体を思い出してしまって、アリスは赤くなってしまった。
「も、もうっ……からかわないで。さっきの、どこの言葉なの?」
「んー、今使節団が滞在しているアイザスの隣にあるサルータっていう砂漠のある国。多分使節団にお供に付いてきた人が慌ててしまって母国語が出ちゃったみたいだね」
「慌ててた、って?」
不思議そうに聞いたアリスに、ゴトフリーはにこっと笑う。
「漏らしそうになってたんだよ、必死でトイレの場所聞いてたよ。サルータ語の選択授業受けといて良かったよ。こんなものいつ使うのかよって思いながら、勉強していたけど、初めて役に立ったな。今アリスを助けられた」
そのゴトフリーの言葉にアリスはそれならあの勢いも理解出来る、と思った。知らない国に来ていてしかも仕事で来ている城の中だ。大失態を犯す事態にひどく慌ててしまうのも仕方ないだろう。
「あの……ゴトフリー、何カ国語出来るの?」
何気なく聞いたアリスにゴトフリーはなんでもないことのように、信じられないことを言った。
「俺は竜騎士の中では少ないんだけど、四カ国語くらいしか出来ないよ」
四カ国語くらい、しか? ぽかんとした表情で見上げるアリスにゴトフリーは言った。
「アリスは知らないんだね、竜騎士になる前段階に選ばれるには共用語以外の言語、三カ国語以上習得は必須なんだよ」
アリスは改めて目の前に居るこの人が幼いころからどんどん幅を狭めていく門を最後までくぐり抜けてきた人であることを実感した。
もちろん現に黒い竜騎士しか着れない服を身につけている訳だから、彼が竜騎士であることを理屈では分かっていた。けれど、そうなるまでに彼が努力をしていたことを自分は本当の意味ではわかっていない。
「ふ。信じられないって顔しているな、まぁ種明かしすると、他にもやらなきゃいけないことがあるし皆それだけに集中している訳にもいかないから、習得しやすい簡単な言語を選択するケースが多いよ。あとその国に興味を持っているとか」
「サルータ、興味あるの?」
「そうだね、砂漠の中に綺麗な遺跡がたくさんあるらしいよ。新婚旅行でいく?」
その言葉を無視してアリスは歩き出した。こんなに軽いことを言うゴトフリーなのに、ゴトフリーなのに。さっき助けてくれた時に、めちゃくちゃ格好よく見えたのは絶対気のせいだ。
「ごめん、冗談だよ。アリス、明日休みだろう? 俺も非番なんだ。良かったらデートしよう。アレックがそろそろ遠出したがってる」
アレックというと、彼の竜のはずだ。ゴトフリーの提出する書類にいつも名前があるから良く覚えていた。空を飛ぶ竜に乗ってどこかに連れて行ってくれる、ということだろうか。ゴトフリーと過ごせる素敵な休日と自分のちっぽけなプライドがせめぎあう。
やがて勇気を出してある決断を下すとアリスはちいさな声で言った。
「……良いよ」
「やっぱりダメか……って今アリス、良いよって言った?」
慌ててその長い足で追いつくと、視線を合わせないように歩くアリスの顔を覗き込んだゴトフリーに早口で言った。
「何度も確認するなら行かない。それに、これはさっき助けてくれたお礼なんだから、勘違いしないで」
赤くなっている顔を隠すように足元を見ながら、歩くアリスにゴトフリーは両手を上げた。
「わかってるよ、絶対勘違いしないしない。約束する。よし、せっかくだし美味しい弁当も頼まなきゃだな。ありがとう、アリス。また予定がまとまったら家まで迎えに行く時間を伝えに窓口に行くな」
本当に嬉しそうな笑顔でそう言う彼に、お弁当は私が作りたいって言いかけてやっぱり言えなくて、アリスは書類を抱き締めながら通信室へと向かう足を早めた。




