52 年度末
もうすぐ恐怖の泊まり込みの日々が続くことになる年度末前の計数室は、わかりやすく殺気立っていた。この書類がないここに判子がないと、いつもならなんとも思わぬようなことで、言い合いになったりするのだ。
アリスは口喧嘩している同僚二人を横目で見て、なるべくミスはしないよう、より気を付けようと誓った。
これからは深夜までの勤務が続き疲労が蓄積され、睡眠時間が足りないために極限状態になっていくのだ。いくら元は人柄の良い人でもいくつかの要因で追い詰められれば、人格が変わってしまう。
(はーっ……いつも通り、雰囲気が悪くなってきた。修羅場まで、もうすぐだもん……私も家に帰ったら、いつでも泊まれるように泊まりの準備をしておかないと……)
去年は使い慣れた石鹸を忘れてしまったために、髪のまとまりが悪く気になって仕方なかった。今年こそは、慌てて城に泊まらなくて良いように事前に準備しておこうと思うのだ。
新人だった時は人が変わってしまった先輩を見て衝撃を受けてしまったものだが、文官アリスも数回計数室が戦場になる年度末を乗り越えて来た。
二月ほど前から少しずつ準備を整え、大量の書類よ、いつでも来いという気持ちだった。
まだ開けている経費関係の書類受付窓口近くは、とても冷え込む。そんな時にアレックが贈ってくれた白くてふわふわの白い膝掛けは、アリスの足を冷気から守ってくれていた。
(アレック……アレック。プレゼントにくれた毛布、すっごく温かいよ……ありがとう)
人の心模様を見ることが出来るというあの不思議な生き物は、アリスの考えていることにも耳を澄ませていてくれるらしい。
だから、勤務時間中でアレックがプレゼントしてくれたこの毛布をすごく気に入っているという嬉しい気持ちは、今頃彼の心へと届いているだろう。
あの可愛いらしい竜がとても嬉しそうにしているかと思うと自然顔が綻び、殺伐した空気の中でもふふっと微笑んでしまった。
「アリスくん。お疲れ様だね」
不意に頭上から上司の声が聞こえて、アリスは書類に向けていた視線を上げた。
「サハラ室長。お疲れ様です。私……何か提出忘れしています?」
いまこれだけ計数室内が殺伐としている理由は、このサハラ室長の元へ集まる書類を同僚たちが作成しているということだ。
彼が確認する書類の枚数はアリスなどのような下っ端文官には想像も絶する数になるのだが、大方の数字を覚えた上でその書類に間違いがないかを見ているので、この国の中でも頂点に立てるほどに頭が良い人には間違いない。
そして、いま部下に何の用事もなく話し掛ける時間がある人ではないことは明白だった。
(な……何。叱られるようなことは、していないはずだけど……)
アリスはやましいことはしていないはずなのに、何か後ろめたい気持ちになった。
「あのさー。個人経費は何処の部署が、まだ出していないかなと思ってね。いつも期日を過ぎてから、駆け込みで持って来るだろう?」
確かにアリスの仕事は立て替え分を経費として提出してもらい、それを給金と共に返金するのだ。その金額が大きければ大きいほどに、決裁が遅くなりひと月後の支払いになってしまえば被害は大きい。
竜騎士ほどに俸給が高く金銭に困って居なければ、ひと月程度別に構わないとゆったりと構えていれば良いかも知れないが、平民より稼ぎは良いとは言っても城で働く者たちは生活水準も高い。
職務上で支出が出たならば、すぐにでも精算して欲しいはずだ。
「はい……そうですね。今年は割と皆さん優秀で、事前に遅れるから待って欲しいという知らせは少なかったです。あ……そういえば、近衛騎士団と王立騎士団は、部署ごと期日を遅らせて欲しいという要請は届いていましたけど……なんだか、珍しいですね?」
個人的に高価な精算を予定しているから、もう少し待って欲しいという要請ならば、例年アリスの元に良く届くのだが部署ごとというのは珍しかった。
(……どうしたのかしら。確かに騎士は、期日をあまり守らない人が多い……けど、真面目な人だって多いから、先んじて出してくれたりするのに)
戦闘職である騎士は書類提出に真面目な人と不真面目な人に、綺麗に分かれる。出来る人は期日の何日も前から出してくれるが、出来ない人はギリギリの提出になるか少し遅れてしまうのだ。
「あっれー、アリスくん知らないの? 久しぶりに闘技大会が、年明けに開催されるんだよ。このところガヴェアとの戦闘で開催を中断されていたけれど、今年は開催するっていう話だよ」
サハラ室長はいつになくウキウキとしてそう言い、アリスはそういうことかと頷いた。
王城にて開催の闘技大会となれば職務上、騎士たちは全員参加命じられるだろうし、鍛錬の時間もその分長くなるだろう。だから、前もって部署ごと遅れるという要請が届けたのだ。
どこの騎士団が闘技大会での優勝者を輩出するにせよ、その部署は一年間の名誉を得ることになるし、名誉は騎士である彼らが何よりも大事にするものだ。
本気になって優勝を取りに行きたいと思うことは、当然の話だった。
「あ……そうなんですね。闘技大会……! 私、多分文官になってから、初めて開催されるかもしれないです」
(あ。そういえば、前にゴトフリーも闘技大会のこと、言っていたような気がする……そっか、年明けに開催されるんだ~! ゴトフリーだって、もちろん出場するもんね……なんだか、楽しみだな)
アリスは自分の恋人が戦う姿を、もうすぐ間近で見られるかもしれないと気が付き胸をときめかせた。
ゴトフリーはただ居るだけであんなにも格好良いというのに、彼の本職である戦闘している姿は、彼に恋するアリスにとって、それはそれは格別に見えるはずだ。
「そうなんだよね~。アリスくんなら大丈夫だと思うけど、その関係で書類は遅くなる……遅くなるけど、もちろん年度末を動かすことなんて、出来ないからね……アリスくんは、重々に良くわかっていると思うけどね」
「わわわ! わかってますよ! 大丈夫です。前もって他の書類を処理しておけば、騎士団関連の書類提出が多少遅くなっても大丈夫ですから!」
念押しのように言ったサハラ室長の眼鏡の奥が不穏に光ったように思えて、アリスは慌ててそう言った。
(なっ……なるほど。私なんかにいま何の用だろうと思ったら、騎士団関連の書類が闘技大会で遅れるけど、期日を守るよう気を付けろよって警告だった! もー! 普通に言ってくれたら良いのに)
顔を引き攣らせたアリスが大丈夫と頷くと、サハラ室長はそこでにっこり微笑み、次に用事のある部下に話し掛けに行った。
王城の文官で管理職をしているくらいなので、とても優秀な人に間違いないのだが、変に部下を試すようなところがあるのだ。
アリスは手元にある書類を今一度整理して確認すると、そういえば竜騎士団も書類の提出が遅れているかもしれないと思った。
(けど、別に部署ごと書類が遅れるっていう、要請は出ていないんだよね……一応、竜騎士団も確認しておいた方が良いかも知れない……)
これは先んじて確認していた方が無難だろうとアリスは思い、席から立ち上がった。
ちょうど午後の休憩を取ろうかなと思っていたし、人と書類に埋もれる空間に長時間居ると、気分が滅入ってしまうのだ。
それに、アリスは少々の下心も持ち合わせていた。
(別に、良いよね……私はちゃんとした職務上の理由があって、竜騎士団に行くわけであって、ゴトフリーは昼番で今は出勤中であることは、ただの偶然だもん……)
偶然に、仕事をしている恋人ゴトフリーの姿が見れるかもしれない。アリスは緩みそうになる口元を引き締めながら、城の廊下を足取り軽く歩き出した。




