44 忘れ物
「あ! いけない! 私、忘れ物しちゃった!」
アリスは部屋を出てから通勤路を辿り初めてすぐ、眼鏡を忘れたことに気が付いた。
(いつもは職場に置きっぱなしにしているから、眼鏡屋さんに調整に出していることを忘れてた!)
眼鏡がなくとも日常生活には支障はないのだが、学生時代勉強をし過ぎたせいか近い距離だと文字がかすみ見えづらいのだ。
なくても仕事は成立するものの、計数室で一日の中相当量の計算をしなければならないとなると、取りに帰った方が良いと思われた。
「え……? そうなの? 取りに戻る?」
行き着く先は一緒なのだから共に出勤しようと彼女の部屋を出たゴトフリーは戸惑ったように言い、アリスは慌てて首を横に振った。
「大丈夫! ゴトフリー、先に行っておいて。遅れたら、怒られちゃうでしょう?」
ゴトフリーの所属する竜騎士団は規律に厳しく、それを破れば罰則が待って居る。しかも、誰かが違反すれば同期全員が罰を受けるという規則もあるのだ。
そんな彼にギリギリの時間になって通勤することになった、自分のことを待って欲しいとは言えなかった。
「わかった。気をつけてね」
「うん。大丈夫!」
心配性の彼に笑顔を返し、アリスは慌てて集合住宅にある家へと戻った。
鍵を開けて扉を開けてから、ついこの前に誘拐されてしまったことを思い出してしまった。
一瞬、背筋がゾッとして、誰も居ないとわかりつつも、周囲をつい確認してしまう。
あんな事件があったので、嫌な記憶が残るこの部屋から引っ越そうとは、一度考えたこともあった。
けれど、女性が多く安全で防犯に優れていることを売りにしていた大家が血相を変えて安全対策に乗り出したので、それならば、ここに住み続ける方が安全かと考え直したのだ。
引っ越し費用だって、馬鹿にならない。アリスは城で働く文官で貯金にも余裕があるが、出来るなら有意義なことにお金を使いたいと思って居た。
(そうなんだよね……引っ越しするなら、欲しかった物買ったり、ゴトフリーとの結婚費用にしたいし……)
これから結婚や子育てがあると思えば、無計画にお金を使うことは躊躇われた。
けれど、一人で帰宅した時にあの事を思い出してしまうのは、もう仕方のないことだった。
理性では『もう大丈夫』と納得しつつも、本能で『危険かもしれない』と感じてしまうことは止められない。
ゴトフリーと一緒に居れば、そんなことを思い出す隙間もないが、結婚するまで一緒には住まないと宣言しているので常時彼が居る訳でもない。
「はーっ……どこか違う部屋に引っ越し、しようかなあ? どうしよう……」
独り言を言ったアリスは机の上にある眼鏡入れを持ち上げて、鞄に入れると、部屋を出ることにした。
「引っ越しするの……?」
「わ!」
扉を開けた時に先に行ったと思い込んでいたゴトフリーが居て、アリスは飛び上がってしまいそうなほどに驚いた。
「俺と結婚するまで、ここに住むんじゃなかったの?」
「そっ……そうだけど……」
「言って。アリス。気になるから」
少々怖い目になってしまったゴトフリーに、逃げられないと悟ったアリスは大きく息をついて話し始めた。
「あのね。前のことがあったでしょう? 大家さんにもすごく気を使ってもらったし、あれから不審者なんて見ることもないし、防犯対策は良かったんだと思うけど……でも、さっきみたいに、一人で帰宅した時には怖くなってしまう時があるんだ。良い部屋だし、気に入っていたんだけど……」
言いづらそうに『ここを出て行きたい』と思った理由を話すアリスに、ゴトフリーは腕を組んで扉にもたれ掛かった。
(もーっ……早く城行かなきゃなのに、ゴトフリーが納得しないと無理そうなことになっちゃった)
勤怠はいつも優等生で、今日一日遅刻すること自体は別に問題ではない。家庭を持つ女性には一時間ほど何かの理由で遅れることは、ままあると言えばあることだった。
「じゃあ、俺の家に引っ越してくれば良いよ。アリスの部屋だって、既に用意してあるんだし……」
ゴトフリーはそう言ったけれど、アリスは頑なな表情になり首を横に振った。
「駄目! うちの親は結婚前に一緒に住むことは反対だし、私も結婚してから一緒に住みたい」
アリスの母の妹は、結婚前に同棲をして、結果、あまり良くない結末になってしまったので先んじて同居する件には反対されている。
いくらゴトフリーはヴェリエフェンディが誇る竜騎士の一人で変なことにはならないとしても、結婚前に駄目になる可能性を増やすなんて絶対に嫌だった。
アリスから聞いてそれを知っているゴトフリーは、ここで無理強いしても良くないと判断したのか、大きく息を吐いた。
「わかった。けど、あの件に関しては、誰がどう言おうが全面的に俺が悪いから……引っ越し費用に、次の家の家賃全部持つ。あと、引っ越し先は俺の家の近所にする。それでどう?」
ゴトフリーは真剣な表情でそう言い、アリスもここで彼の申し出を拒んでしまうことはあまり良くないだろうとこくんと頷いた。
「うん……それで良いです」
「良し。この話はそれで終わり。じゃあ、仕事行こう。立派な遅刻だ」
微笑んだゴトフリーは時計を見てそう言い、アリスは彼に続いて部屋を出た。
「ああ……引っ越すんだ~。うん。ちょっとだけ……寂しいかな。家を出てから、一人暮らしするために借りた初めての部屋だったから」
「そうなんだ。俺もアリスにお持ち帰りされた思い出の部屋だから、代わりに家賃払って置いておこうかな」
ゴトフリーはしみじみとそう言い『お持ち帰り』したあの夜のことを思い出して、アリスは顔を赤くした。
(も、もう! 何言ってるの。確かにそれはそうだけど! 住まない部屋に家賃払うなんて、嫌だよ!)
「……え! もう……止めてよ! なんとなく、感傷的になっただけなのに……」
じろっと睨めば、ゴトフリーは微笑んで肩を竦めた。
「ごめんごめん。まあ、たまには変化は必要だよ。だって、時は流れているし、変わらないものなんてないよ」
その通り、アリスが文字が綺麗な竜騎士ゴトフリーのことが気になり始めてから、二人の関係は怒濤と言えるほどに変化を見せていた。
言葉も交わせない距離だったはずなのに、今は同じ部屋から出て出勤しようとしている。
「そうね。ゴトフリーは私の恋人になったし?」
「もうすぐ、夫になるけどね……アリス、今日忙しい?」
不意に確認をされて、何を言い出したのだろうとアリスは首を傾げた。
「え? ううん。この前に月末処理が終わっただけだから、今日は受付するくらいかな」
「じゃあ、仕事休もうよ。たまには良いよ。誰にも迷惑掛ける訳でもないし」
今にも仕事を行こうというところなのに、そんな提案をされてアリスは慌てた。
「え! け、けど! ゴトフリーはどうするの?」
「俺も休む。今アレックに言ったから、アリスの分も伝言頼んだ。今日は遅刻もしてないし、特に理由も言わずに俺たちは私用で休んでいる。それって、保証された権利だし、別に良いと思うけど。せっかくだし、新しい部屋でも見に行こう。善は急げだよ」
いつの間にかアリスもゴトフリーも、今日は仕事を休むことになっている。
あのおっとりした緑竜が『今日、ゴトフリー休みらしいです~』と、彼の上司に伝言している光景が浮かんだ。
(アレック……可愛い。私のアレック、本当に可愛い。けど、そうじゃなくて!)
「もう。行動早すぎだよ! べっ……別に嫌って訳じゃないんだけど……」
「うん。俺はアリスに追い返されてすぐに告白しに行くくらい、行動力がある男なんだよね~。結果的にこうして幸せになっているし、それが正解じゃない?」
そう言ってゴトフリーに顔を覗き込まれて、アリスは何も言えなくなってしまった。
(なんなの。もう……嫌じゃないけど……ゴトフリーと一緒に休むの……別に)
真面目な性格なので急に仕事を休むことになった経緯自体にはサボっているようで抵抗があるものの、ゴトフリーと休めるのならば、それはそれで良いかとアリスは息を吐いた。




