42 貸し出し
(わー! まずいまずい!! こんなに締め切りのきわきわになってから、最悪の状態で私に任せるって言い出すなんて、サハラ室長ひどいよー!! 鬼畜ー!! 悪魔ー!! 人でなしー!!)
アリスは図書館で急いで借りた三冊の本を抱えたままで城の廊下を走り、どこかから怒っているような金切り声が聞こえたような気がしたけれど、あえてそれを無視することにした。
(いえいえ。私だって成人している社会人だから、職場の廊下を走るのは、いけないことだってわかっているよ……? わかってるけど、仕事の締め切りが待ってくれないんだよね……! 廊下走って、ごめんなさいー!!)
アリスが所属する計数室では、期末の時期になると泊まり込みが始まり、そして、締め切りとされる時間を過ぎると計算し疲れた同僚の屍が並ぶ。
何故かと言うと、期間中にすべてのお金の動きの計算を終わらせて、今あるお金の残高を合わせなければいけない。
必ず、合わせないといけない。合わないと、どうなるのか……計数室全体で、永遠に合わない理由を探し回ることになる。
という訳にはいかないので、最終的には使途不明金が、どこかの経費と合算になって誤魔化されることもあるが、その額は少なければ少ないほど良い。時間ギリギリまで各数字を、照らし合わせ続けることになるのだ。
「あ。アリス?」
「ゴトフリー! ごめん。今、急いでる!」
偶然通りがかったゴトフリーの声が聞こえて、アリスは振り返って彼に答えて、また走り出した。
職場を同じくする恋人とせっかく偶然会えたのだから、話したい気持ちはあるのだが、今のアリスにそんな時間の余裕はどこにもなかった。
(無理っ……! 無理だよ。この時間で、全部の調査終わらせるの……? 無理ー! 絶対無理ー!!!!)
アリスは上司のサハラ室長に調査するように依頼されたのは、特殊な機関だった。よって、使用した経費の中身が、他部署の良くあるような類ではなかった。
何故、締め切り直前になって慌てて居るかと言うと、件の部署の上長が代わり、新しい責任者が経費について、かなり杜撰な仕分けをしていたことが判明してしまった。
だから、図書館に置いてある専門書を見て調べ、用途別に仕分け出来ているのか、計数室のアリスが本当に合っているのか、分類をする必要があった。
(やだよー! 今夜も絶対絶対、徹夜になるー!!)
ここまでも睡眠不足が続いて半泣きのアリスは自分の仕事が好きだし、就きたくて就いた仕事だった。けれど、別に徹夜が好きな訳ではなかった。肌も荒れれば、気持ちもささくれる。
それに、なにより家に帰れていなかった。ここ数日ずっと、アリスだって自分の家で眠りたいのに眠れていない。
(帰りたいー! けど、終わらないと帰れないー!)
アリスも仕事として任されたからには任務を遂行する必要があったし、下手に優秀な頭脳を持つためにこれから自分がするはずの作業量だって見えてしまう。
絶望しかそこにはなかった。
「っわ!」
アリスは曲がり角を曲がったところで、大きな身体を持つ男性の胸の中に飛び込むようになってしまった。
「おいおい。廊下を走るなと、子ども相手のようにうるさく言うつもりはないが……怪我をするぞ」
そこに居たのは、ヴェリエフェンディ竜騎士団団長キース・スピアリットだった。部下の恋人として顔見知りになっていた彼は、アリスの職業を考えて色々あったのだろうなと推測したらしい。
「もっ……申し訳ありませんっ……」
王族の血を持つという彼にとんでもない事をしたと青くなったアリスを見て、キースは苦笑していた。
「いや、怒ってはない。今の時期は、大変そうなのも察する」
「……っ団長。お疲れ様です」
走っていたアリスを追い掛けて来たのだろうか、ゴトフリーがやって来て自分の上司へと挨拶をした。
「ゴトフリー……お前。勤務は?」
「先ほど、次の班に申し送り済ませました。団長」
確認するようなキースの質問に、ゴトフリーは姿勢を正して答えた。
(それで私を追い掛けて来てたんだ……けど、正直、話する時間も惜しいよー……)
アリスは泣きそうになっていた。他部署の上司キースが居る手前、この場をさっさと立ち去る事は出来ないが、締め切りの真夜中までには数字を正しい分類に仕分ける必要があるのだ。
「……ちょうど良いから、ゴトフリーを残業扱いで貸し出す。お前、この子を手伝って来い」
キースが言い出したことに、アリスは驚いたし、指示を出されたゴトフリー本人ももっと驚いたようだった。
「えっ。良いんですか?」
「お前は本当に馬鹿だが、計算の手伝いくらいは出来るだろう。計数室の室長には、後で連絡しておく」
キースはそう言い放って、背中を向けていってしまった。
「……だって」
にこにこして上機嫌で微笑んだゴトフリーに、アリスは信じられない思いでいっぱいだった。
本来、部署をまたいで仕事をするには、何枚も書類を書いたり、複雑な手続きを必要とする。だから、こんな風に簡単に一言で決められてしまうなんて、アリスだって信じられなかった。
(え。嘘でしょう。竜騎士団団長って、権力あり過ぎじゃない……? 助かるけど……ゴトフリーと一緒に仕事出来るの、嬉しいけど……でも……)
同じ職場とは言え、所属している部署が違うので、同じ仕事をしたことなどなかった。
ゴトフリーはやる気満々らしく、アリスの持っていた本をさっと自分の手に取った。さっきまで持っていた本が不意になくなり、驚いたアリスは背の高いゴトフリーを見上げた。
「だってって……ゴトフリー……計数室、今修羅場で地獄なんだよ?」
「うん。大丈夫。俺も戦場に居るのが仕事だから、そういう場所は慣れてるし」
竜騎士は最前線で戦う事が仕事だ。だから、彼の言った通りなのだろうが、言葉は似ていても意味合いが違い過ぎた。
「もーっ……役に立たなかったら、帰ってもらうからね?」
期末の近い最近は夜遅くまで働き、あまり眠れていないアリスはゴトフリーにそう言えば、彼は胸に手を当てて恭しく頭を下げた。
「はいはい。アリス先輩のご指導に従います……」
「よろしい……びっくりしちゃった……団長って、こんな事も簡単に出来ちゃうんだね」
「だって、うちの団長居ないと、この国終わるじゃん」
ゴトフリーは肩を竦めて言えば、アリスは立ち止まった。
「……そうなの?」
確かに色々と肩書きも多いし大変なのだろうなと思ってはいたけれど、そんなにまで重要な人物とは思っておらずアリスは驚いていた。
(えっ……物凄い美男で竜騎士くらいにしか思ってなかったけど、あの人が一人居ないと終わっちゃうの?)
「そうだよ。アリスは知らないと思うけど、色々あるんだから」
ゴトフリーはため息をついて歩き出し、アリスも慌ててそれに続いた。
「今度……団長に会ったら、感謝の気持ちを捧げるようにする」
両手を組んで祈るように言ったアリスに、ゴトフリーは吹き出して頷いた。
「団長、それきっと喜ぶから是非やってあげて」
そして、文字通り書類で埋め尽くされた机に戻り、アリスは予備の椅子をゴトフリーに渡した。
「それじゃ、ここの書類たちを、私の言うとおりに分類してくれる? 専門用語が多くて困ってるんだけど、私がここに書き出すから」
「あ。口頭で言ってくれるだけで良いよ」
「え?」
「書かなくても平気。得意なんだ。覚えられるから。俺」
簡単に軽く言ったゴトフリーは竜騎士で、そうなれる条件には学業優秀であることも含まれている。
「……良いの?」
「うん。やれるから、試しても良いよ」
試すように聞いたアリスにゴトフリーはにやっと微笑み、彼女に口頭で伝えられた通りに分類して行った。
「……え。完璧なんだけど」
確認したアリスは驚いたし、予想していた時間よりも大幅に早く終わったので、ほっと安心もしていた。後は数字を合わせるだけになるので、一時間もあれば出来るだろう。
「当然だよ。それに、俺こういう単純作業すごく好き。たまに貸し出されてやらせてもらおうかな」
冗談めかしてゴトフリーは言ったが、アリスが口頭で伝えた情報量は生半可な記憶力で覚えられるものではなかった。
「え。やだ。ゴトフリー……頭良い。格好良い……」
かなり疲れている自覚のあるアリスは、思って居た事が口から漏れてぱっと口を押さえた。
「うん。俺って、割と優秀なんだよね……計算も済ませちゃおうかな。俺って、ほら。格好良いし?」
はからずも調子に乗ってしまったゴトフリーのおかげで、アリスの仕事はそれからすぐに終わってしまい、同僚の仕事を手伝うまでになっていた。
そして、貸し出された優秀な恋人のおかげでアリスは、その日は久しぶりにゆっくり眠りにつく事になった。




