04 行かないで
ぱちっと目を開けたその瞬間、視界に飛び込んできた顔を見てアリスは驚きで言葉を失った。
「ん、起きた? もしかして起こしたかな、ごめんね。アリスの髪さらさらしているから気持ち良さそうで、我慢出来なくて触ってしまった」
カーテンも閉めずに寝たから、彼の蜂蜜色の髪は窓から入る朝日を浴びて輝いていた。
大きな手でアリスの頭をゆるゆるとした動きで撫でながら笑うその可愛い顔はずっと憧れていた竜騎士、ゴトフリー・マーシュのもので間違いない。
これは夢じゃない。アリスは昨夜あったことが奔流のように自分の頭に流れこんできたのを感じた。
(お酒飲んだら、全部の記憶を飛ばせるのってある意味良いことなのかもしれない)
酒に飲まれて自分の犯した痴態を忘れられるなんて、物凄い幸運なのではないのだろうか。今のこの状況が信じられなくて、動くに動けず固まったまま、そういえば酒と記憶との関係を書いた論文があったなと現実逃避をした。ゴトフリーはそんな様子にちょっと不思議な顔をしつつ壁の時計を確認する。
「結構良い時間になったね、お腹すいた? 俺が何か店で買ってこようか。鍵だけ貸してくれたらアリスはそのまま寝てて良いよ、かなり疲れさせたみたいだし」
一夜のみの関係でもこういう甘い言葉が雨のように降ってくる朝は当たり前なのだろうか。それともゴトフリーが変わっているのだろうか、何分そういう関係になったのが彼ただ一人だけだから、アリスにはその判断は出来ないが。
ふあっと大きくあくびをしながら上半身を起こしたゴトフリーの動きに、二人の上にかけられていた羽毛布団がはだけられて見えたのは何も着ていない自分の剥き出しの胸だ。
「きゃっ……」
慌ててその布団を引き寄せてからアリスは体を起こして壁に背中をつけて後ずさった。ゴトフリーは下着を身につけながらふっと息をついてそんな様子に目を細めた。
「そんなに慌てなくても、朝から無闇に襲ったりしないよ。とりあえず、腹ごしらえ……」
そこで言葉を止めた彼の視線を辿って、アリスは悲鳴をあげそうになるのをすんでのところで堪えた。今まで布団の下にあったその場所が露わになったからだ。そこまでの量ではないが、シーツに血がついていて、それがアリスの破瓜の血であることは一目瞭然だった。
じっと紺色の瞳でそれを見ているゴトフリーが考えていることがわからなくて、アリスはいてもたってもいられなくなった。
(処女だったから、重かったのかな。自分がとんでもないことしたって思っているのかな。ずっと黙ってないでなんとか言ってよ。もう)
沈黙したまま動きを止めていたゴトフリーはやっとハッとして、とりあえず床に散らばっていた服を着ることにしたのか、防寒用の上着まで身につけてからベッドに座った。
黙ったまま布団に包まっているアリスの様子を伺いつつ言葉を選んでいるのがわかった。体を捻ると、静かな声で問いかけた。
「……えっと、その。昨日失恋した彼とは、プラトニックだったの?」
こくん、と頷いたアリスは泣きそうになった。ノットとはそんな関係どころか、付き合ってもいないし、なんなら食事にも行ったこともない。そんな言葉を使う以前の問題だった。
「そっか、そっか……えっと、ちょっと順番が逆になっちゃったんだけど、アリス俺と付き合おう」
「え?」
その言葉が信じられなくて、アリスは目を瞬いた。
「もちろん段階を踏んで、とは思っていたんだけど、君をその不安にさせたくないし、その……」
これ以上なんと言えば良いかわからない、と言いたげなゴトフリーにアリスはじわじわと怒りが湧いてきた。
きっと彼は今までアリスのことを処女だなんて思っていなくて、思いがけず若い女の子の純潔を奪ってしまったから、好きでもないのに責任を感じて付き合おうなんて言い出したんだ。だってそんなことが噂になったら高潔であるはずの竜騎士なんて目も当てられない。
その結論に自分勝手に到達したアリスは涙目で言った。
「……出てって」
絞り出すようなその声にゴトフリーはぽかんとした顔をしてから、自分が言葉足らずだったと察したのか、慌てて言葉を重ねようとした。
「ちょ、ちょっと待って。アリス。俺の話を最後まで……」
「やっ、もうっ……出てっててば」
アリスは素っ裸のまま立ち上がるとその姿を見て思わず顔を赤くして立ち上がったゴトフリーの背中を押して玄関の扉まで押し出した。
「一回したからって、自分の女だなんて思わないでっ」
どこかで聞いたような捨て台詞を吐いてガチャンと音を立てて扉を閉めてから、はあはあとアリスは荒い息をついた。
ぼたぼたと大粒の涙が床に落ちてこんな自分が嫌になった。しばらく何度か、戸を叩く音がしても無視していると、一枚の板を隔てた向こう側でゆっくりと動く気配がして、そして廊下を歩く足音が遠ざかっていくのを聞いた。
彼は行ってしまった。
一夜だけの関係を望んだのはアリスだ。そしてその責任を取ると言った彼の言葉を拒否したのも。
憧れていた彼と一夜を過ごして自分はもう好きで、好きになってしまったからこそ、ゴトフリーの告白は辛かった。
だって好きなのは自分だけなのだ。好きあって付き合う訳じゃない。片方だけが望むような関係など歪なだけだ。
ましてや、彼は異性をいくらでも選ぶことの出来る立場に居る。こんなアリスのことなどすぐに忘れてしまうだろう。
「ふっ……ふうっ……やだやだ。ゴトフリー、行かないで……行かないで。ずっと傍に居て……」
彼にはもう聞こえないとわかっているからこそ、出てきてしまった言葉にアリスはまた泣いてしまった。
◇◆◇
「アリス・フォークナーさん、どうか俺と付き合ってください」
「お断りします」
アリスはにっこり愛想笑いして告白を断ったはずなのに、ゴトフリーはにこにこしてる。そう、彼はどんな手を使って調べたのか、休み明けのその日、朝からアリスを訪ねてこの経費書類専用窓口に現れたのだ。
「あれ? マーシュくん、また来たの。告白何回目?」
奥にある室長室に居るはずのその人の声を聞いてアリスは苦い顔をした。この人が目撃すれば、絶対面白おかしく吹聴されるのがわかっているからだ。通りがかったアリスの上司であるサハラ室長が窓口の外に居るゴトフリーを覗き込んで声をかけた。
「三回目です」
ゴトフリーは人好きする笑顔を向けて、その質問に答える。彼は柔和な外見で年上受けが良いのを絶対自分でもわかっているとアリスは確信した。そしてそれを利用するタイプだ。
「絶対二人の結婚式には呼んでよー、約束だからね」
「もちろんお呼びします。室長には式後のお披露目パーティーで、乾杯の音頭をお願いしようかと」
「あ、ほんと? それは大役だなあ。君の上司との兼ね合いもあると思うし、僕は余った役割で良いからねー。竜騎士団長といつかは一緒に飲みたいなって思ってたから嬉しいわ」
「お気遣いありがとうございます」
「どこまで呼ぶの? 君たち職場結婚になるもんねー、あんまり招待客多すぎると会場探すの大変かな。もしあれだったら城の大広間借りたら良いんじゃないの。僕の権限で格安で貸してあげるよ。夜会と被らないように予約はかなり早めにしなきゃいけないけどね。式はどっかの教会で昼にして、お披露目パーティの夜だけ貸し切るんだったらそんなに金額行かないんじゃないかなー」
「それは助かります。また時期が近づいて来たら相談させてください」
にこにことして返す彼は、礼儀正しくお辞儀した。
城の大広間借りる程の招待客がいる竜騎士と文官の結婚式なんて聞いたことがない。そもそも竜騎士はしがない文官となんか結婚しない。どこかの美しい貴族令嬢とか匂い立つような美貌を持つ有名な歌姫とか舞姫とか、その辺だったらお決まりのコースだけど。
いや、その前にアリスとゴトフリーの結婚が決まったことであるように進んでいく会話の流れがわからない。
アリスは仕事中のいつもの髪型であるお団子頭を掻きむしりたくなった。
(ほんとに分からない。なんなの。何がどうなってこうなったの。なんでこんなことになったの。全然意味がわからないんだけど!)
「私はこの人と結婚しません。室長も呼びません」
ゴトフリーを指差しながらがたんと音をさせて椅子から立ち上がり、完全にこの状況を面白がっている室長を睨んだアリスに、愛妻家で有名な彼はいかにも自分はわかっているよという笑いで頷いた。
「またまた、そんなこと言っちゃって。マーシュくん、うちのアリスくんってほんとに素直じゃなくてごめんねー」
「はい、そういうところも可愛いなって思ってます」
「わー、朝からあてられちゃったわ。じゃあ僕は今から会議に行かなきゃいけないからお若い二人はごゆっくりどうぞ」
「お疲れ様です。ありがとうございます」
手を振るサハラ室長にはきはきと答えるゴトフリーは、アリスのぷるぷると怒りで震える手なんかどこ吹く風だ。
「もうっ、こっちは真面目に仕事してるんだから、遊んでるならどっか行きなさいよー!」
「アリス、大きな声出さないで。他の人の迷惑になるよ」
そのイライラの原因から、はい、と分厚い書類を渡されて、アリスは渋々さっき倒した椅子を起こしてそれに座った。渡されたそれを確認すると竜騎士団全体の経費書類だ。直接ではないけどそれを受付して処理しなきゃいけないのはもちろんアリスの仕事だから、黙々と書類の不備をチェックをする。
「あの、ずっと見られたらやりにくいし、もし不備があったらいつもみたいに内部便で返送するから……」
窓口に肘をついてじっとアリスを見ているゴトフリーに言った。今まではサッと書類を渡しただけで去って行ってしまっていたはずの彼は、今日はアリスのチェックを終えるまで待つようになっていた。
「うん、でもちゃんと書けているか見てもらうのも仕事の内だし。俺は気にせず仕事して?」
仕事を持ち出されてしまうともう何も言えなくなって、アリスはため息をつきながら持っている書類に目を落とした。