02 お持ち帰り
「なんでゴトフリーなの? こいつ今夜は全然話してないよね?」
レオは本当に不思議そう言った。それもそうだ。ゴトフリーは最初の軽い自己紹介以外アリスと言葉を交わしていない。今夜は、ということはいつもは違うのだろうか。別にどうでも良いことだけれど。
「この中で一番モテそうにないし、浮気しなそうだもん」
素直じゃないアリスが言ったその言葉にどっと笑い声があがる。リリアは呆れた顔をして頬をつつくし、ゴトフリーは赤い顔のままで自分を見つめたままだ。
「浮気は確かにしないよな。いつもされる側だもんな」
「エディ、余計なこと言うなよ」
にやにやしながら言いかけたエディをブレンダンが嗜めた。明るいエディとナイジェルの掛け合いを聞いて笑うアリスを横目に頃合いを見ていたリリアは壁にかけられた時計を確認しながら言った。
「アリス、そろそろ会計して出ましょう。もう少ししたらダニエルが迎えに来てくれるから」
抜け目のないリリアは夜道を女二人で歩く危険性を知っていて、きちんと仕事帰りの彼氏が迎えに来てくれる手筈を整えていたらしい。アリスはその言葉を聞いて財布から多めのお金を出すとリリアの手に押し付けた。
訳がわからないと首を傾げる彼女の脇を通り過ぎて、一番遠くに居たゴトフリーの腕を掴んだ。その長袖のシャツに包まれた腕は見た目より筋肉質で太い。鍛え上げられた異性の体を感じてドキリとした。その一瞬の動揺を振り切るように笑って言った。
「私、この人持って帰る」
そのいきなりの宣言に、一同ぽかんとしてまた笑い声が起きた。大きな体をしたエディは腹を抱えて笑っている。
「ちょっとアリス。ご迷惑でしょ。この子今日は飲みすぎてて酔っ払いだから本当にごめんなさいね」
リリアが慌ててアリスの傍まで来ると、あまりの事態に呆気に取られているゴトフリーに頭を下げた。
「いや、俺は別に……」
やっぱり赤い顔をして口籠ったゴトフリーの腕を引っ張ると、店の外まで出てその大きな手を握った。鍛錬の成果だろう、手の皮は硬くてゴツゴツとしていた。
「ね、行こう?」
長身のゴトフリーに背伸びして笑いかけると、戸惑ったままでついて来る彼の手を握ったままアリスはおぼつかない足取りで走りだした。ヒュウとまた口笛が鳴ってリリアが自分を呼び止める声が聞こえた気がしたけど、アリスはそのまま振り向かなかった。
歩く人がまばらになっている表通りは走りやすくて、冷たい空気が酔って火照った顔に気持ち良かった。
明るい月明かりに照らされて走る二人の影がどこまでも着いてくる。自分達の間にある何かのしがらみにも思えてそれを振り切るように懸命に走った。
◇◆◇
「……大丈夫?」
借りている集合住宅の前まで来てようやく立ち止まると、走り疲れてはあはあと息をつくアリスの背中をゴトフリーは躊躇いがちに撫でた。あんなに飲んで酔った体で走ったのだから当たり前だ。それに付いてきた同じ状態のはずのゴトフリーは息も乱していない。
事務仕事中心で決まった運動もしていないアリスは息を整えるのにかなりの時間がかかってしまった。視界はなんだかふわふわするし世界も揺れる。こんな状態でよくあの距離を走れたなと自分でも無意味に感心してしまった。
「うん。大丈夫。ゴトフリーさん、ありがとう」
顔を上げてにこっと笑いかけると街灯の灯りの下で、やっぱり彼は顔を赤くした。アリスは小さなバッグから鍵を取り出すと集合住宅の扉を開く。ここは防犯上二重に鍵がかけられるので女性の入居者が多い。その分他より家賃も高いが。
ゴトフリーは鍵を仕舞いながら自分を見るアリスに意を決したように声をかけた。
「あの、俺今日はここで帰るよ。良かったらまた連絡したいから、フルネームと勤務先……」
教えて、と言いかけたゴトフリーを塞ぐようにアリスは彼の肩に手をかけると背伸びして彼に触れるだけのキスをした。初めて触れた唇は柔らかくて温かかった。
(わー、人生はじめてのキスだ)
それがこの目の前の彼で本当に良かったと浮かれた頭のどこかで思った。
とんとちいさな踵の音がするまで、二人とも動かなかった。それが一瞬のことだったのか、時間が止まったようにも思えて、その瞬間からきらきらと世界が輝き出したようにも思えて。
「良いから。行こう」
また手を引いて歩き出したアリスにゴトフリーは逆らわなかった。ガシャンと先ほど開けたばかりの扉の鍵が閉まった音だけ夜の冷えた空気に響いた。
アリスの住む部屋は二階の奥まった部屋だ。時間も時間だけに二人は何も言わないままに階段を上がって、また部屋の鍵を開けると中に入った。寒い季節、今まで主のいなかった部屋は冷えた空気をいっぱいにして迎えてくれる。
「ちょっと待ってね。暖炉つける」
アリスは灯りをつけて手早くちいさな暖炉に火をつけると、玄関に突っ立ったままのゴトフリーを部屋にひとつしかないソファに座らせた。
台所へと入り流れるように動いて、お湯を沸かしてお茶を入れると、何も言わないまま背筋を伸ばして固まっている彼の前にはいと声をかけてお茶を置いた。
ゴトフリーの隣に座って温かいお茶を飲むと、じわじわと何か感動に近い思いが湧き上がってくるのを感じた。
(あの、ゴトフリー・マーシュが私の部屋に居て隣に座っているなんて嘘みたい)
「……アリス、さん? あのやっぱり俺今から帰るよ。君すごく酔っているし、また素面の時にその、会ってくれたら嬉しい」
言葉を選びながらか、ゆっくりとゴトフリーは言った。困った表情をして向けられた深い紺色の誠実そうな目を見ながらアリスはまとまらない頭で理不尽な不満を感じた。
彼は竜騎士だ。それこそ女性からはその職業だけで熱い視線を向けられるだろうし、それにはっきりと言うならばゴトフリーの顔は可愛い。目鼻立ちは整っているしその蜂蜜色の髪の毛もふわふわとしていて戦闘職に就いているはずなのに全体的に柔らかくて優しそうだ。厳しい鍛錬に耐え抜き鍛え上げられた肉体も相まってすごく魅力的な容姿をしている。
(こんな状況でもないと、彼が私を見てくれる可能性は低い。この機会を活かさなきゃ)
「嫌」
短く答えたアリスにゴトフリーは呆気に取られた顔をした。それを可愛いなと思いながら酔った勢いでアリスはとんでもないことを言い出した。
「抱いてくれたら帰って良いよ」
「え?」
「モテモテの竜騎士なんだし、経験豊富なんでしょう。せっかくなんだから楽しませてよ」
アリスは言葉を失ってしまったゴトフリーの胸に飛び込んだ。その抱きついた胸の厚さに胸がときめいてしまう。ずっと妄想の中、望んでいたことが叶うのならどんな手段でも使うつもりだった。
「あの、アリスさん。俺も一応男だから、あんまりそういうこと言われると……」
戸惑って自分を見下ろしたゴトフリーを上目遣いに見上げてアリスはキスをした。小鳥が啄むように何度か重ねると躊躇うように時間を置いて柔らかな舌が誘われるようにアリスの口内に滑り込んできた。深いキスはもちろんこの時初めて経験した。
自分の口内を舌と一緒に吸い上げるとその後で交換するように流し込まれる唾液も彼のものだと思うと全然気持ち悪くなかった。こくんと何度も飲み込み、舌を擦り合わされるようなふれあいはむしろすごくすごく気持ち良いものだった。
時間をかけてやっと暖かくなってきた部屋の中には二人の吐息とちいさな水音が響いていた。
「んっ……あっ……ちょっと……待って」
胸を叩いていつの間にか自分をきつく抱きしめていたゴトフリーから離れると、アリスは彼の顔を見上げてその紺色の瞳に奥に灯った欲望の光を見つけてすごく嬉しくなった。
「寝室はこの奥なの。連れて行って」
そのお願いに彼は頷いてアリスの体を抱き上げた。その動作には、もうさっきまでの躊躇いは見えなかった。