10 お弁当
自分の持ち場へと帰っていくリリアに手を振って、アリスは自分の仕事場への道を歩き始めた。
「……アリス!」
後ろから良く知っている低い声がして、振り向くと、ゴトフリーが走って自分の元までやってきた。
「アリスがさっき来てたって聞いて……えっと、ごめん。その、ナイジェルからエディがアリスになんかまた余計なこと言ったって聞いて……」
口に手を当てて言いにくそうにするゴトフリーはどうやってアリスに説明しようかと思いあぐねているようだ。
自分たちの関係の危うさはアリスも良くわかっていた。何の約束もしてないし、縛り合うような関係性でもない。ましてや彼が誰と楽しくお話をしていようが、それは彼の勝手だしアリスはとやかく言えない。
廊下に立ったままのひとしきりの沈黙の後、アリスはずっと思っていたことを彼に伝えたくて勇気を出した。
「……えっとね、あのね。その……お弁当なんだけど」
ちいさな声の発言に何を言い出したのかと、ゴトフリーは首を傾げた。
「あ、うん。そうなんだ、俺昼飯はいつも弁当で」
「その、えっとね……」
赤い顔を俯かせて両手をぎゅっとしているアリスの様子を見て、やっと何か自分に伝えたいことがあるのかと気がついたらしい彼は、背中を押して廊下に一定の間隔をおいて配置されている椅子へと腰掛けさせた。その前に跪いて顔を覗き込む。
「うん。ゆっくりで良いよ。俺は待てるから、アリスが言いたいこと言ってみて」
頭を撫でながら優しく言ってくれた彼に、じわっと涙を浮かべながらアリスはやっとの思いで言った。
「……作りたいの」
ぼそっと囁くような声だけど、どんなちいさな声も聞き逃さないようにとしていた彼にはちゃんと伝わったのか、ゴトフリーは目を見開いた。
「えっと、ん、あの、勘違いだったらごめん。俺の弁当を作りたい? ってこと?」
言いたいことがやっと伝わった。真っ赤な顔でこくこくと頷いたアリスに、はにかむように笑った。
「それは嬉しいな。俺は弁当自分で作ってるんだけど、アリスの手料理なら、なんでも食べたい。また勤務表持ってくるから、アリスが出勤して作れる日があったら教えて欲しい」
その言葉に聞き逃せないことがあったような気がして、アリスは聞き直した。
「えっと、ゴトフリーって自分でお弁当作ってるの……?」
何でもないことのようにゴトフリーは頷いた。
「そうだよ。俺の家、母親しかいなくてさ、その母親も俺が成人して職を持ってから再婚したから、今は一人暮らしだし家事はほとんど自分でしてるんだ」
「すごいね……」
「ふ、俺は貴族とか、裕福な商家の出身でもないからね、小さい頃から手伝いをやらされていたっていうのもあるんだ。人を雇うことも出来るんだけど、遠征とかで家が不在の日も多いから、なんかそれも勿体無くて。洗濯だけは仕事が立て込んでくると間に合わないこともあるから、たまに日雇いで来てもらってやってもらってる」
ゴトフリーは経済観念が物凄くしっかりしているらしい。竜騎士なら街中に豪邸も構えて使用人をたくさん雇うことも可能だろうに、思ったより庶民的みたいだ。アリスはそういう彼らしいところも好きだなと思ってしまった。
「えっとね、でも私そんなに料理上手じゃなくて、がっかりするかも……」
もしかしたらゴトフリーの方が料理が上手い可能性もあるのではないかと、落ち込んだ。アリスは学生時代は勉強ばかりしていたし、就職してから家を出たから、母親にそこまで詳しく教わった記憶はない。仕事で遅くなると外食も多いし、自炊はたまにやる程度で自己流で何となく自分の好物が作れるレベルでしかない。
「あのね、そりゃお金を出してお店で食えば凝った料理が食べられるんだと思う。でも俺にはアリスの作った料理が一番美味しく思えると思うよ。だから無理がない程度に作ってくれたら嬉しい」
その優しい言葉にこくんと頷きながら、そういえば大事なことを忘れていたアリスはしゅんと肩を落とした。
「あ、でもね、来週から当分の間は、お弁当作れないかも」
突然トーンの変わった声にゴトフリーは首を傾げる。
「ん、何かあるの?」
「あのね、年度末だから、年に一回だけこの時期だけはすごく忙しくなるの。泊まり込み作業とかも増えるし、休日返上だから、その、ゴトフリーにもあんまり会えないと思う」
自分が言い出した癖にと、落ち込みつつ話したアリスにゴトフリーはぽんぽんと頭を叩いて微笑んだ。
「仕方ないよ、仕事だもんな……俺ちゃんと我慢出来るから、また落ち着いたらアレックと一緒に遊びに行こう?」
素敵な騎士に跪かれているから、何だか自分が物語の中のお姫様になれた気もして、頷きながら自然に笑みがこぼれた。
◇◆◇
私生活で何があろうが、年度末に向けての仕事の日程は待ってはくれない。
仕事をしていたら、無心になれるのもある意味有難かった。年度末の前だけは特別に提出書類の期日が早いから窓口業務は一旦閉めて休業だ。そのためいつも書類を提出するという仕事を理由に会っていたゴトフリーに会うこともない。
机に積まれた山のような書類に埋もれて、アリスの日々は忙殺されていた。
とにかく、決められた期日前までに仕上げる書類が多すぎて、その日も作業は深夜におよんだ。アリスはある程度の目処がついてから、下着やある程度の身の回りのものが入っている泊まりの荷物を持って仮眠室へと向かった。
(はー、大浴場でお風呂入るのはたまになら楽しいけど、毎日だと飽きちゃう。それに備え付けの石鹸あんまり質が良くないんだよね)
城の中にある年中無休で開放されている大浴場で体を伸ばしてのんびり出来るのは良いのだが、今回アリスはお気に入りの石鹸を持ってくるのを忘れてしまっていて、いまいちその黒い直毛のまとまりが悪かった。
(まぁ、当分の間はゴトフリーに会える訳じゃないし……)
本当に多忙すぎて自分の見た目など気にしていられる状況でもない。でもだからこそ、好きな人に会いたいような会いたくないような複雑な乙女心だった。
仮眠室のシーツはもちろん洗濯したてだけど、昨日は誰がここで寝たのかとかは決して考えてはいけない。文官が共用の仮眠室だし、年度末忙しいのは計数室だけではないからだ。
アリスは連日の事務作業で疲れた目の辺りを揉みこんでから、ふわっと欠伸をしながら、お日様の匂いのする布団に潜り込んだ。
どこか夢の遠くでゴトフリーの独特な低い声がした気がして、アリスは嬉しくなった。淡い憧れからはじまった彼への思いは、夢の中だけでも会えたらと思えるほどまで大きくなっていた。
「……サハラ室長、お疲れ様です」
「あれー、マーシュくん。残念だけどアリスくんなら、今仮眠中だよ。ついさっきまでそこで仕事してたんだけどね。年度末だから、皆家に帰る暇も惜しくて」
「わ、本当に多忙なんですね。一応年度末の話は以前アリスからも聞いていたんですけど……今夜も泊まりこんで仕事しているって聞いて。別に何か用がある訳じゃないんです。僕もこれから何日間か遠征に行くのでその前に顔を見に来ただけなんです」
この辺りでアリスはこれは夢じゃないな、と思い始めた。だんだんと眠りが浅くなって、近くで交わされる会話が聞こえてしまっているようだ。
「あ、そうなの? こんなに遅い時間に竜騎士も大変だね。もしよかったら寝顔だけでも見て行ったら? 寝てるけどね。一応他の人も近くで寝てるから、えっちなことは禁止だよー」
(えー、サハラ室長、何言ってんの、何言ってんの。一応未婚の妙齢女性が寝てるんだよ)
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
(ゴトフリーもお言葉に甘えないでー! 嘘でしょ。お風呂も入ってるしもう化粧も落としてるんだけど)
すぐそこでサハラ室長からアリスのいる仮眠室の番号だけ聞くと、足音を潜めたゴトフリーは静かに扉を開いた。
「……アリス」
問いかけるような、抑えた声音は別に答えを期待している訳ではないようだった。寝たふりを決め込んだアリスは内心ドキドキしながら彼が何をするかを待っていた。
ゆっくりと近寄ると、ゴトフリーはアリスの額にキスをしてちいさな声で優しく囁いた。
「好きだよ、アリス。いってきます」
その言葉にこの前からアリスの中に巣食っていた不安とか寂しさとか、とにかくもやもやとしたその黒い感情が弾けて飛んで行ってしまうのを感じた。
彼はゆっくりとした動作で頭を一度撫でてから、すぐに音を立てないようにして帰っていってしまった。
廊下を歩いているゴトフリーの足音はすぐに聞こえなくなって、サハラ室長の「あれ?もう帰っちゃうのー?」という遠慮のない声だけ聞こえてきた。
アリスは薄闇の中、ゆっくりと目を開けるとさっきまで居た彼のくれた熱を逃がさないように額に触った。
(……私も好き。バカ)




