01 選択
「じゃあこの人にする」
アリスは真っ直ぐに人差し指を向けて、他でもないその人を選んだ。
飲み屋の独特な暖色系の灯りの下で、とろけるような蜂蜜色の髪をしたその人は、ずっと前から欲しくてこんな自分では手に入らないと諦めていた人だった。
まさか自分が選ばれると思っていなかったのか、彼は酒の入っていた杯をガタンと音をさせて、ちいさな丸いテーブルの上に置くと顔を真っ赤にして慌てて自分を指差す。その様子が可愛くてアリスは酔ってふわふわした頭で頷くと無邪気に笑った。
ヒュウと間抜けな口笛が鳴って、唖然として音が消えていた周囲は拍手をしつつ面白そうに囃し立てる。なぜか他のテーブルの客もこちらの会話を息を殺して伺っていたようで、狭い店中がなぜか祝福するような空気に包まれた。
「ゴトフリー、ご指名だぞ」
「まじか、ブレンダンが居てブレンダン以外が選ばれたのって初めてじゃね?」
「おいおい、色男のブレンダン・ガーディナーが袖にされたぞ」
大方の皆の予想では選ばれるはずだったブレンダンと呼ばれた爽やかで甘いマスクのその人は、何も言わずに面白そうに笑う。きっと初見で短時間の勝負ならその人がきっと選ばれることが多いのだろう。
でも人の好みなんて千差万別で肉が好きな人も居れば、芋が好きな物好きな人ももちろん居る。多数派が居るということは必ず少数派も存在する。だから、多数の人が選ぶブレンダンじゃなくてゴトフリーを選んだアリスは少数派なのかもしれない。
でも、アリスはゴトフリーが良いと思ったんだからしょうがない。
(ブレンダンさん、初見じゃなくて、ごめんね)
アリスは心の中で舌を出した。さっきこの人たち五人と話し始めた時、はじめましてと言ったけど、それは嘘だった。
彼等は竜騎士である身分を示す黒い騎士服ではなく、私服だからと油断しているのかもしれないが、自分の隣に居るブレンダン・ガーディナーはこの国では知らぬ人がいない英雄の相棒だし、一人につき数の限られた竜が居る少数精鋭の竜騎士となれば、城で仕事している者なら顔と名前くらいは一致する。
アリスは城で働く個人の経費担当の文官だから、遠征が日常茶飯事で経費を精算しなくてはならない竜騎士達とは良く顔を合わせていた。だが、今はいつもかけている眼鏡も外しているし、お団子頭も解いてそのさらりとした直毛の黒髪は背中を覆っていた。だからいつも書類を受け取る一瞬しか面識のない彼等に気が付かれるはずがない。
結構な量の酒を飲んでご機嫌な頭の中はさっきの質問があったということは、ということに終始していた。
(真っ赤な顔したゴトフリーさん、私が持って帰って良いってことかな?)
◇◆◇
「もう、飲みすぎだよ、アリス」
この飲み屋は立って飲む形式だ。ゆっくり腰を落ちつけて話す場所ではなく、そのため客の年齢層もかなり若い。度数の高い蒸留酒を一気飲みをしたアリスの隣に居るリリアがほぼ空になってしまっている酒瓶を取り上げる。それを持ち上げて、自分の知らぬ間にアリスが飲んだ量を察したのか可愛い顔をしかめた。
同じく城で務める女官の一人であるリリアはおっとりしているがしっかり者だ。そして、ちゃっかり者であるとも言う。長く付き合った彼氏の近衛騎士のダニエルと婚約中だし、一年後には挙式する予定だ。近衛騎士というと限られた人数しかいない竜騎士は別格としても、この国ではかなりの出世コースだし、エリートコースまっしぐらだ。
同じ女性のはずなのにかなり上手いことやっている親友の隣で、アリスは生きてきた年数が彼氏いない歴になってしまっている自分を呪いたくなった。
「もうちょっと飲ませて……」
酒瓶を取り返してグラスに傾けた。これもかなり強い酒なんだけど、まだまだすべて忘れられるくらい前後不覚になるまでにはもっと飲まなければならない。
「もうっ……付き合ってもいない男が婚約したくらいで何よ。要は関係性はただの顔見知りなんでしょう。食事に誘われた訳でもないし」
その言葉が突き刺さる。そうだ。それは間違ってない。でも、恋愛経験が少ないアリスの中ではもしかしたらという思いがあったのだ。ザックリと淡い期待があった女心を刺してくるリリアに小さい声で抗議する。
「でもっ……期待持たせるなんてひどいよー。いつも声かけてくれるし、もしかしたら気があると思うじゃない」
「通る度に声かけられるだけでしょう。向こうもまさかこんなことになっていると知ったらビックリよ。失恋に数えるのも微妙なところよ。それに気になっているならその辺もさりげなく確認しなさいよ」
アリスはむっと唇を突き出した。リリアの言っていることはいつも正しい。だからと言って正しいことがいつもまかり通るとは限らないし、正論が不完全な人の心の機微まで察してくれるなんて思えない。
ここで二人で行われているのは、恋愛経験値ゼロのアリスが勝手に期待して勝手に失恋した打ち上げパーティだ。
アリスが担当する経費窓口に良く来ていた近衛騎士のノット・ネスビットが件の失恋相手なのだが、それが良く「アリスちゃん可愛い」「アリスちゃんは良い奥さんになる」「絶対モテるよな」と女性を勘違いさせるような言葉を連発する天然迷惑野郎だったのだ。
本日アリスにノットに密かな好意を持っていることを打ち明けられたリリアに冷静な声で「ノット・ネスビットは交際していたメイソン家の令嬢とこの前婚約したところよ」と教えて貰わなければ、このまま好意を深めて能天気に恋愛結婚前提の婚約者の居る男性に懸想するバカな女になるところだった。危なかった。それだけは避けられて本当に良かった。
「うー……今日リリアに言わなかったらまだ勘違いして夢見ていられたのかな……どうせ何も言えないまま終わるもの、長く夢見たかった……」
カラカラと氷だけ入ったコップを回す。酒瓶はリリアに取り上げられたので、もうお酒は入っていない。
「バカね。実らない恋なんて貴重な時間の無駄よ。一秒でも早く切り替えて他を見なさい」
リリアは現実主義だし計算上手の、いわゆる何でも上手くやる女だ。それに比べて自分は……と思うとアリスはじわっと涙が出そうになった。いつも良いなと思う人の前では素直になれないし、自分から何となくそういう方向に話を持って行って向こうから誘ってもらうなんてもっての外だ。そんなことが出来るなら生きてきた年齢が彼氏いない歴とかになっていないし、何ならお酒の力を借りないと親友に愚痴も言えない。つらい。生きるのつらい。
「あー、独身の良い男どこかに転がってないかな」
アリスのしみじみした声はちょうど他の人たちの会話の隙間だったのか、思いのほかその狭い店内に響いた。
「……ぶっ」
隣のテーブルで飲んでいた男性五人組の中の一人が吹き出した。さっきお店に背の高い体の大きな人たちが入ってきたなと思っていたけど、リリアに愚痴るので必死でアリスは気にも留めていなかった。
「おい、ナイジェル。失礼だろ」
「ごめんね、君達の話の邪魔をするつもりはなかったんだけど」
思わず目を向けたアリスはその謝ってきた人を見て、驚いて目を見開いたし、リリアは彼等にそつなくにっこり笑いながらアリスに耳打ちをした。
「嘘、ブレンダン・ガーディナーじゃない。ここに居るの五人とも竜騎士よ」
それはもちろんアリスだって知っている。一番近くにいて整った容貌の眉を下げて申し訳なさそうな表情をしている人は、名声と女性受けのするその外見でこの国でも有名なのだ。
竜騎士といえばこの国ヴェリエフェンディの誇る最強の竜騎士団の一員だ。幼い頃から騎士学校で篩にかけられ非常に高い競争率を勝ち抜いた上に、最終的には数少ない竜に選ばれなければなれない。その俸給はとても高いし、竜騎士というのはこの国でも名誉ある職で、いわゆる独身女性の望む結婚相手の最高峰とも言えるだろう。
「お姉さん可愛いのに彼氏いないの?」
興味津々な声をかけてくるのは、筋骨隆々の大きな体をしたエディ・ベイトマンだ。経費の期日破りの常習犯でアリスは、仕事上良くお世話している。その体に半分隠れている人を見つけたアリスは判断力の鈍った頭で必死に考えた。
(これってもしかしてチャンス?)
窓口業務で培った笑顔を浮かべると、普段の自分では考えられない一世一代の勝負を開始した。
「はじめまして、アリスです。実は今日失恋したばっかりで」
おー、と五人は顔を見合わせるとなぜかハイタッチをした。さっき吹き出した黒髪のナイジェル・リスターが勢い込んで言ってくる。
「俺たち全員独身で彼女もいないんだよ。良かったら一緒に飲もうよ」
「……お兄さん達、本当に全員彼女いないんですか?」
にっこり笑った顔でリリアが探るように五人を見回した。その質問に彼等は揃って苦い顔になると、アリスの隣に居るブレンダンが代表して答えた。
「可愛い彼女が居たら休みの前の日に男だらけで飲んでないよ」
「僕達はちょっと忙しい仕事していてね、基本ほったらかしになるからそれが理解してもらえない事が多いんだ」
切れ者で有名なレオ・オーウェンが騎士職の人には珍しい眼鏡をかけ直しながら言った。彼は事務仕事に関してとても優等生なので、必ず期日を守ってくれ、それを処理する仕事をしているアリスには有難い存在だ。
(多忙の竜騎士ですもんね。知ってますー)
「アリスちゃん、杯が空になってるじゃん、飲んでよー」
エディが持っていた酒瓶を傾けてアリスの氷しか入っていなかった杯を酒でいっぱいにした。それを良い笑顔で一気飲みするとまた驚くような歓声が上がる。
「良い飲みっぷり。もっといっぱい飲んでよ」
それから何杯か楽しく話しながら飲んで、酔っ払って完全に笑い上戸になったアリスから、その様子を見かねたリリアがさりげなく杯を取り上げると陽気なナイジェルがアリスに聞いた。
「ねえねえ、アリスちゃんこの五人の中でお持ち帰りするなら誰が良い?」
アリスはぐるりと五人を見た。その竜騎士という職業から全員将来性は抜群だ。外見もとても整っている。際立って女受けが良いのは隣に居るブレンダンだろうが、自分の一番遠くで言葉少なにちびちび酒を飲んでいるその人に目を留めた。
(そうよ。人生に一度くらい、欲しいものを欲しいと言って何が悪いの)
そして右手を上げて指差した。