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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

エッセイと短編

プロポーズは彼女の父を殺したあとに

作者: 桐城シロウ

 






 冷たい雨が降りしきる、夜にドアを開けて家に帰ると、その人が長いナイフを持って父を殺していた。背後ではざあざあと、冷たい雨が降り注いでいる。廊下には父の遺体と、その人が佇んでいた。大きな白いシャツを着て、眼鏡をかけたその人が、ゆっくりと私の後ろを指差す。



「ごめん。ドア、閉めてくれる?」

「ああ、はい……」



 水に濡れた、スーパーのレジ袋を持ったまま、ぱたんとドアを閉める。カビ臭い匂いが漂う、薄暗い廊下でその人が「しまったな、もう少し遅いかと思っていた」と呟きながら、父の遺体を見下ろしていた。仰向けになって、おびただしい量の血を流している。その目はもう、私を見ることはない。血が飛び散った、黒縁眼鏡をかけている。



「君のために殺したよ、お父さんを」



 ふと気がつくと、その人がすぐ目の前にいた。頬にぬるりと、冷たい血が触れる。乾きかけた血だった。顔を上げて見てみると、いつもの青灰色の瞳を細めている。



「ああ、にげ、逃げないと。あなたが捕まっちゃう……」

「大丈夫。家を荒らしておいたから」

「家を……?」

「強盗目的だって、そう思わせるためにね。お金も取っておいた。今から勝手口を出て、隣の空き家に隠してある服に着替えて、女装して逃げる。君はこのまま行って、外に」

「外に」



 馬鹿みたいに繰り返すと、それまで父の死体を見ていた彼が淡い微笑を浮かべる。いつもの優しげな微笑みだった。



「そう。君はお父さんに頼まれて買い物に行った。帰って、殺されていることに気がついた」

「私……じゃあ、一時間ぐらい時間を潰してくる。店員さんにも、店員さんにも顔を覚えて貰って。私が殺していない風に」

「うん、行って。またね……ああ、そうだ。血がついてる。ごめんね? はい、これ。俺のハンカチ」



 ズボンのポケットから、白いハンカチを取り出して渡してくれた。それを受け取って、自分の頬を拭う。



「どう? とれた?」

「とれたよ。ついていない……まぁ、気になるのなら洗面所で洗ってきて」

「いや、分からないから。そういうこと、多分、しない方がいいから……」



 頬が赤くなるくらい、ごしごしと擦る。悠長に洗っている場合じゃない。外ではまだ雨が降っていた。春の冷たい雨がざあざあと降っていた。


「じゃあ、行くね? 俺」

「隣の……隣の家に?」

「そう。空き家で良かったよ。ウィッグとか服とか隠してあるんだ。じゃあ、また。職場で」

「はい……また、月曜日に職場で」


 約束するように繰り返すと、にっこりと子供みたいな微笑みを浮かべた。それから、こちらを振り返りもせずに廊下を歩いて、奥のリビングのドアを開ける。その人がいなくなってから数十秒ほど、ぼうっと佇んでいた。でも、こうしてはいられない。早く、早く外に出なくては。


(私は父が殺されたことを知らないんだから!)


 慌ててドアノブを掴んで、外に出た。鍵をかけようかと迷ったが、そのままにしておく。どうせ盗られて困る物も無いし。泥棒は死体を見て驚くだろうし。さっきたたんだ傘を持ち上げて、開く。ぽんと小気味の良い音がした。



(ああ、私。もう自由なんだ。怯えて暮らさなくてもいい。自由なんだ、もう)



 一生死なないんじゃないかと思っていた父が死んだ。あの害悪は死んだ。もう自分の人生を遮るものなんてない。高揚感が胸を支配していた。そうだ、私は自由だ。もう何だって出来る。



(どうしようかな? 服、服買いに行こう。あとは、あとは)



 息を荒げながら、誰もいない夜道を歩いていた。この辺りは十九時を過ぎると、誰も通らなくなる。おまけに激しい雨が降り注いでいた。スニーカーも靴下もずぶずぶに、重たく濡れていく。でも、気にならなかった。そんなことはちっとも!



(ケーキ。ケーキにカプチーノが食べたい。ああ、そうだ。この辺りに出来たカフェに行こう、そうしよう)



 夜遅くまで開いているカフェ。夜にケーキとお酒が楽しめるお店。ずっと行ってみたかったけど、父がうるさかったから行けなかった。淡い間接照明に照らされている、重たいガラスドアの前に立って一応、自分の頬を確認する。紅潮しているからか、血なんて気にならなかった。息を荒げて、そのドアをぐっと押す。でも、だめ。平静を装わなくては。



「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「一人です」

「奥の席へどうぞ。ああ、酷い雨ですね……」

「そうですね」



 お洒落な店内は暗くて、ろくに人がいなかった。好都合だ。奥まったソファー席に通され、差し出されたメニューを受け取る。バーテンダー風の制服を着た、若い男性店員は愛想が良かった。雨だから暇だったんだろうか。すっぴんでトレーナーを着ていても、浮いていない。



「このカプチーノと……ガトーショコラをください。ああ、あとポテトも」

「かしこまりました。カプチーノ一つとガトーショコラ、それからポテトですね。他にご注文はありますか?」

「無いです」



 注文している間もずっと、上の空だった。父が死んだ、あの父が死んだ。酒も煙草もやるくせに、体だけは丈夫な父が死んだ。平静を装って、出された水をちびちびと飲み進める。そう、私は父から買出しを頼まれて。その帰りに疲れて、カフェに寄っただけ。ケーキとポテトを食べようとしているだけ。店内には誰もいなかった。入ってきた時、カウンター席で酒を飲んでいたサラリーマンも出て行った。



「ふ、ふふふふ……ああ、だめ。抑えないと、抑えないと。不気味がられちゃうから、抑えないと……」



 口元を押さえたあと、水を一気に飲み干す。ばくばくとする心臓を押さえていると、さっきの店員がケーキを持って来た。お礼を言ってから、フォークを握り締める。何故かフォークがナイフに見えた。



(私……殺そうと思っていたのに。こうやって)



 ガトーショコラを真っ二つにしようとして、止める。だめだ、店員が見ているかもしれないんだから。しっとりとした生地からフォークを離し、普通に切って食べる。甘くて美味しかった。でも、今は生クリームを添えて食べたい気分だった。甘さが足りない。べったりと甘く、濃厚なケーキが食べたい。



(ああ、死んだんだ……あの男、死んだんだ。良かった、ほっとした)



 異常なほど、高揚感が胸を支配していた。死んだんだ。そうだ、死んだんだ。あの人が殺してくれた、私の父を。ポケットに入れてあった手帳が震える。咄嗟に取り出して、開いてみると、高校の同級生からだった。ああ、そうだ。来週会う約束をしていたんだ。でも、返事する気になれなくて閉じる。



(カプチーノ……美味しいな)



 あの人は今、どうしているんだろう。父を殺したあと、女装してどこかに遊びに行って、この冷たい夜を乗り越えるんだろうか。そんなことを考えながら、カプチーノを飲んでいると、ポケットから鹿が飛び出てきた。どうやら、電話がかかってきたらしい。手帳を取り出して開くと、しゅわりと光になって紙に溶け込んで、“通話中”の文字を浮かべる。



「もしもし?」

「あ、ごめんね? 今って忙しい?」

「忙しくないよ。どうかしたの?」

「いや、それがさぁ、来週のことなんだけど……」



 全然、大したことない話だった。友人が経営しているレストランに行こうねと約束していたが、その前に雑貨屋さんを見て回りたいと。久しぶりにこちらに出てくるからと。



「ごめんね? レティのお父さん、怒るかなと思って。でも、あんまり外出してないんでしょう?」

「ありがとう。気を使ってくれたの?」

「いや、それはそうでしょ……あれだから。またいつもみたいに、私の我が儘にしておいて。だったら、聞くでしょ? お父さんも」

「そうだね……言っておくよ、ありがとう」



 父はいつもいつも、何故かこの友人の言葉には従った。彼女が派手めな美女だからだろうか。この子の前でだけ愛想が良いし、「どうしてもあの子が出かけたいって言うから」と伝えると、渋々頷いていた。でも、もういない。私は好きなように口紅を買えるし、どこへだって行ける。自然と口元が緩んだ。ああ、死んだ、死んだ。あの男は死んだんだ。



「レティ? ……大丈夫?」

「ああ、ごめん。何だったっけ?」

「お土産! この前行った島でさ、仮面を買ってきたんだけどいるー? もちろん、レティの好きなクッキーも買ったよーん」

「何で仮面なの? っふ、ミリアムったらそんなものばっかり買ってきて」

「だって~」



 ああ、でも、良かった。好都合だ。店員に怪しまれずに済む。もしも警察が来ても、「ケーキを食べて、友達と電話していました」と言ってくれるだろう。十五分ほど喋ってから、電話を切る。ありがとう、ミリアム。あなたはいつもいつも、私のことを救ってくれる。さっきまでの高揚感も、少しだけ収まっていた。



「ああ……警察に通報しなくちゃね」



 演技しなくては。父が殺されて、取り乱すふりをしなくては。簡単、すっごく簡単。微笑みを深めてから、カプチーノを飲む。店内は静かで、さっきの店員も暇そうに欠伸をしていた。







 父の死はあっさりと、事件として処理されてしまった。強盗目的で家に押し入った男か女が父を刺し殺し、金目のものを盗んで逃げていった。だが、庭に遺された足跡が大きいことから、おそらくは男。空き家を通って逃げていったらしい。使われた凶器は私の家のキッチンにあった、長いナイフ。警察官は真面目な顔で「リビングで鉢合わせをして、夕食の支度をしていたお父さんを、近くにあったナイフで刺し殺したんじゃないかな?」と言っていた。馬鹿だ。



「まぁ、あっさり騙されてくれて助かったよ……君にもアリバイがあったし」

「グレアムさん……」

「ありがとう。あの時、ショックだったろうにすぐに動いてくれて」



 手を伸ばしてそっと、私の手を握り締めてきた。カフェで向かいの席に座った彼に微笑みかけ、もう片方の手で包み込む。重ねられた手を見て、彼も嬉しそうに笑った。



「じゃあ、俺と結婚してくれる? もうこれで、何の障害も無くなったよね?」

「もちろん……私で良ければ、どうぞよろしくお願いします」



 最初はまず、友人から始まった。彼は大学の先輩で、卒業してからちょっと疎遠になって。一昨年、彼が上司として職場にやって来た。お互いに驚いた。そこから飲みに行ったり、遊びに行ったりするようになって、徐々に関係が深まってゆく。でも、私にはいつも目障りな父がいた。おしゃれをして、出かける私を見て骨が折れるまで殴ったりもしてきた。でも、彼は全部を受け止めてくれた。「逃げよう」と、そう言われたこともある。



(でも、逃げれなかった……私が逃げたら、次は近くに住んでいる弟の番だもの)



 一軒家を購入して、子供も生まれているし。弟はどう足掻いたって逃げれない。私が逃げたことで、弟夫婦に矛先が向くのが恐ろしかった。二年ほど付き合ったのち、彼に別れを告げた。その時にプロポーズをされたが、「父がいるから」と言ってそう断った。黒髪に、青灰色の瞳を持った美しい彼が微笑む。



「これからはずっと一緒だね? ……レティ。良かった」





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