M.レッドウッドパークのファング
「うわぁ~ん!! ママぁ、ママどこなのぉ」
池の近くに座り込んだ、五、六歳ぐらいの少女が泣き叫んでおりました。
そこからさらに三間ほど先の空中に、黒いものが漂っております。
牙獣―――ただし、これまで見たことのあるものとは、あきらかに大きさが異なっているのです。
警戒している私がその場で足を止めていると、彼が先に動きました。
「お待ちを」
彼を制して、一歩前に出ます。
「ここは私が」
「一人じゃ危険だ」
「大丈夫。子供をお願いしますね」
私の身を案じてくれているのか、彼は不安そうな顔になりました。
そんな彼に、そっと微笑みかけます。
「心配いりません。これがございますから」
刀の柄に手をかけると、彼の表情がますます険しくなりました。
「子供を安全な場所まで運んだら、すぐ戻ります。無茶はしないでください」
彼の言葉に軽く頷きを返して、牙獣に向き直りました。
視界の外から伝わる気配。泣いている子供が、彼に抱きあげられて声が遠ざかっていきます。
ひとまずこれで、事なきを得たようです。
ですが、風がわずかにそよいだそのとき、牙獣が動きました。
細い針のような牙がシュッと繰り出され、と同時に抜き打ちの一刀で応じます。
刃を返し、峰で銀色の牙を打つ。すると、狙いが逸れて地面が抉られます。
距離を保って刀を八双に構えると、牙獣がじわじわと移動していくのがわかりました。
池のほうへ。ゆっくり、ゆっくりと、赤子が這うほどの速さで。
「ち―――」
思わず品のない声がもれてしまいました。
池の中から二体目の牙獣が現れたゆえにございます。
しかも、あろうことか。
なんともおぞましいことに、ふたつの黒い塊はたがいを貪るかのようにひっつき、さらに大きな牙獣へと変じたのであります。
黒い霧が、さらなる変化を遂げていきます。
地を踏む四肢が生じ、長い首をもたげた馬体に代わりました。その背より、にゅうと案山子めいたものが現れ、牙獣が人馬を模した姿に形を整えていったのです。
私はその変化を凝視しつつ、静かに気をうかがいました。
相対しているものは、騎士の姿をとってはいても牙獣に変わりありません。
虚実で言うなら、この外見はみせかけにすぎないもの、すなわち虚にすぎないと察することができました。
そこでなんの先触れもなく、対峙していた相手が動きます。
騎馬槍を思わせる長大な牙を掲げて、突進をかけてきました。
体を右に捌いて初撃の刺突をかわすと、騎士の弓手から長柄の鎌が生えてきました。
「騎士にあらず」
相手を嘲る言葉が、思わず口から出てきました。
左右の得物を身のこなしで躱すと、今度は馬面が大きく裂けて、四本の牙を持つ顎が迫ります。
身を低くして鎌の刃先を避ける。
そのついでに噛みつきからも逃れた私は、馬体の左側面に回り込みました。
しかしそこで、相手の無防備をとらえる位置まで来た私に、わずかな油断が生じたのであります。
騎馬の体が右回りにねじられると、蹴り上げられた後ろ足の蹄から銀光を放つ棘状の凶器が生えてきました。
まさかの念が、胸に広がります。
この牙獣は八本のもの牙をそなえていたのです。
「……くっ!!」
息を切らした私が後ろに下がるよりも先に、横から割り込む人影がございました。
逞しい手のひと振りが宙を撫でていきます。
たったそれだけで、目前に迫った牙獣の牙が硝子細工のように砕け散っていきました。
「彼女に手を出すな」
凛とした声を響かせて、彼が私の前に立っていました。
彼は右の拳を握り、牙獣を無造作に殴りつけます。
たったそれだけで、黒色の騎馬の動きが止まりました。全身に亀裂が入ったかと思うと、そこから砕けて黒い塵となり、風に吹かれて消えていったのです。
素手で牙獣を倒した彼が、私を見ながら言いました。
「ケガはありませんか」
「はい……」
「よかった。ましろさんが無事で」
彼の顔に、穏やかな笑みが浮かびます。
私はと言えば、もうその表情を見ただけで他のことはどうでもよくなってしまったのです。
寸鉄も帯びぬ身でありながら如何にして牙獣を倒したのか、などといったことも頭に浮かびはしました。
けれど、余計な詮索をしようという気持ちは、瞬く間に消えていったのです。
春風のように暖かい笑顔によって―――。
そんな気持ちのままに、彼にしがみつこうとする私の足元が突如、激しく揺れだしました。
「ましろさん!! 伏せてください!」
彼がそう言ったのを聞きながら、私は地面が波打つほどの振動に抗いました。
地に伏せた私の目に、池とその周囲の草むらを引き裂きつつ、巨大なものが這い出てくる光景が飛び込んできました。
先ほど見たばかりである騎士の姿をした牙獣よりも、さらに大きな黒色の津波としか言いようのないものです。
揺れる大地を割って、地中から黒い壁が次々と現れました。
倒れて身動きままならぬ、私を囲むように並ぶ壁が銀色の輝きを煌めかせます。
「ましろさんっ……!」
彼の声が響きました。
私を狙う無数の牙。その攻撃をさえぎる位置に、彼が飛び込んできます。
先程と同様に、初撃を手で払うと銀に輝く牙がパキパキと音をたてて砕けていきました。
けれど―――。
四方八方から迫る牙獣の刃が、彼を刺し、貫き、切り裂いていったのです。
「――――――!!」
私の喉から、声にならない悲鳴が迸りました。
その瞬間、心臓がはりさけてしまうような気さえしたのです。
視界がたちまちのうちに暗くなり、魂が消え失せてしまったとさえ思いました。
世界がすべて、砕け散っていく。
そんな感覚を味わいながら、私の意識は暗闇に飲まれていったのです。
「―――さ……よ―――姉さん。起きてください。朝ですよ」
聞きなれた声で目覚めた私は、がばと体を起こしました。
「起きまし……あだっ!!」
勢いがつきすぎて、のぞき込んでいたひさめと額がぶつかりました。
おかげでスパッと目が覚めたのです。
「……夢?」
「あだだだだだだだっ……」
目覚めた私は道場の一角にある、見慣れた自室におりました。
頭を押さえてバタバタと転がるひさめを横に見ながら、私はこれまでの出来事を思い返すのに必死でした。
ともすれば、彼との思い出が―――。
泡沫のごとく手の中からこぼれていってしまいそうで、そうならないようにするためだけで私は懸命になっていたのです。
あの瞬間、いったい何が起きたのか。
数日前に時間が戻ったということだけは、かろうじて理解が及びました。
そんなことが現実に起こりうるのでしょうか。考えれば考えるほど、わからなくなります。まるで、狐に化かされたかのような気分になってしまうので。
そんなふうに、過去へと戻ってからの日々に戸惑う私をよそに、ひさめは以前と同じ日々を繰り返しておりました
「姉さん。私、管理局の用事を済ませてきますね」
日付を確認すると、ちょうど彼とはじめて出会ったという日でございます。
これは好機でございます。
さっそく、ひさめに同行することにいたしました。
ひさめが窓口で職員と話している間に、あたりを見回します。
すると、そこで信じられないことが起きました。
彼が、そこに。
私の記憶にある、そのままの姿でいらっしゃったのです。
「あ、あの……」
彼を目にしただけで、矢も楯もたまらずに声をかけてしまいました。
「あにゃ、う、あ、にゃ」
「えっと。俺になんか用かい?」
「あうあう、うぁ」
緊張のあまり、支離滅裂な言葉しか口から出てこなくなっております。
どうにか意志を通わせようと、必死な私の横を眼帯の女が通りました。
「おい。何やってんだ、ファングぼうや。さっさと仕事いくぞオラ」
「うっせえな。今行くっての」
「あ、あの」
「悪いな。何の用事かわからんが、これから仕事なんだ」
眼帯の女を追って遠ざかる、彼の背をみつめることしかできない私でございます。
「仕事前にナンパなんかしてんじゃねぇよ」
「ちげーよ。そんなんじゃねえっての」
「ハ! 半人前のくせに、口ばっか一丁前になりやがってよぅ」
そんなふうに彼と親しげに話している、オセロットという女は、あまりいい噂を聞くことのない人物でした。実際、私も追いつめた牙獣を横取りされたことがありますので。
もしかして、彼は―――私のような退屈な女よりも、ああいったはた迷惑な性格か、あるいは粗野なふるまいをする異性が好みだということなのでしょうか。
「姉さん、お待たせですっ。どうしました?」
呆然としている私を見て、ひさめが不思議そうな表情になります。
「今の人、知り合いですか? 姉さん。姉さぁーん」
ひさめの呼びかける声を聞く私の胸に、ひとつの思いが浮かびました。
オセロットの手から、彼を奪い返す。
そのために、あの女のやり口を模倣する必要があるでしょう。
戦の教訓にも、敵を知り、己を知れば百選危うからずとございますから。
そう。怨敵を打ち破るため、あえて敵のやり口を真似るのです。
「……姉さん。どうしました。ボーッとして」
「おう。なんでえ」
「なんですか、そのしゃべり方は?」
私の言葉遣いがいきなり変わったためか、ひさめは困惑してるようでした。
何事も一朝一夕というわけには、いかないようでございます。
ですが、彼を我が手に取り戻さんという思いがあれば、その一念が天に通じるに違いありません。
きっと、きっと、間違いないと信じています。
いつの日か、かならず―――彼と、もう一度。
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一人称の練習で書いています。
読みにくい部分が多く、たいへん申し訳ありません。
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・校正をなさってくださる方へ
お手数ですが、ご指摘等をなさっていただく際には、下記の例文にならって記載をお願いいたします。
(例文)
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>~(←ココに修正箇所を引用する)
この部分は、(あきらかな誤用orきわめてわかりにくい表現or前後の文脈にそぐわない内容、等)であるため、「~(←ココに修正の内容を記入する)」と変更してみてはいかがでしょうか。
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以上の形式で送っていただければ、こちらで妥当と判断した場合にのみ、本文に修正を加えます。
みだりに修正を試みることなく、校閲作業者としての節度を保ってお読みいただけると幸いです。
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